• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

小林あにのブログ一覧

2023年01月25日 イイね!

鹿島橋・鳥羽山洞門へ行ってきました

2023年1月15日日曜日、静岡県浜松市天竜区にある国道152・362号の鹿島橋と煉瓦トンネルの鳥羽山洞門へ行ってきました。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは鳥羽山公園の駐車場。グーグルマップで目的地周辺の駐車場所を探してみたところ、ここが適当そうな場所だったのでやって来ました。


鳥羽山にはかつて鳥羽山城というお城があり、現在は公園になっています。最後に立ち寄ってみたいと思います。


まずは鹿島橋へと向かうため、鳥羽山を下りていきます。


下りていく道は、かつて二俣(天竜区の中心街)と浜松を結ぶ街道の峠道だったそうです。




細い路地を見下ろします。この真下には後ほど紹介する鳥羽山洞門があります。


「筏問屋 田代家住宅」の裏手へと下りてきました。今は素通りしますが、こちらも後ほど訪れてみたいと思います。


天竜川に架かる国道152号・362号の橋梁「鹿島橋」へとやって来ました。


鹿島橋の開通は昭和12年(1937年)。同地に明治44年(1911年)10月に開通していた吊り橋「天竜橋」が、昭和時代に入って自動車を含む交通量の増大(信号所を設置して通過車両の交通整理をするほどだった。)と老朽化の進行に悩まされ、その解消のため新たに架橋された橋梁です。

土木学会発行の「日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2800選」によると、全長は216.6m。現存する戦前の道路用鋼トラス橋で最大のスパン(102m)を持つ上曲弦トラス橋だそうで、Aランク(国指定重要文化財相当)に評価されています。


こちらは鹿島橋のやや上流側に現存する旧浜名用水取水口跡。昭和17年(1942年)から昭和21年(1946年)にかけて建設されました。その後、昭和53年(1978年)にさらに上流に船明ダムが完成して取水口がダムへと移動したことにより、その役目を終えました。


この取水口跡はご覧のとおり天竜川の水面とは接していません。上流に多くのダムがあり、水量が減っていることもありますが、進行し続ける天竜川の河床低下により、常に取水量不足に悩まされていたそうです。


鹿島橋のたもとへと来ました。このまま対岸へと渡っていきます。


対岸の橋のたもとです。


下流側には天竜浜名湖鉄道の天竜川橋梁が見えています。


戦前製の武骨な鋼橋の姿を眺めながら二俣側へと戻っていきます。








二俣側へと戻ってきました。


下流側へとしばらく歩きます。


天竜浜名湖鉄道の天竜川橋梁です。昭和15年(1940年)完成。全長は403mで、3連トラス橋と7連桁橋の構成となっており、国の登録有形文化財に指定されています。






鳥羽山をくぐり抜ける天竜浜名湖鉄道のトンネル。名称はわかりませんでした。




トンネルの横にある椎ヶ脇神社御旅所。椎ヶ脇神社の本社は鹿島橋を渡った対岸にあります。「御旅所」というのが気になり調べたところ、椎ヶ脇神社の例大祭の時に、祭神が神輿に乗って天竜川を渡り、一泊する場所だったそうです。



※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

椎ヶ脇神社御旅所から歩くこと2分。ようやく今回の本命「鳥羽山洞門」へ来ました。


鳥羽山洞門は、明治32年(1899年)の開通。トンネル延長は137.8mになります。かつて二俣と浜松を結ぶ街道は、トンネルの真上にある鳥羽山峠を上り下りしていたわけですが、その峠越えの労を解消するために開削されたトンネルです。


以下は天竜市史下巻に記載されていた鳥羽山洞門に関する記事の抜粋です。

「浜松・二俣間道路」
「浜松町元城から二俣町二俣に至る道路で、古くから二俣西街道と呼ばれていた。明治26年(1893年)7月、路線整備のために浜松町、曳馬村、有玉村、中郡村、美島村、平貴村、小野田村、麁玉村、赤佐村、二俣町で「浜松町外九ヵ町村組合」を組織。」

「この組合の最も重要な事業が鹿島の天竜川に橋を架けることと、鳥羽山に隧道を掘ることであった。鳥羽山洞門は、明治32年(1899年)9月に開通。長さ75間(約135m)、高さ12.5尺(約3.8m)、道幅12尺(約3.6m)、工事費は22,618円33銭1厘であった。」

