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小林あにのブログ一覧

2023年03月09日 イイね!

愛知県道382号の岡崎市側の終端部を見に行ってきました

2023年2月18日土曜日、午後の暇つぶしに愛知県岡崎市雨山町にある愛知県道382号の終端部を見に行ってきました。

やって来たのは、岡崎市雨山町の雨山ダム。




周辺の地形図はこちら。県道382号は岡崎・豊川市境の風越峠を挟み、指定区間の空白があり、ルートがつながっていません。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

雨山ダムに車を駐車して、県道382号の岡崎市側終端部へ徒歩で向かいます。


ダム湖の上流部まで来ると行き止まりの注意看板があります。


そして道幅が2車線から1車線へと細くなり、「この先車両通行止」の看板と虎柵により通行止めとなっていました。






徒歩通行は関係ないので、そのまま奥へと進んでいきます。




分岐点が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

地形図によると県道は右へとカーブしていくので、そのとおりに進みます。


2か所目の分岐点が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この分岐点は左カーブ。そして、ここから砂利道となります。




3か所目の分岐点です。風越峠へと向かう道は左へとカーブしていきますが、地形図によると県道は直進となるので、真っ直ぐ進んでいきます。


けっこうな急坂を登っていきます。


分岐点から5分ほど歩くと終端部が見えてきました。


そして県道はバッサリと終わってしまいました。分岐点からここまでの道は作業道そのものでしたが、なんで県道に指定したのでしょうかね。雨山ダムの2車線区間が終わった地点までの指定でも良かったような気が(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

終端部から登ってきた県道を見下ろしています。結局、車両通行止め地点から終端部まで、県道を示す標識類は全然見当たりませんでした。


さて、ここまで来たのなら風越峠まで行きたいと思い、この上部を通る林道まで斜面を登ることにします。


5分ほど斜面を登ると細い林道へと出ました。


この林道、路面にはオフロードバイクのタイヤ跡が付いているのみ。植林地の管理には長らく使われていないようです。


「西蔵」という山への登山道の分岐点に来ました。ついでなので、山頂へ行ってみることにします。


息を切らしながら細い登山道を登っていきます。


林道から分岐して登ること10分。西蔵の山頂に着きました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山頂にある三等三角点「風越峠」。標高は482.50mです。


山頂からの眺め。眼下に新東名高速道路が見えます。


西蔵から尾根伝いに風越峠へと向かいます。




西蔵山頂から15分ほどで風越峠に到着しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠なので石仏などが残っていないか周囲を探してみましたが、それらしいものは見つかりませんでした。




次に峠の古道が残っていないか探してみたところ、林道よりも下段に道跡が残っていました。


車へと帰るついでに古道を辿っていきます。




5分も歩かないうちに古道は作業道へと吸収されてしまいました。地形が険しい豊川市側の方が、古道は残っているかもしれませんね。


暇つぶしのミニ探索だったので、特にこれといった成果はありませんでしたが、山を歩いて汗をかき、良い気分転換になりました。


Posted at 2023/03/09 22:57:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年02月26日 イイね!

岡崎市夏山町の古道を歩いてきました

2023年2月11日土曜日、愛知県岡崎市夏山町にある古道を歩いてきました。現在、現地を愛知県道333号が通過していますが、この県道の前身の道に当たると考えられる古道です。

当日は、ドライバーやすい氏と新しい表記でのペースノートの作成練習を付近の林道で行い、そこからの帰り道に立ち寄りました。矢印の方向へと進入していきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみに付近の戦前の地形図はこちら。現在の県道は勾配を緩和するためか、標高413mの山の南側中腹へと迂回していますが、昔の道は沢沿いにそのまま直進していました。この道を辿ってみようという訳です。

