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小林あにのブログ一覧

2025年09月17日 イイね!

【新城市】槇原川沿いの伐木作業軌道跡を探索する(2)

2025年8月21日木曜日、新城市内を流れる槇原川沿いにかつて存在していたという伐木作業軌道の跡を探索してきました。

またちょっと長くなりますけど、ここで伐木作業軌道が槇原川の流域に設置された経緯について記していきましょうかね。説明上、本題(軌道の設置)までの前置きも長くなりますがすみません。

まずは「愛知の林業史」からの引用です。この槇原川の流域から宇連ダムに至る山林は「鳳来寺裏山」と呼ばれ、江戸時代までは近隣にある鳳来寺山(標高695m)全域を境内とし、徳川幕府の庇護を受ける名刹「鳳来寺」の寺領でした。

ところが、この寺領の山林は、明治4年(1871年)正月5日付太政官布告の「社寺領上地令」(社寺領現在ノ境内ヲ除クノ外上知被仰出土地ハ府県藩ニ管轄セシムルノ件)によって「上地」(上げ地)対象となってしまいます。ようするに明治新政府に没収されてしまったわけです。「上地」となった山林の面積は1590ヘクタール(15.9平方km)に及んだそうです。

その後、「上地」された山林は官林(国有林)から御料林(皇室所有の山林)へと所属が変遷していきますが、「鳳来寺裏山」の御料林は開発順位の低い扱いだったようで、明治30年(1897年)になっても施業(植林、間伐、伐採等の行為)の対象とならなかったようです(愛知県内では、段戸山の御料林が積極的に開発された。)。

そこで明治末から大正にかけて、ようやく維新後の混乱から体制を立て直してきた鳳来寺が、旧寺領である御料林の払い下げ運動を開始。大正8年(1919年)に1551ヘクタールを66万7千130円の12年賦延納で払い下げを受けることが実現します。

ちなみに、66万7千130円が現在の価値だと何円くらいになるのか? 換算に用いる指標によって変わりますが、3億5千万円から17億円くらいになるようです。

なお、払い下げ代金は、払い下げを受けた山林の立ち木を売却して充当することになり、入札・売却手続きについては条件を付けつつ愛知県へ委任します。

入札の結果、東加茂郡足助町(現豊田市足助町)の加藤周太郎(加周)が111万円で最高札でしたが、予定価格(ここでは入札の最低価格)150万円に及ばず「不調」となりました。しかし、交渉の結果、そのまま加藤氏へ115万円で売却が決定しました。

「加周」(加藤周太郎家は代々木材商・製材業を営んでいて、「加周商店」とか「加周組」とか呼ばれていたようです。)は、買受けた山林から伐採した木材の運搬のために「トロッコ軌道」8kmを設置したそうです。ここでようやく今回の「本題」が出てくるわけです。

内容は一部重複しますが、続いては「長篠村誌」からの引用。「加周」は、大正8年10月から準備し、大正9年(1920年)から伐採を開始。大正10年(1921年)には製炭(木炭の製造)も開始しました。この立木伐採事業が終了したのは昭和4年(1929年)。12月24日に事務所を引き揚げて完了となりました。

「加周」は、この事業のために、約2里(約8km)の「トロ線」(トロッコ軌道)を設けて、製材工場を2か所建設しました。

余談ですが、この伐採・製材・製炭事業には最盛期で1600人が従事していたそうです。そのため、「加周」は現地に私立の小学校や青年訓練所を設置し、青年団も組織。食堂を開いたり、請願して警察官に駐在してもらったりもして、もともと人家がなかった槇原地区に、ちょっとした街が出来上がっていたようです。

「加周」による立木伐採事業に平行して、大正11年(1922年)より、伐採跡地に対して愛知県が95か年の地上権を設定(総面積1021ヘクタール)。ここに県の基本財産形成と模範造林事業地としての使命を帯びた「鳳来寺県有林」の経営を開始し、これが現在まで続いています。