扁額は制限高・制限幅の注意標識に挟まれていますが、文字を読み取ることはできます。普通、トンネルのことを昔は「隧道」と表記していますが、ここは「洞門」と表記しています。




アーチ部分は焼過煉瓦の4重巻きです。


かつてトンネルの坑口付近は鉄骨で補強されていましたが、現在は鉄骨が撤去されて、代わりにメッシュで覆われています。




中央部は煉瓦巻きのままになっています。古い道路用トンネルだと、中央部は素掘り剥き出しのままが多いですが、このトンネルは総煉瓦巻き立てになっています。






反対側の坑口付近も天井がメッシュで覆われています。


反対側の坑門と扁額です。






アーチ部分を見ていたら、煉瓦を竪積みにしている箇所がありました。鉄道用の煉瓦アーチでは時々見かけますが、道路用煉瓦トンネルでは初めて見ました。




それではまたトンネルをくぐって戻ります。


トンネル遠景。手前の建物は筏問屋の田代家が明治30年(1897年)に建てた船宿で、昭和初期まで天竜川を筏流しで下ってきた筏師が宿泊していたそうです。


「筏問屋」田代家住宅です。主屋は安政6年(1859年)の再建です。田代家は、徳川家康が浜松城を本拠地にしていた時代に朱印状を下されたことをきっかけに、天竜川を行き来する船や筏に課税する役所の請負をしたことで大いに栄えたそうです。江戸時代に入ると名主と渡船場の船越頭も務めました。




ボランティアの方に説明を受けながら、主屋の中を興味深く見学させてもらいました(その分、部屋の写真を撮るのをすっかり忘れましたが…。)。ボランティアの方によると、田代家が朱印状を下されたのは、武田氏の遠州侵攻の際に、徳川方の天竜川渡河に協力したことがきっかけらしいです。

実際、武田氏は信玄・勝頼の二代に渡って徳川氏と二俣城(天竜区二俣の天竜川河畔にあった山城。)の争奪戦をしていますので、ほぼ事実なのでしょう(家康による遠江領の領地経営について、地元の有力者として協力していたようですし。)。

最後に鳥羽山城跡へと立ち寄ります。


各所に背の低い石垣が残っています。


大手門跡。


鳥羽山城跡の説明板。隣の山にある二俣城を巡る徳川氏と武田氏の攻防の際には、鳥羽山城に徳川方の本陣が置かれたそうです。徳川家康の関東転封以降は堀尾氏が入城し、現在残る石垣を有する城郭へと改修したそうです。


山頂からの眺め。眼下に鹿島橋が見えています。


四等水準点「鳥羽山」。標高は108.52mです。


東門跡。


暗渠。


城跡南面の石垣。発掘調査の結果によると、堀尾氏入城後は、戦時用の城ではなく、迎賓館的な性格を帯びた城へと変化したようです。


車へと戻ってきました。いろいろな場所を巡りましたが、歩き回った時間は2時間ほど。当日は曇天ながら気温が17度まで上がり、汗ばみながらの散策となりました。


さて、帰宅後、いつも通りにブログを書くための復習と資料収集でネット検索をし、ヒットした記事を読み漁っていましたが、とんでもないブログを見つけてしまいました(廃道好きな人間的に(笑)。)。

鳥羽山には、鳥羽山洞門が開通する前にも別のトンネルが存在していたというもの。そのブログによると、鳥羽山洞門が開通した明治32年よりも古い地形図の違う地点にトンネルの記号が記されているそうです。ブログ主は実際に現地を訪れ、トンネルの埋没地点と思われる場所を確認しています。

「今昔マップ」により確認したところ、鳥羽山洞門の開通よりも10年古い1889年~1890年の地形図にトンネルが載っています。現在の地形図に書き込むと以下の場所になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

これは早急に現地へ行って確認してみないと気が済まない…。しかし、このブログを書いている時点で実はまだ再訪していません。先週は資格試験の受験があり、今週末はラリー絡みの用事があるので、ちょっと行くことが難しい…。

再来週までお預けです…。
Posted at 2023/01/25 15:43:48 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年01月11日 イイね!