※2万5千分の1地形図「龜穴」:大正7年(1918年)測図。

さて、進入してみると古道と言うよりは廃作業道といった風情です。取りあえず、奥へとどんどん進んでみることにします。




棚田の跡と思われる石垣の段が残っています。


ようやく道の雰囲気が作業道から古道らしい感じになってきました。






小さな滝の脇を通り抜けていきます。


滝を通り抜けた先で古道が消えてしまいました。ひとまず、沢の対岸へと渡り、先へと進んで古道の続きを探してみます。




古道の続きを発見。先へと進んでいきます。




古道が沢に削られて消失しています。一旦、右側へと迂回し、高巻きして進むことにします。






沢沿いの道はどうしても増水時に削られたりするので、道跡が残っていてもボロボロなケースが多いですね。


この付近も、沢を挟んだ対岸には棚田の跡がずっと続いています。植林されている木(杉か檜?)の太さを見ても、相当以前に耕作放棄されたのでしょう。




また崩落箇所が現れたので、高巻きして迂回。この辺りから、上を通る県道から捨てられたのか、斜面のあちらこちらにゴミが散乱しています。


天気が悪かったのと沢沿いで湿気があるためかジメジメした雰囲気。ゴミも散乱しているので、小さな滝から先の古道はあまり好ましい感じではありませんね…。


そして、正面を塞ぐような高い盛土が現れて、行く手を阻まれてしまいました。古道はこの先で県道が通るルートと重なるはずなので、ここで探索を終了しました。


帰りは古道の崩落箇所を嫌って、沢の対岸にあった棚田の跡を進むことにしました。

棚田跡の山側に半円形の石積みで囲まれた窪みを発見。






炭焼き窯の跡かと思いましたが、山側に開いていた穴を見て、湧き水を利用した水場の跡だった可能性もあるかなと想像しています。






だいぶ日が傾いてきたので、先を急ぐことにします。


車へと戻ってきました。1時間弱のミニ探索でしたが、これでまた1つ、県道の前身道の確認が完了しました。


今回歩いたルート図はこちらです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
Posted at 2023/02/26 12:31:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年02月19日 イイね!

豊田市平瀬町の古道を歩いてきました

2023年2月5日日曜日、愛知県豊田市平瀬町の古道を歩いてきました。

平瀬町周辺の現在の地形図です。現在、平瀬町の集落は愛知県道337号が貫いています。県道は集落の西側で巴川を渡り、その先で県道362号と接続しています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは現在の平瀬町周辺の戦前の地形図。当時は東加茂郡下山村になります。県道337号の前身となる道が同じように平瀬集落を貫いていますが、巴川を渡った先で右折すると道が途絶えているように見えます。「平瀬」の写植の下敷きになっただけなのかもしれませんが、県道362号の前身道には、その道が接続されているような表記にはなっていません。

※5万分の1地形図「足助」:明治24年(1891年)測図・昭和3年(1928年)要部修正測図・昭和6年(1931年)発行。

その代わりに、巴川を渡った先で左折する道が、峠を越えた場所で県道362号の前身道と接続していました。この先は旧下山村の中心地であった東大沼(現在の豊田市大沼町)へと続いています。

今回は、県道337号の元となる車道が開通するまで平瀬集落へのメインルートだったと考えられる峠越えの古道と、平瀬集落を通過せずに巴川沿いを通っていた古道を歩いてみることにしました。

現地へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

巴川に架かる県道337号の橋「千歳橋」へとやって来ました。ここで橋は渡らずに直前で右折します。


巴川の河原へと下りると、旧橋の橋台が残っていました。


それでは峠越えの古道へと進んでいきます。


道跡はしっかり残っていますが、誰も通らないので路上は荒れています。


石仏を見つけました。


僧形なので地蔵菩薩でしょうか。「新しい雰囲気の石仏だな。」と覗いてみたところ、光背の左側に「昭和三十一年(1956年)八月三日」の日付が彫られていました。そして右側には「法名釈尼…」とあります。お墓の代わりに祀られた石仏なのでしょうかね。


間伐された木々がゴロゴロ転がっています。廃道・古道を歩いていて悩まされる障害物の一つですね。


また路傍に何か立っています。今度は名号碑のようです。


「南無阿弥陀佛」とだけ読み取れます。年号などはわかりませんでした。


この辺りから岩が剥き出しの場所が現れて、地形の険しさが増してきます。




高い場所は嫌いですが、このような険しい感じの廃道・古道を通るのは好きなんですよね(笑)。




この険しい岩場に石仏がありました。


これは毎度おなじみの馬頭観音ですね。光背に明治四十二年(1909年)の年号が彫られています。険しい場所なので安全祈願で祀られたのか、実際に馬が転落して供養のために祀られたものかもしれません。少なくとも明治42年頃はまだこの道が地域の往来の道として現役だったという証になります。


