2021年10月23日土曜日、三重県尾鷲市と熊野市の境にある矢ノ川峠(標高:807m)を越えるルートのうち、通称「矢ノ川峠明治道」と呼ばれる廃道を歩いてきました。
今回歩いた推定ルート図はこちら。赤線が明治道になります。ちなみに黒線が昭和道になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
※その2からの続きになります。
坂を登り詰めるとヘアピンカーブに突き当たりました。
正面には高く積み上げられた石積み擁壁が見えています。
ヘアピンカーブの頂点まで進んでから振り返ります。ここは2つの連続ヘアピンカーブで一気に高度を稼ぐようです。進む先の山側にも石積み擁壁が見えています。
連続ヘアピンカーブで上っていくような場面は、当然今までにもいろいろな場所で見てきましたが、けっこう薮や草むらに覆われてしまい、全体像がはっきりしないケースが多く、これだけ鮮明に道跡や石積み擁壁を含めた連続ヘアピンカーブの景色を拝めるのは、廃道好きとしてはちょっとした興奮を覚えますね(笑)。
中段の道跡を進んでいきます。
中段の道跡の山側に残る石積み擁壁。ここまで石垣の類は苔むしたものがほとんどでしたが、なぜかここの石垣はあまり苔むしていません。
今歩いている中段の道跡を支えている石積み擁壁は、積み方が野面積みですが、上段の道跡を支えている石積み擁壁は谷積みになっています。
野面積みは自然石(整形していない石)を積み上げていく方法で、谷積みは整形した石を斜めにして積み上げていく方法です。道路沿いや鉄道沿いの古い時代の土留め擁壁は、野面積み・布積み(整形した石を目地が揃うように積み上げる方法。)から谷積みへと変化しているようです。
なので、ここの谷積みの擁壁は、明治道の拡幅工事の際に野面積みから積み直されたものかもしれません(あくまで想像ですが。)
もう一つのヘアピンカーブで振り返っての写真です。
この連続ヘアピンカーブ区間にやって来て、最初に見上げていた高い石積み擁壁です。こちらの石垣は全体が苔むしています。
この地点から左手の山側を見上げると、高い場所に野面積みの石積み擁壁が見えています。これからあの場所を通っていくわけです。
ヘアピンカーブを挟んでうねりながら上ってくる道跡を見下ろしています。羊腸の道というには距離が短過ぎますが、この場所も明治道のハイライトの一つと言えるでしょう。
ただ、明治道の紹介記事を上げているのは登山者の方々が多いのですが、この場所については誰も取り上げられてはいなくて、そこはやはり興味を覚える視点の違いを感じますね…(そりゃ当然だ。)。
連続ヘアピン区間からさらに進むと、ほどなくしてまたヘアピンカーブが現れます。
このカーブの外側にも水準点の標石が残されています。ここも国土地理院の管理からは外れているようです。
ここからは短い距離ですが、尾根道になります。
谷積みの石積み擁壁で路盤をかさ上げしてあります。
尾根道区間が終わり、左へと屈折してふたたび山腹に取り付きます。
今までのうっそうとした植林地や雑木林の中を通っていた時とは雰囲気が変わってきました。
先ほど、下から見上げていた石積み擁壁です。見てのとおり粗い積み方ですが、路盤はしっかり残っています。
石造暗渠を発見。沢があるわけではないので、水抜きのためでしょう。
廃道を歩いているといちいち石造暗渠を取り上げていますが、特に暗渠マニアという訳ではありません(笑)。めぼしい遺構が少ない廃道歩きでは、どうしても石造物に目が行ってしまうだけなのです。
瓦礫は多いですが、快適な廃道が続きます。
前方の道跡が怪しくなってきました。
道跡は残っていますが、全面に岩が流れ込んでいます。そんなに大きくはないので、足元に気を付けて通過します。
橋跡を越えていきます。
何か見覚えのある景色になりました。
明治道の紹介記事の写真にあった路上に根を這わせている木ですね。
梅雨時に来ると木々や苔の緑がもっと色鮮やかでフォトジェニックになりそうです。
斜面から岩が道跡へとあふれ出しています。すべて苔むしているので、相当以前に流れ込んだのでしょう。
鋭角なヘアピンカーブです。乗合自動車は何度も切り返して上り下りしていたのでしょうかね。
少し歩くとまたヘアピンカーブです。この辺りが「七曲がり」と呼ばれた難所のようです。
この場所で3つ目のヘアピンカーブです。カーブは鋭角で道幅も狭いし、自動車にとってこれは難所ですね。
ヘアピンカーブの奥側から振り返って撮っています。道跡が荒れすぎていて、写真を見るだけでは一瞬何のために撮ったのかわかりません(笑)。
前方が巨岩群で埋もれていますね…。
乗り越えた先は、また平穏な道跡に戻りました。