「南部新道」(府縣道甲府静岡線)の廃トンネルを探索しました

2023年1月8日日曜日、山梨県南巨摩郡身延町にある廃トンネルなど3か所を巡ってきました。まずは旧国道52号の廃トンネル「下山隧道」と、国道から格下げ後、町道として現役の「榧ノ木隧道」の2か所を訪れました。

今回は、3か所目となる廃トンネルの訪問記録を記します。「訪問」と言うよりも、明らかに「探索」でしたが(笑)。

※2万5千分の1地形図「南部」:昭和3年(1928年)測図。

榧ノ木隧道から南部町方向へと国道52号を進み、最寄りとなる駐車帯へとやって来ました。


場所はこちら。駐車場所から目的地と推定される場所まで、徒歩で向かいます。地形図で見ると富士川沿いに破線道があるようなので、それを利用するつもりです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道から進入ポイントへと向かう細い道へと入ってきます。


ところが、進入ポイントに到着して確認したところ、沢へと落ち込む急傾斜の斜面があるだけで、どう見ても破線道が見当たりません…。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

仕方がないので、南隣にある小さな沢を下ってみましたが、突き当りが崖…。


次は、破線道が分岐しているはずの沢の対岸へと移動。戦前の地形図だとこちら側に徒歩道があったようなので、道が残っているかわかりませんが、取りあえず進入してみます。


3軒ほどの家屋が残る無人の集落を通り抜けたら、鬱蒼とした竹薮に遮られ、進めなくなってしまいました。この後も、竹薮には散々苦しめられることになります…。


山の中を上り下りしながら、なんとか富士川を目指して進んでいくと、低い尾根の突端に出ました。そして、眼下には興味を引くような平場。


何とか平場へと下りて、周囲の様子を見てみると、どうやら道の分岐点のようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢へと下る道があったので進んでみます。


なんと斜面に立派な石垣があります。「これは橋台だな。ということは『南部新道』へ出てきたんだ!」。


対岸にも石垣があります。こちらの石垣は、おそらく沢水による洗掘を防止するための擁壁でしょう。


先ほど「南部新道」という言葉を出しましたが、ここで少々説明を。「南部新道」という呼び名を知ったきっかけは某著名廃道系サイトです。探索時点では、廃トンネルが残るこの廃道が、かつて「南部新道」と呼ばれる道だったとしか理解していません。

今回ブログを書くにあたって、ネットで「南部新道」の出典をいろいろと検索してみましたが、全然わかりませんでした。結局、この廃道について私がわかった事柄は、某著名廃道系サイトとネット検索でヒットした「身延町誌」に記述されていた内容まででした。

書き表すと、従来の街道である「身延道(駿州街道)」に代わって、明治9年(1876年)から明治11年(1878年)にかけて、身延町大野から南部町中野の間の富士川沿いに「新道」が建設され、「縣道一等 駿州往還」と呼ばれたこと(新道区間も縣道に含まれた。)。その後は大正期の道路法施行により「府縣道 甲府静岡線」となり、昭和7年の榧ノ木隧道竣工を含むルート変更により府縣道ではなくなった。というところまでです。

身延町誌では「新道」または「縣道」と記されており、「南部新道」という言葉は全く出てきません。「南部」は隣町の南部町を指しているので、あえて記していない可能性もあります。南部町は「南部町誌」を発行しているので、閲覧することができれば新しい情報が得られるかもしれません。

それでは話を戻します。

ここで橋跡を見つけたわけですが、一旦逆方向となる身延町大野側へ少し進んで、南部新道を辿ってみることにしました。

路肩に土留め擁壁が残っています。廃道は目立つ遺構が少ないので、このような石造物はやはり目を引きます。


土留め擁壁を確認したところで、あっけなく寄り道は終了。寄り道でこの折り重なった枯れ竹を乗り越えていく気にはなりません。


沢まで戻ってきました。この先も沢がある場所は、このように深く抉れていることが予想されます。この場所は沢へと下りられる道が残っていましたが、この先もあるとは限らず、頭が痛い問題です。


沢底から両側の廃道を見上げます。高低差10m以上はあるでしょう。




急斜面を登って、対岸にある廃道の続きへと出ます。


そして、ほんの少し歩いたら笹薮の海…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

背丈以上の高さがある笹薮で前方が見通せず、このまま突っ切って進めるのかわからなかったので、木によじ登って前方を偵察。少なくとも崖崩れはしていないようです。


至る所にぬた場がある笹薮を勢いを付けて突っ切り、なんとか笹薮の海は突破しました。


そして、また深い沢に遭遇です…。


足場になりそうな場所を選んで、露出している木の根っこや笹にしがみついて沢底へ。また対岸の廃道へと登り直します。


今度は廃道の路面が大きく崩落しています…。


急斜面で下りることができないので、山側へ高巻きして迂回。しかし、密生した竹薮と折り重なる枯れ竹が行く手を阻みます。体をよじり、跨いでくぐって、わずかなすき間を見つけながらジリジリと進んでいきますが、「なんでこんなことしてるんだろう…。」という気分になってきます…。