所々、道が崩れて歩きにくい場所が現れますが、ようやく尾根に近づいてきました。


尾根への取り付き部は、堀割りの道で進んでいきます。




峠手前の分岐点に来ました。東大沼への道は直進。左折すると山を下って、巴川沿いへと出ます。巴川沿いへの道はこの後に向かうことにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この分岐点にも石仏がありました。


摩滅がひどく、姿ははっきりとはわかりませんが、頭上に馬頭型のような突起があるので、これもおそらく馬頭観音だと思います。


分岐点を直進すると間もなく舗装路へと出ました。ここが峠となります。左側には神社があります。




舗装路は神社の前で左へとカーブしていきますが、古道は真っ直ぐに斜面を下っていきます。


鳥居の横へ出てきました。社名は春日神社とあります。


もうしばらく下ると正面に県道362号が見えてきました。正面の鞍部を越えていくと東大沼になります。


下まで下りて峠越えの古道を振り返ります。立っている案内板は、峠付近にあった孫根城跡のものです。




巴川沿いの古道へ行く前に孫根城跡へ立ち寄ってみることにします。


峠を通過して、堀割り道まで戻ってきました。ここから孫根城跡へと続く道が分岐していくので、左側へと入っていきます。


孫根城跡です。案内板が立っているだけで、単なる雑木林にしか見えません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

本丸の背後は崖になっているので、背後からの攻撃は難しい感じです。


これは「堀切」です。矢印部分が「堀切」になります。これは本来の尾根を削り取り、攻城方の進路を遮断するための防御施設の一種ですね。通路部分だけを細く残して、尾根をU字型に大きく削り込んであります。


城跡への出入口部分にある細い土手道。この細い土手道も、城攻めを受けた際には攻城ルートを制限する役割を果たしたのでしょう。


それでは峠手前の分岐点から巴川沿いの古道へと入っていきます。こちら側の道は、千歳橋から登っていった峠道よりも緩やかな道です。








倒木と路面のひどい洗掘。ここを通過するのは少し難儀しました。




川沿いの道跡は総じて不鮮明なことが多い気がします。増水に見舞われて洗われたり破壊されたりすることもあるでしょうし、植林で道跡を潰されていることもあります(植林で潰されているのは峠道でもよくありますが。)。






橋が見えてきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

戦前には橋が無かった場所なので、そのまま真っ直ぐ進みます。


低い鞍部を越えていきます。


鞍部に神社がありました。


鳥居の傍らに石碑が立っています。


題名と文章から、用水路建設についての記念碑とわかりました。


橋が架かっていたと思われる場所に来ました。河原に下りて周囲を見渡しましたが、橋が架かっていた名残りはまったくありませんでした。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

これで今回予定していた探索ルートの踏査は終了。ついでなので、神社前の記念碑に記されていたものと思われる用水路を辿ってみることにします。


農閑期ということもあり水路が埋まったままの場所もありましたが、補修を加えながら現在も維持されていることがわかります。






取水堰堤まで来ました。


用水路は側溝のような細いものでしたが、堰堤は魚道も備えたしっかりした造りのものですね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

帰りはこの橋を渡っていきます。


車へと戻ってきました。


今回歩いた道は、下山村誌によると東加茂郡が明治29年(1896年)に重要里道に指定した大沼街道という道の一部のようです。大沼街道は、東大沼から平瀬を経由して旧下山村を縦断していく道でした。ルート図は無かったので、平瀬集落を通る道か、集落内を通らずに巴川沿いを通っていく道か、どちらが大沼街道であったのかはわかりませんが、郡・村にとっては重要な道であったため、費用をかけて改修・保守を続けていたようです。

そんな道も、今ではすっかり存在を忘れられて、山中に寂しくその跡を残すのみです。
Posted at 2023/02/20 00:50:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年02月07日 イイね!

