2023年4月2日日曜日、三重県熊野市・尾鷲市境にある鳥越隧道とトンネルから尾鷲市賀田町へと続く鳥越林道を歩いてきました。
さて、前回(1)で鳥越隧道を通過。
翌日が月曜日なので、本当はトンネルだけ見て帰ろうかと思っていましたが、トンネルの先に続く廃道の状況を見て、「もう少しだけ進んでみるか。」という気分になってしまいました(笑)。
さっそく路上にはたくさんの石が散らばっています。その中に石列が見て取れ、本来の路肩の位置を示してくれています。
ガスボンベと大型の炊飯器らしき物が転がっています。
コンクリートブロックで造られた小さな小屋。何を入れていたのでしょうか。
広場へと出てきました。パッと見では何か建物があったような雰囲気はありません。
何となく道跡が広場の先へと続いているようには見えるので、そのまま広場の中を通り抜けていきます。
ふたたびはっきりとした道跡になってきました。
この付近でふと頭上を見上げると高い岩壁が見えていました。どうやらこの辺りはかつて採石場だったようです。尾鷲市賀田町は花崗岩の採石が盛んで、実際、このまま鳥越林道を下っていくと、現役の採石場内を通過することになります。
先ほど見たガスボンベやコンクリートブロック積みの小屋も、採石場が稼働していた頃の遺物かもしれません。
路肩に石組みの擁壁が現れました。険しい地形に開削された林道なので、この先もどんどん現れてくるでしょう。
巨木が廃道を塞ぐように倒れ込んでいます。樹皮がすっかり剝けてしまっているので、ずいぶん前に倒れたようです。
鳥越林道の建設は、飛鳥村小又~賀田港間にトラックが通行することができる道路を新たに開削することが目的でした。そのため、当初から道幅は3.7mで設計されており、明治期車道に比べると道幅にゆとりがあります。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
同じく尾鷲市の南部にある矢ノ川峠の昭和道・明治道を歩いた時も似たような光景でしたが、とにかく路上への落石が多いです。表土が薄くて、すぐに岩肌が剥き出しになってしまう箇所が多いからでしょう。
高さ5mほどに積もった崩土の上を越えていきます。路面が崩落しているよりは、盛り土になっている方が状況としてはずっと良いですね。
廃道だから当然ですが、落石や倒木が次から次へと現れます。全く管理されていない林道ですから、まさに荒れるに任せる状態なわけですが、この程度なら廃道気分を満喫するにはちょうど良い感じです(笑)。
曲線を描いて奥へと連なる石垣。
路面の山側にもわざわざ石を列状に埋め込んであります。矢ノ川峠明治道でも見かけますが、尾鷲市周辺での古い時代の道路建設の特徴なのでしょうか。
珍しくきれいな路上。
先程も出てきましたが、廃道を歩いていて曲線の石垣を見るとつい「絵になるなぁ。」と思ってしまうんですよね(笑)。
また荒れた場所を通過していきます。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
この廃道を木材や物資を満載したトラックが往来していたとは、今見る限りでは想像もできません。
前方が明るくなってきました。
廃道が川を渡って、谷の反対側の斜面へと折り返していく場所まで来ました。谷川を塞ぐように設置されている砂防ダムには、大量の土石が積もっています。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ここで引き返そうかと思いましたが、もう少し先でまた川を渡るようなので、そこまで進むことにします。
小さな橋が現れました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
橋には、小さな親柱と背の低い高欄が設けられています。親柱には何も記されていないので、橋名はわかりません。
「もうそろそろ切り上げて帰らないと、東名阪道で渋滞に巻き込まれるなぁ。」と頭の中で考えていますが、どうしても帰ることができません(笑)。
「あっ!石造の暗渠だ!」。コンクリート造りが普及してきている昭和戦前期に建設された林道(しかも三重県が建設。)なので、こういうものは全然期待していなかった分、小躍りしてます(笑)。
しっかり撮影しておきます(笑)。
予想外の「獲物」を収穫してようやく踏ん切りがついたので、これにて引き返すことにします。少しだけ進むつもりが、結局、トンネルから1時間20分も歩いてしまいました(笑)。