10分ほどかかって、ようやく密生地帯を脱出。




久しぶりに廃道が現れました。ここでちょっと一息つきます。


ホッとしたのも束の間、もう嫌になるほど折り重なった枯れ竹の群れが現れました…。「こんなの通り抜けられるわけないだろう!」と心の中で愚痴ります。


「もういいや、さっさと沢へ下りよう。」と沢底へ迂回。沢の中まで枯れ竹が折り重なっています。


対岸の廃道へ登り直し、枯れ竹が無ければ歩いたはずの場所を眺めます。長くて立派な石垣が残っています。沢に沿った道なので、法面を守るために石垣で固めたのでしょう。


「ヘアピンカーブの地点に暗渠が残っているかも。」と思いながら、奥へと進んでいきます。


暗渠が残っていました。一瞬、石アーチかと思いましたが、よく見ると石をコンクリートでアーチ状に固定してあるようです。


そして、沢から上がり、頭を上げたところ、「あっ、あった…。」。

やっと3か所目の目的地である無名の廃トンネルに到着しました。廃道側から来ると廃トンネルは直角方向なので、山の陰に隠れて直前までわかりませんでした。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

まさにこのトンネルです。

※2万5千分の1地形図「南部」:昭和3年(1928年)測図。

さてこのトンネル、扁額が無いため名称は不明。建設された時期も経緯も不明のようで、「身延町誌」にも記録はありません。ただ、戦前の地形図が測図された昭和3年には存在していたことは間違いないでしょう(このコンクリートトンネルではなく、素掘りトンネルだった可能性もありますが。)。


関係性があるのかはもちろん不明ですが、坑門から突出したアーチ部の分厚い巻き立ては下山隧道を彷彿とさせます。


丁寧に造られた感じで、見た目の雰囲気だけで言えば、粗製乱造の昭和戦中期ではなく、昭和初期のコンクリートトンネルと言って全然差し支えないように思います。


トンネル内部へ入っていきます。シミは多いですが、特に剥落している箇所も見当たらず、きれいなものです。


指摘されていることですが、路面には車両の轍が全くありません。


現在の国道52号である峠越えルートが開通した昭和7年以降、この廃道が利用されなくなっていったとして90年余が経過しているわけですが、旧版地形図に描かれているということは当時は一般に供用されていたわけですし、そうなれば自動車は通っていないとしても、荷車や馬車は通過していたはずです。長い年月で路面が均されてしまったのでしょうか。

トンネル内は全面コンクリートで覆工されていますが、あちらこちらで砂利が浮き出ています。建設された当時のコンクリートの製造品質によるものでしょう。




反対側の坑口へと出てきました。こちら側は土砂が流入して、半分ほど埋没しています。




反対側の坑門です。こちら側も扁額はありません。




廃トンネルを後にして、廃道を進める所まで進んでみることにします。


また路面が崩落しています。山側へ迂回し、先へと進みます。




廃道の川側に標石が立っています。読み取れたのは、「山梨縣」と「右 二八五」という文言ですが意味不明です。


次に現れたのは、建設省のものと思われる標石。「建 33-4」とあります。富士川の河川区域の境界を表す標石なのでしょうか。全然わかりませんね。




また崩落箇所に遭遇です。山側へと迂回します。本当にこのパターンの繰り返しが続きます。




明治期車道(馬車道)らしい道幅に戻りました。


倒木が絡まっていますが、通過には支障なさそうです。


川側の路肩には石積み擁壁が残っています。ここで落ちたら富士川まで真っ逆さまです。


けっこうな落差のある崩落箇所に突き当たりました。一応、山側に獣道のような踏み跡が残っていましたが、この先を探索しても同じことの繰り返しにしかならなそうなので、ここで引き返すことにしました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

廃トンネルまで戻ってきました。帰りはこのまま廃トンネルのある尾根へと登り、短距離で戻れそうなルートを探します。


尾根へ登ると古道を発見。これは助かります。




見覚えのある場所へと出てきました。国道から曲がって入り込んだ細い舗装道です。廃トンネルからこんなにあっけなく出てこられるとは、ここまでの苦労は一体…。


場所はこちら。このルートがわかっていれば、廃トンネルまでほぼ一直線でした…。まあ、廃トンネルを訪問した誰かが接近ルートを公表しない限り、どのルートが最短かは現地を歩き回ってみないとわかりませんからね。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