【北設楽郡東栄町】川角トンネルの廃道を歩きました

2023年2月4日土曜日、愛知県北設楽郡東栄町川角にある林道小田線の川角トンネルを訪れ、このトンネルの横にある短い廃道を歩いてきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この廃道について検索すると、2013年と2015年にアップされたレポートを読むことができます。最初に訪れた方は「トンネルある所、旧道・廃道あり」という気持ちでやって来たのでしょうね。

大千瀬川に架かる国道473号の橋「川角橋」を眺めています。この橋のたもとから分岐して林道小田線に入りここまで来ました。橋からそんなに距離は離れていませんが、けっこうな高さまで上っています。


川角トンネルです。1979年(昭和54年)3月の竣工でトンネル延長は60.00m。ご覧のとおりのごく一般的なコンクリートトンネルです。






それでは廃道へと向かいます。トンネルの直前から川側を見下ろすと廃道が見えています。トンネルとガードレールの隙間から下へと滑り込んで、廃道へと降りていきます。




進行方向とは逆方向を向いています。こちら側には、今回歩いた廃道よりも古い時代の「へつり道」の名残りではないかと言われる平場を見ることができます。




それでは今回の目的である廃道へと向かいます。というか、すぐ目の前がこの状況になっています(笑)。


短いですが「片洞門」というものですね。通行するスペースだけ削り込んで、上部に岩盤がひさし状にせり出した状態の道を言います。せり出した頭上の岩盤を片側だけで支えているので「片洞門」なわけです。


この方法でしか道を通すことができない絶壁ですが、道幅がしっかり確保されているおかげで、特に不安を感じることはありません。


絶壁の道をさらに先へと進みます。


最初の「片洞門」に比べると岩盤のせり出しは少ないですが、同じように道路部分を削り込んでいます。


道を塞ぐように倒木があります。ここは右側の壁際を通過していきます。


ここも不安にならない程度の道幅が残っています。


岩盤は上下で時代や種類が違うのか、明確なラインが入っています。




道がくびれている部分から大千瀬川を見下ろします。高さは20mから30mくらいはあるでしょうか。


見通しが効く範囲では崩落している箇所は無いようです。


もしも道幅が残っていなかったら、こんな高い場所は歩けませんね(笑)。


この場所、路面の川側半分がたわんで見えます。そして真ん中には穴も開いています。




どうやら木製の桟道のようです。材木が腐ってきて路面の重みに耐えきれなくなり、たわんできているのでしょう。


こういう場面を見ると思い切り疑心暗鬼になります。少しでもリスクを減らすため、一番壁際へと寄って通過します。

ちゃんとした路面へと戻ったようでヤレヤレです。


安心したのも束の間、崩落箇所が現れました。道幅が狭くなっています。


一番狭いところで40cmから50cmくらい。地面はしっかりしているようなので、「落ち着いていけば問題ないだろう。」と判断。足元に注意しながら進んでいきます。




難所を越えると道幅が本来の幅へと戻ってきました。




山側の壁面が大きくえぐれています。素人目には砂が固まっているだけのように見えます。これでは崩れやすいのもうなずけます。




林道の橋が見えてきました。


橋の手前に昔の橋台跡と思われる石積みがあります。


トンネル前へと出てきました。


トンネル前から廃道を振り返るとこんな様子です。


橋から廃道を眺めると、路肩を石積み擁壁で固めてあることがわかります。




トンネルから先の林道の周囲にも古道の痕跡がないか確かめに行ってみます。


300mほど進んでみましたが、それらしい痕跡は見つかりませんでした。おそらく林道とルートが重なっているのでしょう。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

トンネル前まで戻ってきました。


また廃道を通って車へと戻ることにします。


「往路」ではスルーしましたが、廃道に付き物の蜂の巣箱があります。巣箱が置かれている辺りは石垣が半円形に積まれており、元は炭焼き窯があったようです。


路面が崩落している場所まで戻ってきました。


間近まで行くと、「往路」ではさほど視界に入らなかった足元の「高い崖」が、こちら側から見るとどうしても視界に入ってしまい、気持ちが動揺してしまいます。




ほんのわずかな距離を写真に描いた矢印のように進むだけのことですが、心に一度動揺を覚えてしまうとなかなか進む勇気が持てません。「ここを通過しないと絶対に帰れない。」という状況であれば進めたのでしょうが、この場面は無理せずとも素直に引き返せば、トンネルを通って車へと戻ることができます。