これまた余談ですが、「加周」が買受けした立木伐採事業は、本来「15か年」を掛けて実施する契約内容でしたが、実際には昭和4年で終わり、10年間で事業を引き揚げてしまいました。これは大正13年(1924年)6月16日に発生し、6日間に渡り延焼した「鳳来寺裏山大火」により、伐採対象地域に大きな被害を受けてしまったためのようです。

大火の鎮火作業に際しては、「加周」・県有林の従業員、地元消防団員に加え、豊橋の陸軍歩兵第十八聯隊・豊橋工兵隊まで出動したそうです。

さて、探索の話を再開します。本谷橋から分岐していく破線道へと入ります。


岩を切り取って軽車両が通れるくらいの道幅にしてあります。「愛知縣林業報告」に添付の地図によると、今歩いている道が通っている区域は県有林ではないようです。しかし、これも林道本谷線の支線として整備された可能性はありますね。


岩壁の切り取り工が続きます。


砂防ダムがある沢に遭遇しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

石垣がありますね。かつては橋が架かっていたようです。


道が林の中を直線的に突き抜けていきます。




今度は先ほどの沢よりも深く抉れた沢が出てきました。越えていけるのか?




問題なさそうです。黄色線のように進んでいきます。


来た方向を振り返って眺めます。橋台の石垣は崩れ去ってしまったのでしょうか。


太い倒木ですね。


岩場が現れましたが、その手前で道は途切れています。


少し引き返して、道の下側へと下ります。道の路肩部分には石垣の擁壁が築かれています。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

途切れた道の先には岩盤を深く掘り下げた切り通し。こういう物件は興味を惹きますね。「伐木作業軌道」か木馬道を通すために削ったものなのか、林道へ改築する際に削り直したものなのか。真相は不明です。








こういう絡んだ倒木はめんどくさいです。


また一直線の道が現れました。


土砂で半ば埋まってしまった沢を越えていきます。


どんな山奥でも見かける炭焼き窯の跡。


また小さな沢を渡っていきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここも路盤が無くなってますね。この程度ならそのまま普通に進めますから問題ありません。


ぬた場ですね。


ついに本当に道が途切れてしまいました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

地形図を見ると、破線道はこの場所を渡って対岸へと進んでいるように見えますが、橋台など橋が架かっていたような痕跡は見られません。


川の中を歩いて渡り、対岸を通る林道へと出てきました。時刻はすでに15時半を回っています。ここで引き返すことにします。


交差点へと出てきました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみにこの交差点は、「新設林道」と「在来軌道」の接点と思われる地点。今回は時間切れと体の疲れで、「在来軌道」方面の探索はパスします。


山の上へと向けて一直線に空間が続いています。一体何でしょうかね。高圧線は通っていないので、索道かインクラインの跡のような気がしますが。


川側にも空間が開いています。


林道は真っ直ぐ続いていますが、右側の木々の中に道跡と思しきものがあるのに気が付きました。この辺りから右方向へと逸れていくので、跡を追ってみることにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

明瞭なものではありませんが、道跡が林の中にずっと伸びていきます。






川べりへ出たところで途切れてしまいましたが、先を眺めると道跡の続きらしきものが見えています。


この削り込み方は道跡で間違いないようです。ただ、幅が狭いですし、「新設林道」のルートとは若干違うので、もしかすると、この区間は改築されずに残った「伐木作業軌道」そのものの跡かもしれません。


また途切れてしまいました。河原まで下りて先へと進みます。


道跡が復活しました。


石積みの築堤が現れました。




川で途切れてしまいました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

対岸を眺めています。空間が開いている場所へと橋が架かっていたと思われます。


ここも川の中を歩いて渡ります。


林道本谷線へと再合流しました。往路では赤色線の所から出てきました。帰りはこのまま林道を進んでいきます。


この後は特に目立ったものを見つけることはなく、三河槇原駅へと戻ってきました。


今回の探索のルート図です。探索時間は3時間40分、移動距離は9.2kmでした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ネットで簡単な下調べを始めた時は情報が少ないなと思っていましたが、ネットや図書館で調べ直してみて、国立国会図書館デジタルコレクション、「愛知の林業史」、「長篠村誌」などで、槇原川の流域に「伐木作業軌道」が設置された背景という、今まで知らなかった事柄を知ることができたのは興味深かったですね。

今回探索した道跡そのものは、もはや90年以上前の「伐木作業軌道」跡なのか、改築後の「新設林道」跡なのか、全然関係ない道跡なのか、明確に区別を付けようもありませんでしたが、いろんな興味ある遺構を見つけることができましたし、満足いく探索でした。
Posted at 2025/09/17 00:08:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2025年09月12日 イイね!