最後に追い打ちをかけるような急坂を国道52号まで登り、やっと車へと戻ってきました。出発して約3時間半が経過していました。


ここ最近の探索では最悪の部類に入る悪コンディションにすっかりグロッキーです…。廃トンネルそのものの情報はあっても、アプローチに関する情報が乏しかったので、接近するルートが試行錯誤になり無駄足が多かったのと、とにかく竹薮と枯れ竹と路面崩壊がねぇ…。

まあ、これで目的は果たしたので、新しい情報でも入らない限りは再訪することはないでしょうけどね。
Posted at 2023/01/11 22:02:01 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年01月09日 イイね!

旧国道52号 下山隧道と榧ノ木隧道を訪れました

2023年1月8日日曜日、山梨県南巨摩郡身延町にある廃トンネルなど3か所を巡ってきました。まずは旧国道52号のトンネル「下山隧道」と「榧ノ木隧道」の訪問記録を記します。「下山隧道」は廃トンネルで、著名な廃道系サイトでも紹介されています。「榧ノ木隧道」は、現在は身延町道の現役トンネルになります。

下山隧道の最寄りとなる国道52号の駐車帯へとやって来ました。廃道探索目的で山梨県を訪れるのは今回が初めてです。


場所はこちら。駐車場所から600mほど国道を歩いて、下山隧道への進入ポイントへと向かいます。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは下山隧道付近の戦前の地形図です。

※2万5千分の1地形図「身延」:昭和3年(1928年)測図。

さて、駐車場所から現地へは歩いて向かう訳ですが、この付近の国道52号は歩道が設置されておらず、わずかな幅の路肩に身を寄せて、車に注意しながら進むことになります。中部横断道が全線開通したおかげか、昔を思うと交通量が減っているのは幸いです。


国道からの富士川の眺め。谷あい全体を大量の土砂で埋め尽くして流れる富士川の影響で、国道は山の中腹を通過しています。路肩から真下の河原を見下ろすと、「ゾクッ」とするほどの高さがあります。


歩くこと10分、下山隧道への進入ポイントに到着です。前方に見えているのは、国道の古屋敷洞門。下山隧道への目印となる物件ですね。


かつての旧道へと入り込みました。ただ、この場所は盛り土がされており、本来の旧道の路面よりも高い位置になっています。


100mほど歩くと、沢を挟んだ眼下に下山隧道が見えました。写真では非常に見えにくいですが、丸印の中央部に写っています。


あらためて下山隧道です。竣工は大正12年(1923年)12月。延長は234m。昭和43年(1968年)に古屋敷洞門を通過する現在のルートへと改修工事が完成したことにより廃止されたそうです。




坑門の意匠には凝った要素は何もありませんが、その中で際立つ特徴は頭上に掲げられている巨大な扁額です。




トンネルの坑口には全面に金網が張られていますが、経年劣化によるものか、何者かの仕業によるものか、相当以前から穴が開いております。失礼して、中へと入らせていただきます。


トンネル内部は全面コンクリート覆工されていますが、路面は未舗装のままです。


一部分だけコンクリート覆工が厚めに巻かれています。ひび割れか水漏れが酷かったのでしょうか。


案の定と言うべきか、トラックの荷台や荷物に繰り返し削られた生々しい傷跡が残っています。あまりに削られて、コンクリート覆工の芯に入れられていた木材(支保工?)が露出しています。


坑口からしばらくの区間は漏水が酷いようで、アーチ部分にシミが多く、路面にも水溜りが続いています。




路面が乾いてくると、この先は特に記述するような目立った痕跡や特徴も無くなり、ただただきれいに覆工され、のっぺりとした白いトンネルが続いています。白くて、面が滑らかなためか、カメラのピントが全然合わず、写真を撮るのになかなか手こずりました。






