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小林あにのブログ一覧

2021年12月18日 イイね!

旧三州街道 治部坂峠道を探索する

2021年11月7日日曜日、長野県下伊那郡平谷村に残る国道153号 治部坂峠の旧道を歩いてきました。治部坂峠の阿智村側にある駐車帯から出発し、平谷村靭(うつぼ)まで断続的に残る廃道・旧道を歩き、ふたたび治部坂峠まで戻ってきました。


この時点で時刻は13時40分となっていましたが、そんなに時間はかからないだろうと踏んで、さらにもう一つの道跡を探索しに行くことにしました。旧国道ルートの前身である「旧三州街道」の治部坂峠への峠道です。

ちなみに旧街道の峠道に関する事前情報は全く無し。旧三州街道を歩いた方々のブログなどを探して読んでみた限りでは、国道153号の旧道・廃道を歩いて治部坂峠を越えたという内容のものばかりでした。

車道(荷馬車道)改修以前、まだ徒歩道だった街道が峠越えするルートは、峠付近までは谷沿いを通り、峠の直下まで来たら一気に峠へ向かって登っていくパターンが多い気がします。

そこで治部坂峠付近の地形図を見ていて私が推定したルートは下図のとおり。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

谷筋から峠へと登っていくルートは、一気に登っていくとは言っても、緩斜面があるならそこを通った方が少しでも楽だろうという見当によるものです。

まあ、もともと旧街道の峠道は今回探索するつもりはなかったのですが、前話の最後に歩いた旧国道の切れ端が残っていた場所がちょうど推定ルートにした緩斜面の上部だったので、「ついでに探してみるか。ハズレなら戻ってこればいいし。」という程度の感覚でのスタートです。

旧国道から少し斜面を下りてみると、明らかに人為的と思われる凹みがすぐに見つかりました。「これは旧街道によくあるU字型の堀割り道だよねぇ。」


ちょっと話は逸れますが、私のブログはよく旧道・廃道の写真を載せているわけですが、弟に時折「こんな木や林ばかり写っている写真なんか見ても、どこに何があるか全然わからん。」ということを言われます。

そこで、今回は写真に目印となる線などを書き込んでみました。黄色の線で描いたルートに道跡が見受けられます。


「これは期待できそうだから、もうしばらく下っていってみるか。」とさらに斜面を下りていくことにします。

なにぶん緩斜面なので、はっきりと言える程の道跡は残っていませんが、微妙な地形の凹凸や木々の生え方などを見極めながら進んでいきます。




「これはもうはっきりとした道跡なんじゃないか?」




「間違いないなぁ。これは進んでいくしかないなぁ。」。パッと見は単なる杉林と熊笹の海にしか見えませんが(笑)、もう確定ですね。




胸元ほどの高さになる熊笹の薮に分け入り、カメラを持ち上げてバンザイしながら進んでいきます(笑)。


ただただ笹薮をかき分けて道跡を進んでいく写真をしばしご覧ください(笑)。道跡は確かにありますが、特記するほどの「何か」までは無いのです…。




























ようやく熊笹などの薮の無い、はっきりとした道跡が見える場所に出ました。なかなか道幅が広いです。


幅広の坂を下ると一旦左へとカーブしたあと、すぐに右ヘアピンとなります。この辺りが緩斜面の下端部になります。








ここからは沢に沿った谷筋の道となります。この辺りで時刻は14時を回ったところですが、日射しはまるで夕方のようです。




道跡を断ち切るような深い沢が現れました。本来はもっと右側(上流側)に迂回して沢を渡っていたのだと思われますが、写真を撮った地点から上流側は崩落したのか道跡が消えています。


目の前の沢を渡る一番簡単な方法は、写真に写っている橋を渡ることですが、どうにも渡る気になれませんでした…。橋自体は、高圧線鉄塔の巡視路用に架けられた金属製のものです。ただ、渡し板が木製で腐り気味…。踏み抜いたら3mくらい落ちることになるので、ちょっと洒落になりません。

結局、少し戻って道跡に並行していた沢に下り、沢の中を歩いて対岸に取り付くことにしました。




取り付きやすそうな斜面を見繕って、直登して道跡へと復帰します。


無事に旧街道の道跡に復帰しました。


復帰した場所からわずかな区間ですが、崖地のような険しい地形を通過します。


開けた場所へと出てきました。


真上を高圧線が通っています。そのために刈り払われているのでしょう。


しばらく歩くと左斜めへと分岐していく道筋があったので、そちらへと進んでいきます。




ここで今回初めて石仏に出会いました。この道跡が旧街道である大きな証拠になります。こういう時は思わず声が出ます(笑)。


初めは石仏が二体あるのかと思いましたが、石仏だったのは左側のみで(馬頭観音と思われる。)、右側は自然石のようです。


じっくりと見てみましたが、摩滅したようには見受けられず、程よい大きさ・形状なので、石仏の代わりとして祀られていたものでしょう(ただ、写真で見返してみると、摩滅や剥落があるように見えなくもないですね。)。