三重県道70号まで続いている鳥越林道の内、歩いた距離は4分の1くらいでしょうか。メインディッシュは鳥越隧道だったので、日を改めて続きを探索するかどうかは微妙ですね…。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
岩壁の切り取り工に残っていた発破の跡。
帰り道は足早に戻っていきます。
鳥越隧道の賀田側坑門まで戻りました。
このトンネル、内部は一直線ですが、反対側の坑口からの光は見えません。いわゆる「拝み勾配」(トンネル内部に「へ」の字形の勾配が付けられている。)となっているためです。
唐突ですが、「鳥越林道・鳥越林道を歩く(1)」をアップした後、ネット検索で「縣營林隧道工事に就て」(日本林學會誌 第十八巻 第三號 昭和10年(1935年)4月8日受理)という論文を見つけ、これが鳥越隧道の工事概要を記していました。
この論文によると、トンネル内には賀田側坑口から232mは30分の1(3.3%)、小又側坑口から200mは200分の1(0.5%)の勾配が付けられているそうです。
トンネル内に残っていた発破の跡。
賀田側坑口からの勾配がきつめに設定されているので、写真で見ても上り坂であることが何となくわかるかと思います。
トンネル中央部の拡幅部分へ来ました。
この拡幅部分、開削時点でこのように造られていたのか、後年の工事で拡幅されたものなのかが疑問でしたが、これについても論文に記載があり、開削時点から存在することがわかりました。
論文中、「5.設計変更及び竣工成績」という項目に「本工事は前述の通り工事の進捗に伴い、覆工を著しく減少して差支無い事が判明したので、設計を変更して坑内の中央に待避場(延長30m、路幅6.4m)を新設し、(以下略)」とあります。
小又側の坑口へと戻ってきました。
鳥越隧道は坑口付近のみコンクリート覆工されていますが、当初計画では賀田側坑口からは10m、小又側坑口からは70mを覆工する予定だったものが、「工事実施の結果、東口(賀田側坑口)6m、西口(小又側坑口)15mで十分であると認めたので、設計を変更した。」とあります。これによって多額の経費を節約できたともあります。
トンネル前から浅谷越林道を見ています。最初にグーグルマップで現地確認をした時は、「トンネル前に車を停められそうだな。」と思っていましたが、現地を見て「これだけ段差があると無理だな…。」という訳で、やや離れた路肩へ停めたわけです。
無事に車へと戻ってきました。
最後に鳥越林道の開通後の出来事を列記しておきます。
昭和11年(1936年)3月、飛鳥村・南輪内村両村長は、新宮営林署を通じて大阪営林局へ林道修繕費として木材・木炭の輸送量に応じて交付金を下付されたいと出願(営林署が木材・木炭を賀田港へ輸送する際に鳥越林道を利用するようになったため。)
昭和11年4月3日、鳥越林道の開通祝賀会を南輪内村の賀田小学校で300名余りを招いて開催。
昭和11年10月、飛鳥村からの提案で、鳥越林道を利用する自動車・牛馬車から飛鳥村・南輪内村両村が通行料を徴収開始。利用距離3km以上は木材価格の1%、3km未満は0.5%。ただし、木材が南輪内村着の場合はすべて0.5%。
昭和11年10月、矢ノ川峠の県道改修がなり、輪内~尾鷲間に初めて自動車が通行する。楽器材として使用する木材が、紀勢東線尾鷲駅まで自動車で出荷されるようになる。
昭和19年(1944年)・21年(1946年)の大地震により大損害を受ける。「生活再建整備事業」の補助を受けて、昭和22年度(1947年度)に全線改修。
昭和23年(1948年)5月11日、南輪内村・北輪内村・飛鳥村の各村長連名で、鳥越林道の県道編入を三重県知事へ願い出る。鳥越林道の維持管理に南輪内村と飛鳥村を合わせて毎年約15万円の出費を要しており、村財政を圧迫していたため。
昭和24年(1949年)10月29日、正式に県道移管が認可される。三重県道「南輪内~五郷線」となる。
昭和34年(1959年)7月15日、紀勢本線全通。賀田駅開業。
昭和43年(1968年)4月6日、矢ノ川・弓山・大又の各トンネルを通過する国道42号矢ノ川峠越えの新ルート開通。
昭和44年(1969年)7月1日、国道42号新道と賀田港を連絡する道路が県道中山線となり、県道南輪内~五郷線は鳥越隧道を境に尾鷲市道・熊野市道へ格下げとなる。
ざっくりですが、鳥越林道の歴史は以上となります。
賀田地区での林業の衰退、紀勢本線の全通と賀田駅の開業、国道42号矢ノ川峠越えルートの新ルート開通と県道中山線の接続などの理由により、狭くて急坂で荒れ道で維持費もかかり、地域の中心地である尾鷲市街地へも大回りとなってしまう鳥越林道の存在価値はどんどんどんどんと低下していき、ついに廃道となってしまったわけです。