【新城市】槇原川沿いの伐木作業軌道跡を探索する(1)

2025年8月21日木曜日、新城市内を流れる槇原川沿いにかつて存在していたという伐木作業軌道の跡を探索してきました。

探索内容を書く前に前置きを少々。

さて、ここ1年ほど廃道や廃線の探索をすっかりしなくなっていました。段々とネタ探しをネットなどですることをしなくなっていましたし、山歩きに出かけようという気分自体が乏しくなっていました。

ようやく最近「また探索へ出かけようかな。」という気持ちが戻ってきて、「ひとまずは近場で適当なところを探してみようか。」と地形図で愛知県内の山地を眺めていました。

そんな中で、新城市の槇原川の流域が比較的なだらかで幅広な地形であり、かつ破線道の表記が川沿いにあり、「木馬道の跡とか残っているかも。」とひとまず探索地の候補としました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

いつものように探索の下調べとして、槇原川流域の山行記録などがないかネットで検索してみたのですが、ここでヤル気が上がる(笑)記事がヒット。内容は、「飯田線三河槇原の奥にあった『作業軌道』の地図をやっとみつけました。」というものでした。「軌道」ということは、レールが敷かれた輸送手段を用いていたということです。

地図が掲載されていた資料名とリンク先も付記されていたのでさっそく閲覧。

「国立国会図書館デジタルコレクション」に収録されている昭和6年(1931年)発行の「愛知縣林業報告 第弐拾八號」中、昭和4年(1929年)の事業内容として「第二模範縣有林」の項目に、「當縣有林中槇原本谷ニ屬スル所謂本谷県有林内ノ現在ノ造林保護手入及將来ノ利用開發ヲ計ランガ為メ槇原林道終点ヨリ本谷渓流沿ヒ23林班内ニ至ル在來の『伐木作業軌道』二、〇二〇米(2,020m)ヲ幅員二米(2m)ノ車道ニ改築ス」とあり、ルートが記された地図が添付されていました。

地図は手書きのものでしたが、現行の地形図に落としてみるとこのようなルートになると思われます。添付地図の凡例によると赤線区間は「新設林道」、青線区間は「在来軌道」と表示されています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「槇原林道終点より2.02km」という文章の内容から推測すると、「新設林道」区間が「伐木作業軌道」を改築した区間だと考えられますが、「改築」なのに「新設林道」? 矛盾を感じる記述ですが、林道としては「新設」だからということなのでしょう。

何にしても、「伐木作業軌道」は昭和4年(1929年)の時点で幅員2mの「車道」へと改築されたとみて間違いなさそうです。なので、今回は約96年前に車道へと改築された「伐木作業軌道」跡を探索するということになりますかね。

さて、今回の出発地となるJR飯田線の三河槇原駅へとやって来ました。ここから槇原川へと向かいます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは旧望月街道にある槇原トンネル。旧望月街道は、宇連川の右岸に明治10年(1877年)から明治19年(1886年)にかけて開削された街道です。街道名は、巨額の私費を投じて街道の開削に尽力した地元の豪商「望月喜平治」に由来します。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

槇原トンネルの全景。左岸側を通る別所街道(現国道151号)がメインルートとして継続的に改良されたため、宇連川の右岸側を通る旧望月街道は、現在も軽四が通るのがやっとの箇所が多いそうです(なので、私は旧望月街道を走行したことがありません。)。








槇原トンネルから宇連川とJR飯田線を見下ろしています。


槇原川沿いを通る林道本谷線へとつながる路地へと来ました。どこまで進むことができるのか。おもしろいものが見つかるのか。楽しみですね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今のところは、ごくありふれた砂利道の林道が続いています。