さらに進んでいくと、熊笹やススキが生える原っぱに出てきました。




熊笹が生い茂る野原を進みます。ここも高圧線の真下に当たります。


道跡はやがて急な下り坂となり、細尾根へと続いていきます。




中馬(馬を利用した輸送業者)が通った道である旧街道がこんな急坂やこんな細尾根を通っていたとは考えられません。石仏の前から熊笹の野原に出るまでの間で分岐していたであろう道跡を見失ったようです。

仕方ありません。両側がこれだけ明け透けに見える細尾根を歩くのもおもしろいので、このまま進んでいってみます。


尾根の終点に来ました。巡視路は右側の斜面を下りるように案内されていますが、どう見ても「崖」です(笑)。「こんなの下りられるか。」ということで、引き返します。


治部坂峠からここまで歩いてきた推定ルートです(GPSロガーなどの記録装置を持っていないので「推定」です。)。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

おおむね予想どおりのルートだったことに満足です(笑)。

細尾根に並行する林道へと下りてきました。


この林道を進んでいくと、旧国道の靭集落側の封鎖場所へ合流するはずです。


これでひとまず目的は達せられたので、車へと戻ることにします。林道で戻りつつ、見失った旧街道の道跡が斜面に残っていないかチェックします。

道跡を見つけることができないまま、沢を渡る橋が現れました。橋を渡ると治部坂峠と方向が違ってきてしまうので、ここで旧街道の道跡へ無理やりにでも戻ることにします。


橋を渡らずに熊笹の中を直進して、斜面へと取り付きます。


急斜面を強引に直登して出た場所は、ちょうど石仏の前でした(笑)。


これでスムーズに戻れる目途が立ちました。


原っぱを抜けたところで、旧街道の道跡から左側へと分岐する小道へと入ります。エスケープルートになります。


小さな別荘地の中を通り抜けていきます。ここへ来てこの急坂は堪えます…。


疲れが出てきましたが、何とか治部坂峠を越えて阿智村側の旧道分岐点へ。


ようやく治部坂峠の駐車帯に停めてある車へと戻ってきました。


今回歩いた全ルートはこちら。距離は地形図測定で9.2km以上、時間は4時間50分という行程でした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今回、三州街道と記していますが、これは長野県側からの呼び方で、私が住む愛知県側からだと伊那街道や伊奈街道、もしくは飯田街道などと呼ばれています。

長野県の「七道開鑿事業」により、飯田町(現:飯田市)から根羽村までの区間の車道(荷馬車道)改修が完了したのが明治24年(1891年)のことですが、この時までには、治部坂峠を越える道も旧街道ルートから旧国道ルートへと切り替わっているはずですので、すぐには廃れなかったとしても130年前には役目を終えた道の跡を今回は辿ったわけです。

こういう旧街道の跡が地元の村などで手入れされて残されると良いのですが、メジャーな街道ではないですし、特別な遺構があるわけでもないので、このままさらに埋もれていくのでしょうね。
Posted at 2021/12/18 21:17:04 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年12月12日 イイね!

国道153号 治部坂峠の旧道を歩く(2)

2021年11月7日日曜日、長野県下伊那郡平谷村に残る国道153号 治部坂峠の旧道を歩いてきました。治部坂峠の旧道を歩くのは、2008年5月11日・12日以来なので、約13年6か月ぶりとなります。

治部坂峠の旧道の平谷村側ルートを記した地図です。青線が今回歩いた区間になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