側溝のふたは今もよく見かけるタイプのもの。昭和40年代前半にはこの形状になっていたのですかね。


アーチ部分に凹みを発見。当然、水抜き穴ではないし、トンネル変状などの検査用の穴にも思えませんし、一体何のための凹みなんですかね。


コンクリートが剥落しています。それでも、ここまで見る限りではきれいに保たれている廃トンネルです。


ここまででもチラホラと廃棄物が転がっていましたが、大物であるタイヤやその残骸と思われる物も転がっています。金網を張った時に片付けしなかったのですね。




反対側の坑口へとやって来ました。




側壁部分のコンクリートが両側とも剥落しています。




こちら側も金網が張られていますが、這い出ることができる程度の穴が開いているので、地面に四つん這いになって外へと出ます。

反対側の坑門です。デザイン的には進入した側の坑門と変わりありません。




唯一違うのは、「下山隧道」の文言の下部に小さく竣工年月が記されていることです。


こちらの坑門の前はスペースがなく、どうやっても坑門全体を1枚の写真に収めることができません。


理由は、坑門の直前を流れている沢が深く抉れているため。5mくらいの崖になっているので、気を付けないと足を踏み外して転落してしまいます。そして、その先には旧道が見えています。




長居したくなるような目ぼしい物もないので、これで引き上げることにします。






いやぁ、天井がゴリゴリ削られていますね。私の地元だと国道153号の伊勢神トンネルが古くて高さ制限3.5mなので、トラックの幌の角が壁面に擦れて、無数の線状の傷が付いていますね。


進入してきた側の坑口へと戻ってきました。


前述したようにトンネルの正面は盛り土になっているので、トンネル前への出入りには盛り土の斜面を行き来しなければなりません。土が脆いので、少々気を遣います。




もう一度坑門を撮ってみましたが、強くなってきた日射しをもろに受けて陰影が濃くなり、思うようにきれいには撮れませんでした…。


坑門横の翼壁を登り、頭頂部の裏側へと回ってみました。裏側の壁面は玉砂利が剥き出しのままの状態。人目の付かない所には化粧を施さなかったようです。昔はセメントも高かったでしょうからね。


トンネルの前を見下ろします。ボックスカルバートの橋が架かっていますが、現役当時のものなのかは不明のようです。確かにトンネルに対して、橋の幅が狭いようには感じます。




これで下山隧道も見納めです。


こんな場所から国道へひょこっと姿を現すと、通りがかった車の人は「あいつ何してるんだ?」と疑問に思うでしょうね(笑)。


下山隧道の位置図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

続いて2か所目となる榧ノ木隧道へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

あらためて榧ノ木隧道です。昭和16年(1941年)3月に内務省土木試験所より発行された「本邦道路隧道輯覧」によると、起工は昭和6年(1931年)12月15日、竣工は昭和7年(1932年)6月30日で、延長は206mです。


トンネル開通以前、身延町大野から南部町中野の区間では、富士川沿いを通過していた府縣道甲府静岡線(国道52号の前身道。)。昭和6年(1931年)に自動車道への改修工事が提起された際(身延町誌では「昭和6年に縣道改修問題が起きる。」としか記述していないが、時代的に馬車道から自動車道への改修の問題だと思われる。)、通行上も保守上も問題の多かった富士川沿いから、榧ノ木峠越えへとルート変更が決定され、これに伴い建設されたのが榧ノ木隧道です。

※2万5千分の1地形図「南部」:昭和3年(1928年)測図。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

坑門には、石アーチや頭頂部のティンディル(歯飾り)、石積み調の文様などが装飾されており、このトンネルへ込めた期待度が見て取れます。


一方で、こじんまりとしたサイズの扁額。竣工年月の記載はありません。


トンネル内部はコルゲート材ですべて覆われているため、かつては素掘りだったのか、それともコンクリートなどで覆工されていたのか確認できませんが、「本邦道路隧道輯覧」によれば、場所打ちコンクリートにより全面覆工されていたようです。


反対側の坑門・扁額も同一のデザインです。




車へと戻ってきました。


それでは3か所目の目的地へと移動します。目的地はこの地形図の中にあるのですが、たどり着くまでにものすごく苦労しました…。

※2万5千分の1地形図「南部」:昭和3年(1928年)測図。
Posted at 2023/01/09 21:25:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年01月03日 イイね!

旧国道156号 内ヶ戸第二号隧道へ立ち寄りました

2022年12月3日土曜日、旧北陸本線 若水隧道を探索後、岐阜県大野郡白川村内ヶ戸に残る旧国道156号 内ヶ戸第二号隧道へ立ち寄りました。

場所はこちら。国道156号新内ヶ戸トンネルの旧道区間にあり、内ヶ戸第一号・第二号の2つのトンネルが存在しています。過去にこの旧道区間を探索した方のレポートを読むと、内ヶ戸第二号隧道から先、第一号隧道へと向かう区間が崩落斜面の連続地帯となっており、踏破するのが著しく困難な廃道のようです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