結局、無理をせず引き返して、トンネルを通過しました。


また引き返した場所へと戻ってきました(笑)。やはり、こちら側からだと川まで真っ逆さまに落ちている崖を見ないですむので、心持ちが違いますね。


「復路」方向で眺めた廃道の写真です。














木々に遮られて見にくいですが、対岸の「へつり道」をもう一度。ここを歩いた動画がYouTubeにアップされていますが、私には絶対に無理です。動画見ているだけで身震いしました…。


最後に林道の擁壁をよじ登り、車へと戻りました。




今回のルート図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

60mのトンネルを迂回するような形の廃道なので距離自体はわずかなものですが、いろいろな要素が詰まっていて楽しむことができました。誰かのレポートを読むだけでは得られない実体験を味うことが、二番煎じでも現地を探索することの醍醐味ですから。動揺もしましたけど、これも実体験。まあ、高い場所が苦手なのだけは、本当にどうしようもないですけどね(笑)。

あとは戦前の地形図。川角の集落と奥三河の幹線である別所街道(現:国道151号)を結んでいた道が載っています。集落にとって重要な道だからこそ、険阻な場所であってもあれだけの道を通したのでしょう。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行。
Posted at 2023/02/07 22:15:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年01月30日 イイね!

【浜松市天竜区】鳥羽山の隧道擬定地を探索しました

2023年1月29日日曜日、静岡県浜松市天竜区二俣町の鳥羽山へとふたたび出かけてきました。

鳥羽山には明治32年(1899年)に開通したトンネル「鳥羽山洞門」が現存しています。しかし、前回のブログの終わりに書いたように、「鳥羽山洞門」が開通する9年前の明治23年(1890年)測図の2万分の1地形図「二俣町」には、同じ鳥羽山で「鳥羽山洞門」とは違う場所にトンネル記号があります。

こちらは「今昔マップ」というサイトで、前述の「二俣町」の地形図を閲覧したものです。右側の現在の地形図の中央部の黒丸印が隧道擬定地です。

※この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップon the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。

この地形図の存在を知るきっかけとなった、2012年7月に現地を探索した方のブログでは、「崩壊したのか隧道の坑口は発見できなかった。」とありました。

同ブログに貼られていた写真を見る限り、仮に隧道が存在していたとしても、現存している見込みはほぼゼロのように感じましたが、やはり現地をこの目で見て自分なりの結論を出してみたいなとの思いに駆られ、鳥羽山へと出かけた次第です。

前回訪問時と同じく鳥羽山公園の駐車場へとやって来ました。


そして、同じように田代家住宅へと下っていく、古道を改修した散策路へと入っていきます。


左側に田代家住宅が見える場所まで下りてきました。散策路はここをヘアピンカーブで折り返していきますが、鳥羽山洞門が開通する以前の旧峠道が直進方向へと分岐しているので、そちら側へと進んでいきます。


「馬車も通行できた。」と言われた道路にしてはやや狭い気もしますが、しっかりと道跡が残っています。


山側には鳥羽山でたくさん出てくる玉石を利用した石積み擁壁があります。


天竜浜名湖鉄道の線路へと出てきました。正面は椎ヶ脇神社御旅所。旧峠道が利用されていた時代にはまだ鉄道は開通しておらず、そのまま神社の裏手を通って現在の国道152号から渡し場だった鹿島橋方向へと向かっていたようです。