※その1からの続きです。

壊れた百葉箱がある短い廃道区間を通り過ぎて、現国道へと出てきました。


ここから現国道を横断して、右側にある山の斜面へ入り込みます。


2~3mほど斜面をよじ登ると旧道の小さな橋が残っています。


左側の親柱を見ると、陶器製の銘板は欠落しています。


右側の親柱にある銘板も欠けてしまい、「竣功」の文字だけが残されています。


前回に来た時はもう少し残っていたような気がしましたが、13年経過するうちに失われてしまったのでしょうか。

反対側の親柱の銘板もチェックします。

「〇太橋」だけが残っています。前回来た時は「栄太橋」とありました。


前回来た時も「栄」の文字の部分は割れていたので、親柱の辺りに転がっていないかと探したところ、すぐ近くの地面に裏向きになって埋もれていました。


泥を落として、割れた銘板を親柱へとはめ込み、もう一度写真を撮ります。


反対側の右側親柱の銘板の所在はわかりませんでした。一番下の文字が「澤」なので、多分「栄太澤」だったのではないでしょうか。


ということで、一つ目と二つ目に見た親柱の辺りの地面をよく探してみます。

竣功年月の銘板は、「昭和」と「二月」の部分を見つけましたが、肝心な「年」の部分が見当たりませんでした。


もう一つは、橋名のかな書き表記のものでした。ずっと「栄太」は「えいた」と読むものと思っていましたが、「えいだ」と濁るのが正しかったです。


栄太橋から平谷村方向を眺めると笹薮となっています。


橋梁に対する知識があるわけではないですが、橋の下側も眺めてみます。


この時、橋台の傍らの土の斜面に白い物が落ちているのを発見。竣功年月の銘板のかけらです。後で親柱に取り付けてみましょう。


橋台と橋桁が接する部分に薄い木の板が見えています。橋桁の表面に付けてあった板を剥がし忘れたものなのか…。ただ、橋桁の両端とも板が付いたままなので、わざと残したものかもしれません。


もう一度橋の上に上がり、先ほど見つけた銘板のかけらを親柱に取り付けて写真撮影。


栄太橋は昭和34年(1959年)12月に竣功したことがわかりました。少なくとも昭和34年頃、治部坂峠の平谷村側の峠道は自動車通行へ対応するために、橋梁の架け換えなどの改修工事が行われたようです。

割れていた銘板は、無くならないように親柱から外して、それぞれの親柱の傍らに置いておきました。


あとは大雨などに流されたり、誰かに持ち去られたりすることが無いことを祈るのみです。

さらに平谷村方向へと進みます。

次の廃道はほんのわずかに残っているだけでしたが、一応写真に撮っておきます。




次の旧道は、現国道の橋梁を迂回するように右側へと逸れていっています。現国道の橋名は、銘板が見当たらずわかりませんでした。


さっそく倒木が道を塞いでいます。


路肩にあった〇に「建」のマークがあるコンクリート製の標柱。建設省の境界杭のようです。


道路の両側から笹が繁殖して幅が一車線分ほどしか見えません。


橋が現れましたが、親柱も欄干もない簡易的な橋です。旧道の橋名から現橋名を推測しようと思っていましたが、これではわかりません。


橋を渡った先は酷い薮になっています。


谷積みで積まれた石積みの擁壁。緻密に石材を加工して積み上げていない様子から、昭和30年代の改修工事よりも古い時代のものと思われます(憶測ですが。)。


この辺りは現役時代の道幅を保持しているようです。


最後に薮を突き抜けて現国道へと出てきました。


現国道に出たところから100mほど進むと左側へと分岐していく道があります。


治部坂峠からここまでは、現国道と旧国道は並行したり交差したりしながら進んできましたが、ここからはそれぞれまったく別方向に分岐していきます(上下方向で重なる箇所はありますが。)。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今まで点々と歩いてきた区間は廃道と化していますが、ここから峠の下にある靭(うつぼ)集落までは、一般車両が通行不可なだけで、一応自動車自体は通ることができます。

とは言え、日常的に通行する車両が無ければこんな状態になります。一応、路面に轍は付いています。


山側の路肩に残る石積み擁壁。先ほどの廃道にあった石積み擁壁と石材の形状や積み方が同じ雰囲気です。


旧道を跨いでいく現国道の第2上野橋。


古い時代の道路である旧道は地形に逆らわずに造られていますが、昭和末期から平成初期にかけて道路改良された現国道は、橋梁や高架橋を駆使し、できるだけ直線的な線形(その分、急坂が多いですが。)で造られています。

靭集落までの旧道区間で一番目立つのがこの廃タイヤの山。山の斜面を覆い尽くすように積み上げられています。






こんな奥深い山中で大量の産業廃棄物を目の当たりにすると気分が萎えてしまいますが、これだけ大量のタイヤをよくもまあきれいに積み上げたものだと感心する部分もあります(笑)。

笹に侵略されながらも何とか一車線分の道幅を維持しています。


ボロボロの「すべりやすい」の警戒標識。治部坂峠付近の標識の設置者は「建設省」でしたが、この標識の設置者は「長野県」とあります。


通常、国が指定した区間以外の国道の維持管理は、都道府県や政令指定都市が担っています。国道153号は、名古屋市天白区から長野県飯田市までの区間は国が指定する区間(いわゆる「直轄国道」。)になっていて、国土交通省(旧建設省)が維持管理を担っています。