ずいぶんと標高を稼いできました。国道42号のロックシェッドが真下に見えています。
またヘアピンカーブです。
土砂崩れに道が埋もれてしまったりと、道跡の状況が悪くなってきています。
炭焼き窯の跡ですね。円形に積まれた石垣の土台が残っています。
またヘアピンカーブです。あまり急坂にならないように繰り返しヘアピンカーブを設けて、ジグザグに山を上っていきます。
巨石が転がる風景もすっかり当たり前の光景になりました(笑)。
谷側は切り立った崖になっています。
石畳がありました。
岩壁と木立ちで回廊のようになっています。
橋跡を通過します。
倒木が折り重なっていて、通り抜けるのが厄介ですね。
路肩の石積み擁壁。このようなアングルで撮るために路肩から身を乗り出しています。ちゃんと岩や太い木を足場にしていますから。
山側は岩盤を削り込み、谷側へは石垣を積んで造られた狭い道跡を進んでいきます。
道跡を眺めていると、山肌が凹んでいる場所や斜面が急な場所には石垣の積み上げて路盤を確保してあり、急峻な地形にどうやって幅のある緩やかな道を通すか相当苦心したことが見て取れます。
少し落ち着いた雰囲気になってきました。
見覚えのある石垣がある場所へ出てきました。どうやら、矢ノ川峠昭和道を歩いた時に安全索道小坪駅跡へ行こうとやって来た場所に着いたようです。
もう少し先へと進みます。
単なる斜面にしか見えませんが、ここが明治道(左側)と安全索道小坪駅跡へと向かう道跡(右側)の分岐点です。
このように書きましたが、実はこの時点でも右側の道跡を進むと安全索道小坪駅跡へ行けるとはわかっていません。
まずは昭和道訪問時に確認していなかったこの道跡の先が、どのようになっているのかをあらためて確認するつもりで進み始めました。
ちょっとした広場を通り過ぎます。
おそらくは、この場所にロープウェイと木本(現:熊野市)とを結ぶ乗合自動車の発着場があったのでしょう。
これといった案内も見当たらないまま道跡を進んでいきます。
平場へと出たら、奥にコンクリートのブロックのようなものが見えています。「ここに小坪駅跡があったのか…。」とちょっと気が抜けました。
駅跡と言っても、建物の跡らしきものは見当たらず、ロープウェイのゴンドラを巻き上げる機械が設置されていたコンクリートの土台が残るのみです(機械が設置されていた当時の絵葉書が検索できます。)。
これで矢ノ川峠明治道を踏破しました。厳密に言うなら、前回昭和道を歩いた時についでに探索した部分も踏破するべきでしょうが、リスクが高いだけで結論はわかっているので(八十谷林道に吸収されつつ、矢ノ川隧道付近で昭和道と合流する。)、これで終わりとします。
さて、帰り道は「比較的」道の良い昭和道を通っていこうかとも思いましたが、明治道に対して迂回する距離が長すぎるので、やっぱり距離の短い明治道を戻って帰ることにしました。
12時40分過ぎ、安全索道小坪駅跡を出発。
13時50分、矢ノ川峠明治道入口を通過。
14時15分、国道42号葛篭谷橋の駐車帯に停めた車へと帰ってきました。
行きは写真を撮りながらだったので3時間20分くらい掛かりましたが、帰りも多少は写真を撮っていましたが、基本は早歩きだったので1時間35分ほどでした。時間差から考えると、2時間近く写真を撮るのに費やしたという訳ですね(笑)。実際、写真はカメラとスマホを合わせて600枚以上撮っていますからねぇ。人様から見るとこれが多いのか少ないのかは見当つきませんが。
これで矢ノ川峠の昭和道と明治道の踏査は終了。比較的情報量の多い昭和道に対して、情報の乏しい明治道は自分の目で確かめたい気持ちが強かったので、ひとまず満足といったところです。
個人的には明治道の魅力は後半部分がより強いですかね。森林の山道よりは、険しくて岩盤を剝き出しにした場所を通過するような廃道が好みですし、石造物も山の上へと進むほど豊富になってきますからね。
さて、この周辺でほかに歩ける廃道・古道だと、「八鬼山越え」など江戸時代以前の街道跡である熊野古道の各峠の道といったところでしょうか。これは自分が一応のターゲットとする「明治期荷車道以降の廃道」という範疇からは外れてくるので、これで矢ノ川峠周辺を訪れることは当面ないかと思います。
と言いつつも、明治期荷車道以前の峠道でインターネット上で紹介されていないマイナー案件のルート探索にも、「来たついでに。」と手を出したりはしているので(ごく最近では長野県平谷村の三州街道治部坂峠道とか岐阜県高山市荘川町の郡上・白川街道軽岡峠道とか。どっちも笹や篠竹が密生していて、ひどい目に遭いました(笑)。そのうち載せるつもりです。)、熊野古道を歩きに来てみるのも良いかもしれませんね。