山側にコンクリート構造物が現れました。これは、かつてこの場所に存在した採石場の搬出施設だそうです。ダンプの荷台を構造物へ入れて、上から砕石を流し込んで積み込みしていたみたいです。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

昭和33年(1958年)発行の「長篠村誌」によると、東京や奈良方面へ鉄道用のバラストを出荷していたそうで、昭和30年度(1955年度)は21,115トン出荷したそうです。

林道を外れて、槇原川の河原へと下りてきました。ここまで槇原川の左岸側を歩いてきましたが、探索対象である「伐木作業軌道」や後継の車道林道は右岸側を通っていたので、右岸側へと取り付くためです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

本当は最初から右岸側の林道を歩いて行きたかったのですが、水源地があるという理由で右岸側林道の入口ゲートは強固に封鎖されていたため(たいていは、登山目的などの歩行者が通行できるように隙間が設けてある。)、左岸側の林道から迂回していったわけです。

「ナメ沢」と言うんですかね。川床が滑らかになった岩に覆われています。ただ、川床の一面に茶色の苔が生えていて非常に滑りやすく、歩くのになかなか難儀しました。




今回の探索の本当のスタート地点と目していた、破線道が分岐する場所にようやく到着しました。ここから林道を外れて、木々の間へと突っ込んでいきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

林道から外れてすぐに川へとぶつかり、道跡が途絶えました。


側面へと下りて確認すると石積みの橋台が残っていました。


対岸を見ますが、木々が生い茂り、対となる橋台などを見い出すことはできません。


川の中をザブザブと歩いて渡って対岸に取り付き、木々の中へと入り込んでいくと、低い築堤が続いていました。地形図の破線道のとおりに道跡は残っていそうです。


二股に分岐しているように見える場所へ出ましたが、周囲を確認してみると左側が道跡のようなので、そちらへと進みます。


間違いなかったようです。植林地の只中を一直線に道跡が伸びていきます。




見づらいですが、谷側の路肩に苔むした高い石垣があります。




山側にも背の低い土留めの石垣があります。これらの石垣は、2m幅の車道へ改築された際の遺構のような気がします。


眼下を流れる槇原川までは10m~15mくらいの高低差でしょうか。


ここも一直線の道跡を遠くまで見通すことができます。


路肩に低い石組みが残っています。


そして長い左カーブが続いていきます。


カーブが終わるとふたたび川へと出てきました。橋の跡ですね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらの橋跡は、先ほどの橋跡と比べて、しっかりとした形で石積み橋台が残っています。


そして川の中を眺めると、コンクリート造の橋脚が1基残っています。ここまで石垣くらいしか目立った遺構がなかったので、思わず「おっ!」と声が出ます(笑)。


この橋脚、間違いなく昭和4年の車道改築時に新造されたものでしょう。現代のコンクリート建造物と比べると粗い表面の造りです。


橋脚の上流側には、三角形の水切りがきちんと付けられています。




対岸の橋台。木や草、苔に覆われて、写真では視認しづらいです。




対岸の橋台の背後へと回ります。橋台に続く築堤も石垣で覆われています。


橋台へ続く築堤の上に登ってみます。


程なくして、ふたたび林道本谷線へと合流しました。ここからしばらくは本谷線を歩いて行きます。


川の中に直線上に盛り上がった岩脈。この付近は凝灰岩に安山岩が貫入した地質が各所に残っていますが(宇連ダムのダム湖に大規模なものが存在する。)、これもその一つなのかもしれません。


本谷橋までやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「新設林道」はこのまま本谷橋を渡っていきますが、現役の林道をこのまま進むのも面白味が無いので、本谷橋から槇原川の上流方向右岸側に続く破線道を辿ってみることにします。
Posted at 2025/09/12 01:00:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2025年09月06日 イイね!