いつ頃、国道153号の一部が直轄国道となったのかわかりませんが、この場所にある標識は直轄国道となる以前に設置されたと考えられます。

旧道の靭集落側の封鎖場所まで下ってきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

振り返っての撮影。左側が旧国道。右側の門扉がある道は林道です。


これで今回歩こうと決めていた治部坂峠の旧道区間を踏破しました。あとは峠の駐車帯にある車まで戻るだけです。

治部坂峠のスノーシェルターの手前まで戻ってきました。スノーシェルターの中には歩道はないので、帰りも旧道を歩いていきます(笑)。


この写真の場所でふと反対側の斜面の中腹を眺めた時に問題が発生しました。何と道路と思われる平場が見えています(笑)。


しばらくこの場所で立ち止まり考えます。

「峠と麓を往復して疲れているから、今日のところはもう帰ればいいだろう。」

「いやいや、もしかしたら今まで自分が知らなかった治部坂峠の道跡かもしれない。そうだったらこのまま見過ごすわけにはいかないだろう。」

残念ながら、後者の意見が勝りました(笑)。

ここまで上ってきた旧道を引き返し、現国道の路肩を歩き、反対側の斜面をよじ登ります。

「ああ、これは間違いなく道跡だわ。」。道跡を辿ることにします。


路肩に低い石積み擁壁があります。やはり旧道に関連していそうな感じです。


はっきりとした道跡が一直線に続いています。




そして、現国道へ斜めにぶつかり、道跡は削られていました。


木々のすき間から現国道の反対側を覗くと、旧道が直角に曲がっている場所が見えています。


この道跡は何なのかと考えてみると、やはり現国道により切り離されてしまった治部坂峠の旧道の一部と思われます。

地形図に書き込んでみるとこんな感じ。赤線が切り離されてしまった旧道のルートです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

もともと、旧道は大きく蛇行するようなカーブを描きながら治部坂峠の頂上へと向かっていたのでしょう。それが、峠の頂上へと一直線に切り裂くように現国道が造られたため、残存した旧道と迂回路をくっつけたいびつな道が今に残る「旧道」となったのでしょう。

※このブログをアップしてから、あらためて国土地理院のホームページで航空写真を検索したところ、ちょうどバイパス建設中の頃に撮影したものがあり、旧道だと確認できました。

もう新しい発見はないかと思っていた治部坂峠の旧道歩きでしたが、思わぬ発見で(再発見ですかね。)満足度がアップしました。


国道153号 治部坂峠の旧道探索はこれにて終了。この時点で時刻は13時40分。

ちょっと欲が出てきて、旧道を歩いている最中に「見つけることができないかなぁ。」と考えていた別の物件を探索しに行ってみることにします。
Posted at 2021/12/12 20:55:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年12月12日 イイね!

国道153号 治部坂峠の旧道を歩く(1)

2021年11月7日日曜日、長野県下伊那郡平谷村に残る国道153号 治部坂峠の旧道を歩いてきました。治部坂峠の旧道を歩くのは、2008年5月11日・12日以来なので、約13年6か月ぶりとなります。

治部坂峠の旧道の平谷村側ルートを記した地図です。青線が今回歩いた区間になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

まずやって来たのは、治部坂峠の下伊那郡阿智村浪合側にある駐車帯。ここに車を停めて、治部坂峠の旧道へと向かいます。


現国道と旧道の分岐点に来ました。ここから右側へと分岐する廃道化した旧道へと入っていきます。


現国道は分岐地点から下り坂となって平谷村へと入っていきますが、旧道はまだまだ上り坂となっています。


旧道から見下ろした現国道のスノーシェルター。切り通しに横たわる巨大な芋虫のようです(笑)。


標識が現れました。「すべりやすい」の警戒標識です。山道ではよく見かける標識ですね。


次に現れたのは、ちょっとした衝撃を与えてくれる安全速度「10km/h」の標識(笑)。いくら道幅の狭い旧国道とはいえ、昔から幹線だったこの道に10km/hは普通じゃないです。


そして次に現れるのが、「右方屈折あり」の警戒標識。「この先30m」の補助標識付きです。


こちらが安全速度10km/hの右カーブです。






薮の酷いこの道路状況なら10km/hもやむなし(笑)。まあそういう訳ではなく、現国道にぴったりと並行している区間は、厳密には旧道ではなくて、峠の地形を掘り下げて現国道を建設している間に利用された迂回路なのだと考えられます。だから、不自然な線形を取らざるを得なかったのでしょう。