ここで引き返して、峠方面へと向かいます。


散策路まで戻ってきました。黄色い矢印線が旧峠道に当たるはずなので、そちらへと進んでいきます。


散策路がふたたび折り返すカーブを直進していきます。


程なくして旧峠道は無くなってしまいました。ちょうど鳥羽山洞門の坑口の真上なので、トンネル建設時に削り取られてしまったのかもしれません。


旧峠道が通っていた場所を想像しながら斜面を横断していきます。


土が脆く崩れやすい斜面を3分ほど横断していくと、ふたたび旧峠道が現れました。


旧古道は竹林に囲まれてしまっていますが、人が歩ける分だけ竹が伐採されていたので、以前の南部新道の探索のように難渋することなく進んでいけます。


眼下に小さな砂防ダムがある凹地にぶつかり、直進方向に道跡が無くなりました。そこで山側(左側)へと目をやると、目的地へと連なる切り通しを見つけました。


だいぶ土砂に埋もれてしまっていますが、左右に人為的に削られたと考えられる低い垂壁が見えています。




馬車道だったとは思えないほどの急坂で登っていきます。やはり相当な量の土砂が堆積して埋もれてしまっているようです。




切り通し地形の左右の斜面を見上げています。どちらも高さは20m〜30mくらいはありそうで、しかもけっこうな急斜面です。




切り通し地形の頂上まで来ました。先ほどの石積み擁壁で見たような玉石が辺り一面にゴロゴロ転がっています。






頂上を通り過ぎて下っていくと、真下に深く掘り込まれた隧道の擬定地が現れました。


ガレた急斜面を下って、正面から眺めます。


切り通し地形を歩き通し、さらに上記の写真の光景を見た上での、この場所に対する自分の所感は後にして、左側に開いている穴へと入ってみます。




この穴について、前述のブログ主さんは地元の方に聞き取りされていて、銅を採掘していた坑道の跡なんだそうです。ちなみに鳥羽山で銅を採掘していたという記述は天竜市史には無かったので、記述されない程度の零細なものだったのでしょう。




穴を10mほど進むと、その先は水没しています。穴に入った瞬間にムッとするような嫌な空気で(外気との寒暖差と、奥が閉塞して空気が循環していないため。)、結末を見届けたらさっさと外へと出てしまいました。


穴の外へと出てきました。


さて、ここで先延ばしにしたこの場所に対する自分の所感を述べると、「この場所は切り通しであり、隧道は元々存在していなかった。」という結論です。

結論に至った理由を書き出してみます。

両脇を高い岩壁に挟まれていますが、前方の土砂に埋もれている場所に坑口があったようには見えません。例えるなら蓋の無い側溝に土砂が流れ込んで埋まっただけのようにしか見えないのです。

もしトンネルが崩落・埋没したのであれば、トンネルと同じ方向に向かって、周囲の地表面よりももう一段細長く陥没した・凹んだ様子が見受けられるものですが、どうにもそれが見当たらない(あくまで自分の経験上です。長い間に陥没部分が埋もれて均された可能性は有る。)。

そもそも岩壁部分よりも上の地質は、玉石を含んだボロボロに崩れやすいもので、素人目に見てもとてもトンネルを掘削するのに適した地質ではありません。掘削した先からドンドン崩れて、トンネル建設中の時点で坑道を維持できそうもありません(前述のブログ主さんは、この地質が理由で隧道は崩落して埋もれたと結論付けています。)。


トンネルを掘削するのであれば、切り通し中央部に左右の斜面があんな高さで露出するほど地表を掘り込む必然性がありません。山体に穴を掘るだけで良い訳ですから、それ以外に山体へ手を加える必要は無いはずです。

仮に、高い斜面が露出している原因がトンネルの崩落・陥没だとしても、あの高さまで斜面が露わになるほど山体が陥没するとは思えません(馬車道のトンネルなら、内高はせいぜい2〜3m程度。)。もしそうだとしたら、山が大きく凹んでしまった分の大量の土砂はどこへ行ってしまったのでしょうか。

次に天竜市史下巻の「鳥羽山峠新道」についての記述を持ち出すわけですが、そこには「明治17年(1884年)2月に工事開始、明治18年11月26日に完成。延長281間(約507m)、『地盤の切り下げ部分が67間(約120m)』。総工事費1,825円」とあります。「隧道の掘削」については一言の言及もなく、『地盤の切り下げ部分が~』とあるだけです。明治23年測図に間に合うような鳥羽山の峠道に関する大きな改良工事はこの記事だけです。