内ヶ戸第二号隧道へつながる旧道区間の入口となる、国道156号 椿原橋のたもとへとやって来ました。時刻は15時25分。周囲はすっかり夕暮れ時の雰囲気になっています。


椿原橋と新内ヶ戸トンネル。東海北陸道が開通するまではなかなかの交通量があったこの付近の国道156号ですが、現在は時折通過する車があるだけで、すっかり閑散とした様子になっています。




新内ヶ戸トンネルの銘板。銘板によると昭和55年(1980年)1月の完成とあります。しかし、隣接する椿原橋を含め、白川村から富山県側との間の国道156号の道路改良は昭和54年(1979年)内には全線完成したようす。なぜ時期がずれているのか理由はわかりません。


それでは旧道区間へと入っていきます。


ダム湖を挟んで眺める東海北陸道椿原橋と椿原ダム。


ネットを検索すると2009年と2010年にこの旧道区間を探索したレポートが見つけることができますが、どちらも椿原橋から内ヶ戸第二号隧道までは容易に辿り付けたと記述しています。今のところは、その記述のとおりの平穏な様子です。




あれ?トンネルにまだ着いていないのに豪快に崩落してますね。まあ、2010年から12年も経過していますからね。こんなこともあるでしょう。


様子を見るために崩落斜面の上に登ってみます。これは…。行けそうな気がしないでもないですが、なんか嫌な雰囲気です…。


崩落斜面上からの写真を撮影した時刻から「34分後」、斜面の反対側へとようやく通過しました。


ここからの写真は、トンネルから車へと戻る際に撮影したものですが、どのようにこの崩落斜面を越えたのかという説明を少しいたします。

最初にそのまま真っ直ぐ斜面へと入り込んでみると、土や石が全然引き締まっておらず、体重をかけるとすぐに崩れてくること、かつての路面からダム湖側が一気に落ち込んでいることからくる高度感に、一度はそのまま横断することを断念。すこしでも余裕がある場所でと、崩落斜面上部での高巻きを試みました。

しかし、斜面上部も脆い状態に変わりがなく、横断する前に反対側の状態が確認できないことと、さらに高い場所でダム湖まで一直線に見える状況に恐怖を感じ、結局、高巻きも断念。

最初に踏み込んだ場所から崩落斜面を横断するルートを造ることに決め、靴と枯れ木で地道に斜面を削り、踏み固めて前進することにしました。




両足を置けるように階段状にルートを造って、なんとか斜面の中央部まで前進。




この先がまた難所で、絡み合う倒木をどのようにして通過しようかと何パターンも思案。最初の倒木は跨いで、その次の倒木は幹と幹との間をくぐって通過することに決めました。




身を任せることになる最初の倒木に何度も思い切り体重をかけて、簡単に揺れるような動きをしないことを確認。とは言っても、全体重をかけた途端に倒木が抜け落ちる可能性もあります。そこは揺さぶって確かめている間に次の足場をしっかり確認したうえで行動をシミュレート。

最初の倒木を馬乗りに跨ぎ、つづいて二股の倒木の間をくぐります。そして、その先の斜面へと足を掛けて、「よしっ、やった。」と思った瞬間、足を置いた斜面がいきなり崩落。体を思い切り前のめりにして駆け足で路面へと着地。冷や汗ものでしたが通過できました。


この時、ダム湖へと土と石が「ザーッ…、ドボン、ドボン、ドボン」と落ちていく音を聞きながら、しばらく体が震えていました…。

「帰りも無事に通過できるかな…。どこか迂回路がないかな…。」などと考えながらも、気を取り直して廃道を進んでいきます。




トンネルが見えてきました。


内ヶ戸第二号隧道です。延長は56mで、竣工は昭和23年(1948年)とのこと。その当時からコンクリートトンネルだったのかは不明です。




扁額です。


トンネル内へと入っていきます。2009年・2010年の探索レポート内の写真にも写っている資材がそのまま残されています。もはや運び出すことは不可能ですが。






トンネルの先から内ヶ戸第一号隧道へと続く崩落区間。こちらは逆に12年の歳月を経たことで、安定してきているようには見えます。慎重に進めばある程度の距離は進めそうな雰囲気ですが、時間的にも精神的にもそのような気分にはなれませんでした…。