次に現れるのは無名の橋。欄干がありません。


そして、前方には次の橋が見えています。


こちらの橋は、親柱と欄干が設置されています。




親柱にある銘板をチェックします。川の名前は峠川。適当に名付けた感があります。


橋名は「じぶざかはし」。漢字表記の銘板も残っています。




となると、残る親柱には竣工年月が記されているはずですが、銘板は真っ白になっていました…。


治部坂橋の前後は、旧来からの旧国道のようです。

ふたたび現国道に近づいてきたので、右へと直角カーブで曲がっていきます。




現国道に並行する短い直線区間。左の路肩に標識が隠れています。


待避所の案内標識です。すっかり木に絡まれてしまっています。


この反対側の路肩には、峠へと向かう通過車両向けの「左方屈折あり」の警戒標識が薮の中に隠れています。


「すべりやすい」の警戒標識。


「左つづら折りあり」の警戒標識。


現国道へと出てきました。ここの廃道区間は、いろいろな標識が回収されずに残されていました。




途中に林道などの分岐があるわけでもなく、現国道の開通後は特に再利用されることもなかった道だと思いますが、どうして標識を残したままにしたのでしょうかね。

続いては現国道を横断して、左側に分岐していくミニ廃道区間へと進入します。


打ち捨てられた百葉箱。もちろん中身は空っぽです。


100mほどで現国道へと合流です。壊れた百葉箱以外、めぼしいものはありませんでした。




次は、また現国道を横断して、右側の山の斜面へと入り込みます。


※(2)へ続く。
Posted at 2021/12/12 01:27:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年11月28日 イイね!

矢ノ川峠昭和道の再訪・高尾谷隧道・旧土場隧道

2021年10月30日土曜日、三重県尾鷲市の矢ノ川峠昭和道、三重県熊野市の高尾谷隧道及び同じく熊野市の旧土場隧道を訪れました。

私は10月のうちに2度、一人で三重県尾鷲市の矢ノ川峠周辺へ昭和道と明治道の探索に出かけたわけですが、この様子を見てか、母が「山へ行きたい、山へ行きたい。」と何気に言ってくるわけです。

そこで、「矢ノ川峠の昭和道なら実質林道だからハイキング気分で歩けるし、山深い雰囲気もそこそこ味わえる。距離はちょっと遠いけど、ドライブも兼ねてちょうどいいだろう。」と思い、再度訪ねたわけです。

前回訪問時と同じく、国道42号千仭橋付近にある駐車帯へとやって来ました。


当日は昭和道の入口に出入りを監視するような形で軽四が停められており、作業服を着た人が座っていました。今日は林道へ入ったらまずいか尋ねたところ、「林道へ入るのは構わないが、歩いて2時間くらいの所で伐採作業をしているので注意してほしい。」とのことでした。おそらく作業車が来た時にゲートを開閉するために停まっていたのでしょう。

問題なしということで、母を連れて昭和道へと入っていきます。


これ以降は訪問2回目ということで、サラッと流していきます(笑)。

矢ノ川峠開鑿記念碑前。


矢ノ川1号トンネル。


令和に入って完成した砂防ダムがある沢。母は暑くなってきたのか、上着を脱いでいます。


母は私が廃道歩きへ出かける時、持ち物や服装がどうだこうだと細かいことをよく言ってきますが(笑)、いざ自分が久しぶりに山歩きに来た時には、ナップサック持ってきていないわ、靴が運動靴ではなく街履き用のものだわ、山歩き用ストック忘れただわと、歩き始めてからいろいろと悔やんでおりました。


結局は「仕方がない。」とビニール袋に手荷物を詰めて、そこらの枯れ枝を杖代わりにして歩いております。こちらがせめて「ビニール袋持つわ。」と言っても、そういうことは頑なに拒むんですよねぇ。

矢ノ川2号トンネル。


矢ノ川3号トンネル。


そこらの登山道に比べれば全然ゆるい坂道の昭和道ですが、普段キロメートル単位で歩くことがない母にとってはなかなかキツそうです。


矢ノ川4号トンネル。やはり人間が入ると大きさの対比ができ、わかりやすくて良いですね。


4号トンネルの峠側坑口。


母はここでギブアップ。スタートから1時間半ほどでした。そのままこの場所でしばらく休憩。ついでに補食でミニあんぱんを食べます。

母はこれで戻ることになって気が楽になったのか、下り坂をスタスタと歩いていってしまいます。時に小走りしたりとはしゃいでいるので、「転ぶと危ないから足元に気を付けてゆっくり歩いて!」と注意します。




矢ノ川2号トンネル前。


登っている最中、母へトンネルの数の話をしていた時に、「コンクリートのトンネルなんか通ったっけ?」とか言っているので、「ちゃんと通ったわ!」と返したのですが、それもあってかしげしげと見ています。