「竜神の滝」と「大平宿」へ行ってきました

2025年8月14日木曜日、お盆休みということで家族4人でドライブにお出かけしてきました(私はたまたまこの日は仕事がお休みだっただけですけどね。)。

最初に訪れたのは、岐阜県中津川市川上にある竜神の滝。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

駐車場から滝へと向かって歩いて行くと、真新しい説明板が立っていました。


約1か月前の7月10日に記録的短時間大雨がこの周辺に降った影響で、散策路に被害が出ているようです。滝自体は眺めることができるようなので、このまま進んでいきます。

最寄りの展望台の直前で少々順番待ちをする羽目になりましたが、ようやく到着しました。こちらが「竜神の滝」です。


違う方向へ目をやると、大雨による土石流で岩盤が剥き出しになってしまった沢や、橋桁が流されたのか橋台だけが残る橋の跡が見えます。




こちらは展望台の上側にある神社の傍らから眺めた竜神の滝。


滝へと向かう散策路の途中から分岐していた吊り橋へとやって来ました。




吊り橋の上から竜神の滝を眺めます。展望台の下には河原へ降りる仮設階段がかけられていましたが、通行不可になっていました。


吊り橋の先は通行止めになっているため、このまま引き返します。


さらに下流に架かる橋まで来ました。この辺りの河原でしばらく一休み。




竜神の滝の見物はこれにて終わり。「このまま帰るか、それとも他にどこか行くか?」との話になり、「それなら、この辺で山の中にあった宿場の跡へ行ってみるか。」ということで移動を開始。

国道19号、国道256号、長野県道8号と通り、旧大平街道の宿場である「大平宿」へとやって来ました。今までにも何度か訪れている場所です。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧大平街道は、1754年(宝暦4年)に飯田藩によって飯田の街と中山道妻籠宿を結ぶために建設された街道です。大平宿は、この街道の開通により新たに開墾された土地に開かれた宿場です。

宿場の最盛期は、中央本線が三留野駅(現南木曽駅)まで開通した1909年(明治42年)の頃から大正時代にかけてだそうで、飯田の街と中央本線を結ぶ重要な街道として、この宿場も戸数70戸を数えたようです。

その後、1923年(大正12年)に当時の伊那電気鉄道(現JR飯田線)が飯田駅まで延伸されてくると、わざわざ険しい峠を2つ(飯田峠と大平峠)も越えて中央本線が通る木曽谷へと向かう必要は無くなり、街道は衰退していきます。

最終的には1970年(昭和45年)に、「もはやこの土地での生活は立ち行かない。」として集落の住民は集団移住を決断し、廃村となりました。

現存している戸数はだいぶまばらですが、集落の家屋は今も有志などにより維持されていて、今回も車が停まっている家がありました。






これはポンプ車なんですかね。箱には「昭和十一年十一月新調」と書かれています。昭和11年は1936年ですから、書かれているとおりなら、89年前のものということになりますね。


残されている家屋には、江戸時代に立てられたものもあります。




宿場の飯田側の端まで来ました。ここで折り返します。




こちらは、丸山小学校大平分校跡(旧大平小学校)。住民が集団移住した1970年(昭和45年)11月に閉校となりました。立入りが禁止されているので、敷地外からの撮影です。






大平宿を一回りしたので車へと戻ります。国道19号方面ではなく、長野県道8号(旧大平街道)を飯田市街地へと向かって走ります。昔の街道を引き継いだ県道なので、ひたすら地形に合わせてクネクネと進むことになります。

ようやく山の中から市街地の入口へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

大平街道の石碑。石碑の側面には「自明治三十二年 至明治三十八年改修」とあります。


この石碑は、明治32年~38年(1899年〜1905年)にかけて実施された大平街道の改修工事が完成したことを記念したものです。

改修工事が実施されたきっかけは、中央本線が伊那谷ではなく木曽谷の通過を決定したため。これにより飯田の街と中央本線を結ぶ道路の改修の必要性が建議され、大平街道の改修工事を実施。荷馬車の通行が可能になったそうです。

この場所で小休止した後は国道153号へと出て、高速道路には乗らず、そのまま国道で愛知県へと戻っていきました。
Posted at 2025/09/06 23:33:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

プロフィール

「【新城市】槇原川沿いの伐木作業軌道跡を探索する(2) http://cvw.jp/b/1796277/48659559/
何シテル?   09/17 00:08
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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