明治十年代に建設されたトンネルは鉄道用も道路用もあまり存在していません。そんな時代に地方の峠道に隧道を掘削するとなれば間違いなく地元の一大事。記録に残らないはずがありません。ですが、そのような記述がない。

ここは文面通りに受け取って、1年9か月かけて鳥羽山の鞍部を20mから30m切り下げて、切り通しを建設したのが妥当だと思います。人力での工事だったでしょうから相当苦労したと考えられますが、技術的にはトンネル掘削よりも問題は無いはずです。愛知県内にも明治時代の旧飯田街道でこの程度の高さを切り下げて建設された切り通しが存在しています。

さらに加えて天竜市史下巻には、「明治24年(1891年)6月15日、鹿島村民(鹿島村は鳥羽山の麓の村)が二俣町長あてに鳥羽山に隧道を掘りたいので、その筋に請願をしてほしいと申し出。」という記述もあります。

すでにトンネルがあって損壊しているのならば修復にかかる請願でしょうし、修復が無理だというのであれば、「元々のトンネルが使いものにならないので、新たにトンネルを掘りたい。」というような請願でしょう。

以上、現地を見た感想と天竜市史下巻の記述から、繰り返しますが「この場所は切り通しであり、隧道は元々存在していなかった。」という結論になりました。

では、どうして地形図にはトンネルの表記がされているのか?一つは単純に誤記。二つ目はまったくの想像(妄想)ですが、ロックシェッドのようなものが設けられていた。切り通し部分に木製の支保工のようなものが緻密に並べてあったりしたら面白いかなと(笑)。土砂がボロボロ崩れてくるわけですし、時には頭大の丸石も降ってくるような場所です。そのようなものから馬車や通行人を守るような設備があってもおかしくないはず。

ただ、二つ目の「案」もそれだけ特徴的な建築物があれば、やはり物珍しさで記録に残りそうなので、実際には深い切り通しをトンネルと誤記したというのが正解のような気がします。

こちらは二俣側の斜面。写真では全然見えませんが、すぐ真下に鳥羽山への登山道路があります。往時はここで左カーブ・右カーブと屈曲して、二俣側へと下っていったようです。


それでは切り通しを戻っていきます。




進入した側へと戻ってきました。右折して進みます。


岩壁に無数に付いている縦筋は鑿の跡なのでしょうかね。


路肩を保護する擁壁も玉石積み。


散策路へとよじ登ってきました。


ついでなので、鳥羽山への登山道路を少し歩きます。


古そうな石積み擁壁が残っています。


先ほどの切り通しからの道が合流していたと思われる地点。二俣の街が見えています。


駐車場へと戻ってきました。今回は1時間20分ほどの探索でした。


鳥羽山洞門の開通以前の、明治18年に開通した旧峠道を探索したルート図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今回は距離的にはピンポイントの短い探索でしたが、中身的にはなかなか濃いものになりました。現地探索と地元市史などの資料との突合せで、自分なりの結論を導くのは楽しいものです。

私の結論は結論として、本当は地形図のとおりにトンネルがあったのかもしれないという気持ちも無いわけではないのです。

あの大量の土砂の下にはトンネルを掘削できるだけの高さ・厚さの岩盤があって、実は埋もれたトンネルが眠っているかもしれない。興味を持った誰かがトンネルの実在を立証してくれれば、また現地へ赴くだけですよ。
Posted at 2023/01/30 23:34:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

プロフィール

「【奈良県天理市】石上神宮へ行ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48702292/
何シテル?   10/09 22:33
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
所有4台目(4代目)となるインプレッサ。 ガチガチのマニアというわけではないですが、4 ...
スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
平成16年夏に購入。 自身3台目のインプレッサとなります。 購入理由は、2台目インプレ ...
スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
平成9年夏購入。 インプレッサ2台目。 行きつけの車屋さんへタイヤ交換の依頼をしに行っ ...
スバル インプレッサWRX スバル インプレッサWRX
平成7年夏購入。 インプレッサ1台目。 購入動機は、WRCのビデオを見たのが一番。 ...
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