岩石に残っている発破の跡。




前回訪問後に、再度、矢ノ川峠昭和道関係の記事を検索していた時にこのような跡が各所に残っているとあったので、あらためて探してみました。

こちらは発破の際に岩石が燃焼したのか変色しています。


無事に車まで戻ってきました。


一旦、国道42号で矢ノ川トンネル・弓山トンネル・大又トンネルと越えて、熊野市にある道の駅「熊野きのくに」まで移動してから小休止。

まだお昼になったばかりだったので、本来この日に訪れようと思っていた廃トンネルへ向かうことにします。

向かうのは、同じ熊野市内の国道169号沿いにある高尾谷隧道と旧土場隧道です。地図はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

まずは旧国道169号にある高尾谷隧道。竣工は1932年(昭和7年)です。


坑門のデザインが、1924年(大正13年)に竣工した国道1号の鈴鹿隧道に類似していることで知られています。


扁額。


ピラスター(壁柱)。鉾のような柱頭が特徴です。


トンネル内部。目で見える限りでは特に問題なさそうですが、現在は通行止めとなっています。


次にやって来たのは、同じく旧国道169号にある土場隧道。このトンネル自体は、今回の目的物件ではありません。


扁額。


お目当ての旧土場隧道は、土場隧道の上に位置しています。


母には車で留守番してもらい、まずは山の斜面を登って、旧国道169号の旧道へと向かいます。


旧国道169号の上の斜面を通る旧道へと出てきました。一旦、ここからトンネルとは逆方向へと進み、廃道であるこの旧道の結末を確認しに行きます(すでに知ってはいますが。)。


旧道は思ったよりもしっかりと道跡を残しています。


路肩に石積み擁壁が見えます。


羊歯の密生地帯を抜け、倒木群をかいくぐります。




落石防護ネットの支柱がズラリと並んでいます。


支柱が段々と旧道を圧迫していきます。


ついに旧道は無くなってしまいました。旧国道に完全に削り取られています。


旧道の末端部分を確認したので、いよいよ旧土場隧道へと向かいます。

写真中央部、やや凹んだ場所に旧土場隧道があります。


旧土場トンネルです。竣工年は不明。既出の情報にあるとおり、トンネル直前が土砂で埋まっています。


土砂の山に登り、トンネル坑口を眺めます。


残っている石積みアーチなどを見る限り、坑門はもともと無かったように思われます。


トンネル内部を覗くと、石積みアーチが途切れた場所で崩落しています。


坑口を眺めています。土砂の山で相当埋まっていますが、一応立ったままで出入りは可能です。


石アーチ先の崩落箇所を越えてから振り返り、石アーチ方向を眺めています。天井部の崩落が進み、本来のトンネル内部よりもはるかに大きい空間ができています。


反対側坑口へと進みます。石積みアーチで巻き立てられているのは、トンネルへ進入した坑口付近だけで、その他の場所は素掘り状態のままです。


岩の性質によるものなのか、トンネル形状が四角形というか台形になっています。


反対側坑口へと出ました。


まさに岩山にトンネルを穿ったという感じです。


こちら側もトンネルの先に旧道が続いています。


曲線を描く石積み擁壁がいい雰囲気を醸しています。そして、廃道ながら往時を思わせる整った道跡。






前方で土砂が流れ込んでいますが、そのまま奥へと進んでいきます。


右へとカーブしながら下っていきます。


そして、こちらの旧道も途絶えてしまいました…。


旧道の下を通る別の林道に削り取られたようです。


下の林道へと下りて、旧道を見上げます。これでは、あらかじめわかっていないとここに旧道があるとは気づかないでしょう。


林道を歩き、旧国道へと戻っていきます。写真中央部で路肩の石垣の上端が微妙に「へ」の字に曲がっています。もともとはこのまま上り坂になっていて、林道の上を通る旧道へとつながっていたのではないかと想像しています。


旧国道へと出てきました。奥のトンネルが国道169号新土場トンネルです。


土場隧道を通り抜けます。




車へと戻ってきました。


短い区間ながらも、廃トンネル・廃道ともになかなか満足できる内容でした。

この時点で時刻は14時。どうせ翌日は日曜日。母をここまで連れてくることはめったにはないことなので、このままさらに熊野市街地方面へと移動します。

やって来たのは、花の窟神社。


花の窟神社には社殿が無く、この巨岩がそのままご神体となっているそうです。


神社から国道42号を横断し、熊野灘の海岸「七里御浜」へ。


ここは砂浜ではなく、玉砂利の浜。私がまだ赤ん坊の頃に家族で来ていて、その時に玉砂利の上に寝かせて撮った写真を見たことがあります。母も「こう寝かせて写真に撮ったんだよ。」と懐かしそうに話します。

今回のドライブはここまでで終了。熊野大泊ICから熊野尾鷲道路に乗って帰路につきます。そして尾鷲市を過ぎた頃から早くも眠気が…。

紀勢道紀北PAに立ち寄り、併設の道の駅「始神テラス」でまずは晩御飯。箸で持ち上げるのも大変な身の厚いアジフライの定食を食べました。


その後はしばし仮眠をいたしました。
Posted at 2021/11/28 20:12:42 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年10月21日 イイね!

旧熊野街道 船木橋・神瀬橋・ねじりまんぽの道路橋

2021年10月3日日曜日、三重県の旧縣道「熊野街道」に残る古い橋を3か所巡ってきました。初めは一人で出かけるつもりでしたが、母に「ドライブがてら一緒に行くか?」と声を掛けたら、姉も一緒に行くと言い出し、結局3人で出かけました。

初っ端、国道23号知立バイパスから伊勢湾岸道 豊明ICの料金所へ向かったところ、ETCゲートでストップした車があり立ち往生。仕方くなく一般ゲートへ回り、通行券を取って高速道路へと入りました。

通行券を取ったのは何年ぶりだろうか。覚えがありませんね。ただ、「デザイン、昔と変わってない気がするなぁ。」という感想が湧きました(笑)。


その後は、東名阪道、伊勢道、紀勢道と乗り継ぎ、大宮大台ICで下りて(一般ゲートに入り、料金収受装置にETCカードを挿入して精算しました。)1か所目の訪問場所へとやって来ました。

船木橋(旧舟木橋)です。全長は90.2mになります。


船木橋の開通は明治38年(1905年)。ただし、当時のまま残っているのは橋脚部分のみで、橋台・橋桁は昭和9年(1934年)に改修されています。


大紀町側の親柱には「ふなきはし」と刻まれています。


親柱に取り付けられた登録有形文化財のプレート。平成8年(1996年)に登録されました。


本橋は、宮川の深い渓谷を渡る高い場所(水面から20m程とか。)に架けられた橋ですが、昔の橋らしく欄干が貧弱かつ低いため、あまりにも川面までの見通しが良すぎて、私のような高い場所が嫌いな者にはとても困った橋です。


と言いつつ、今回も含めて4~5回は訪れていますけどね。ただ、姉が貧弱な欄干にもたれ掛かって川面を眺めている姿を見て、肝が冷える思いでした(笑)。

こちらは上流側。本流である宮川に支流の大内山川が左側から合流してきています。それぞれの川の水の色が明確に違っています。隣に架かっている橋は、国道42号の船木大橋です。


下流側の眺めです。


大台町側へと渡ってきました。


こちらの親柱には、読み取りにくいですが「船木橋」と刻まれています。


突然ですが一つ疑問があって、この橋の名称は「船木橋」、国道42号の橋の名称は「船木大橋」、大紀町側の橋名の由来になったと思われる地名は「船木」。にもかかわらず、登録有形文化財での登録橋名はなぜか「旧舟木橋」。

この事に言及しているブログやサイト記事は見当たらず、特に関心は持たれていない様子。まあ、いいと言えばいいのですが、何せ名称(=名前)のことなので、モヤモヤした感じは残りますね。

大紀町側へと戻ってきて、今度は船木大橋の下から船木橋の全景を撮ります。


ちょうどいい場所に大木が被さってしまい、何ともはや…。


橋のたもとから斜面を下りて、木々の隙間から撮ってみました。


本当は宮川の河原まで下りて、橋を見上げる写真や煉瓦橋脚の写真を撮りたかったのですが、ここ数年のうちに何度も発生した豪雨の影響で橋周辺の地形が改変されてしまい、今回訪れた時は河原まで下りることができませんでした。

こんな写真も撮っておきたかったです(この写真は2015年1月訪問時にガラケーで撮ったもの。)。




さて、母・姉が飽きてきたので、次の場所へと移動します。

国道42号を走ってやって来たのは、大台町神瀬にある神瀬橋。明治40年(1907年)竣工の煉瓦アーチ橋です。説明板には隣接地に紀勢本線が建設された際に二重アーチだったうちの一つを埋め立てたとあります。


橋の全景を撮影するには河原から見上げるようなアングルになるのですが、タイミングが悪いことにちょうど逆光…。撮影した写真データは真っ黒だったので、思いっきり明度を補正してあります。


橋の側面に取り付けられている銘板。「神瀬橋」とあります。


川の中を薮をかき分けて進み、橋の反対側へと出ました。いかにも煉瓦の塊が架かっている感じで重量感があります。


ちなみにこの橋、欄干部分がガードレールになっているため、わかっていないと道路から見ても煉瓦橋とは全然わかりません。

3か所目の橋の入口へとやって来ました。ここから橋までは400mほど歩きます。ちなみに、車を停めている場所が旧熊野街道になります。


前回ここを訪れたのは2012年5月。その時は車を停めた場所から砂利道が奥へと続いていた気がしたのですが、その砂利道が見当たらず、しばらく付近を探す羽目に。

自分が歩いていた細い舗装路の下側に薮に覆われた平場が続いているのが見えて、「もしかして完全に廃道になったのか?」とその平場へと下りました。

少し進むと何となく見覚えのある景色が現れました。どうやらここが旧熊野街道で間違いないようです。


採石会社の敷地に沿って進む道でしたが、この辺りの敷地は使われていないようで、9年前とは様相が一変していました。


これまた見覚えのある背の低い煉瓦の欄干が現れました。ねじりまんぽの道路橋に到着したようです。


この道路橋は当初「姉橋」と紹介されていました。旧熊野街道が通る以前にかつてこの付近には兄姉弟妹の名を冠した橋があり、この道路橋の架橋位置付近には「姉橋」が架かっていたらしく、そこから名称を取られました。その後も有志の方々が文献調査などを進めましたが、名称を確定できるような資料が発見できず、現在は名称不明となっています。

欄干はフランス積みされた煉瓦にかまぼこ型に整形された石材が載せられています。


やって来た方向を眺めています。この橋を再発見した人はよく見つけたものです。


橋を渡った先にある広場まで進みます。ここから左方向へと曲がり、雑草に覆われた斜面を下りて河原へと出ます。


河原へと出ました。


真っ暗で申し訳ないですが、これが世にも珍しい「ねじりまんぽ」の道路橋です。前述したとおり、名称も来歴もわかりません。


ここからはフラッシュを焚いて撮りました。

煉瓦アーチの道路橋というものは、鉄道橋梁と比較して数は少ないですが、前述の神瀬橋のようにまずまず存在しています。


しかし、さらに全体的に数が少ない「ねじりまんぽ」に造られたものは、明治時代に開通した「鉄道」の築堤に設置された水路暗渠や人道通路として残っている(けっこう現役で使用・利用されている。)ものがほとんどです。


「道路が上を通る」煉瓦アーチ橋が「ねじりまんぽ」で造られているのは、福井県坂井市のえちぜん鉄道にある「眼鏡橋」と、この橋くらいだそうです。


というように希少な橋なわけですが、知名度はほとんどありません。地元自治体も文化財的な把握はしていないでしょう。廃道趣味の方々に多少知られているくらいであることは、ここへとやって来た道の状況を振り返ってもらえればわかっていただけると思います。


この「ねじりまんぽ」は、捩じり度合いはそんなにきつくありません。川に対しての橋の斜め度合いがきつくないからです。


昔はよくあることですが、クランクになったとしても、川に対して直交するように橋を架ければこんな面倒な施工は必要なかったでしょう。それでも「ねじりまんぽ」にしたのは、それなりの理由に基づく必然性が有ったはずですが、何にも記録が残されていないわけです。


橋の下流側を眺めています。橋の先に段差があり、小さな滝になっています。天然のものか人為的なものかはわかりませんが。


段差の縁のギリギリまで下がって撮りました。橋台部分はコンクリートで施工されていますが、元々は石積み橋台だったのでしょう。分厚く塗り込められているので、昔の様子は全くわかりません。


「ねじりまんぽ」の捩じり度合いが緩い場合、施工の精度を相当きちんとしていないと崩壊してしまうのだそうです。そういう点からしても、技術力のある建設会社が関与していそうですが、その線からも解明できないのでしょうね。


この橋のもう一つの特徴は、アーチ環の部分に縦方向に薄い化粧煉瓦を貼り付けてあること。この装飾も他所では見られない手法だそうです。




わからないことだらけですが、希少であり、建設レベルも高い橋、「ねじりまんぽの道路橋」でした。


帰りも廃道と化した旧熊野街道を歩いていきます。


路肩に「地下電話線あり」の注意看板が残っていました。かつての主要道路の旧道や廃道に電信・電話線が通っていることはありますが、今も電話線が残っているのでしょうかね。


車まで戻ってきました。母がトイレに行きたかったようで、相当焦っていました。


トイレのご要望のため、近くにある紀勢本線栃原駅へと移動。


ホームで写真を1枚。


落ち着いたところで、「どこか寄り道する?」と尋ねたら、姉が「『深野のだんだん田』というのが割と近い所にあるから寄ってみて。」ということで、向かうことにします。

松阪市大石町にある「深野のだんだん田」。段々田の一番上から眺めないと景色がよくわかりませんが、もうそこまでの気力がありませんでした…。




Posted at 2021/10/21 19:30:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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