反対側の坑門と扁額です。




それではふたたびトンネルを通って、車へと戻ることにします。






トンネルからこの崩落斜面までの道中、迂回路は見い出せませんでした。帰るためにはあの斜面を越えていくしかありません。

まずは崩落した部分を確認。もろい表層部が崩れたことで、しっかりした面が表に現れて、かえって良い足場になっています。往路と逆の手順で倒木を通過していきます。


6~7分ほどかかって難所を通過。これで無傷のまま帰れる見込みが立ちました。


新内ヶ戸トンネル前に駐車している車まで戻ってきましたが、そのまま国道を横断して、その先へと続く旧道区間へと進んでいきます。


この先に架かっている廃橋 馬狩橋を見るためです。


馬狩橋も国道156号の旧道。銘板には昭和27年(1952年)に岐阜県により建造されたものとあり、親柱にある銘板では、竣工は昭和28年(1953年)とあります。その後、椿原橋が開通する昭和54年(1979年)まで利用されたわけです。






16時40分、ようやく探索が終了しました。気楽な廃トンネル訪問のつもりが、崩落斜面の登場でとんだ事になってしまいました。あらためて、無茶をしないよう見極めが大事ですね…。
Posted at 2023/01/03 13:16:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年12月18日 イイね!

本宮山「新城道」と呼ばれる廃林道を歩きました

2022年11月6日日曜日、本宮山の「新城登山口」から本宮山山頂までを往復し、その足で「新城登山口」の近くから始まる廃林道を歩いてきました。

さて、本宮山の山行記録をネット検索すると、この廃林道を「新城登山口」から本宮山に至る登山道「新城道」として紹介しているものをいくつか見かけます。

しかし、下記の写真のとおり「新城登山口」からの参拝道とこの廃林道は接続しているわけではありません。ただ、その辺りを言及している記録はありませんでした(まあ、「道」そのものに興味が無ければそれも当然ですが。)。


「新城登山口」へ向かうため、国道301号和田峠の途中にある駐車帯へとやって来ました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

駐車帯から何気に山側を見た時に、大きな石碑が立っているのが目に入りました。この国道は何度も通っていますが、今まで全然気が付きませんでいた。


文言を読むと「林道開鑿記念」とあり、上部には「其功不朽」とあります。書は愛知県知事 田中 廣太郎 氏によるもの。田中氏が愛知県知事に在任していたのは昭和12年(1937年)から昭和15年(1940年)のこと。そして裏面には「昭和十三年四月建立」とあります。


「林道開鑿記念」との文言を見た時は、てっきり戦後のものかと思いましたが、これは想像していたよりも古い石碑でした。

現在、国道301号と廃林道は切り離されていて、人目に付かない状態になっています。国道とは段差が付けられていて、なおかつ廃林道の出入口には盛り土がされています。


盛り土の奥へと入ると明瞭な道跡が残っています。


この後は、まず本宮山までの参拝道の探索を行うため、廃林道の探索は戻ってきて時間があれば行くことにしました。

山頂から戻ってきて時刻は16時10分。間もなく日が暮れようかという時間ですが、せっかくなのでアタックすることにしました。


現代の「林道」だと、少なくとも自動車が通れる道幅は確保されているイメージを持っていますが、この道幅は軽トラでも厳しいのではないでしょうか。


道幅が広がってきました。


岩壁を削って、道幅を確保しています。


一旦は自動車が通行できるレベルの道幅になったと思ったら、ついに軽トラでも通行不能な道幅になってしまいました…。しかし、私のテンションは逆に上がってきています(笑)。路肩の乱積みされた石積みの擁壁。まるで明治期車道のような雰囲気です。


狭いですね。明治期車道はいわゆる馬車道・荷車道ですが、それらの道よりも狭い。ちゃんと「林道」として木材搬出などに利用された道なのでしょうか?


それはともかくとして、急傾斜地に石積みで路盤を確保して道路を通すというシチュエーションは大変結構であります(笑)。


暗渠が見えてきました。


場所はこちら。


覗いてみると、側壁はコンクリート製で、天板は石材になっています。粗雑な造りでしたが、コンクリートを使われているところから見ると、やはり記念碑どおりの時期の建設のものでしょう。


この場所は谷側を細い道で通っていますが、山側の岩盤には段差が付いており、掘削し切れなかったのかと思われます。本当なら岩盤を平らに仕上げて、谷側には石積みの擁壁を築き、道幅を確保したのだと考えられます。




ここも石積みの擁壁で道幅を確保していますが、道幅が狭いですね。


大きく上部まで岩盤を掘削して林道を通しています。ここまで「狭い、狭い」と連発してきましたが、この林道工事が相当な難工事だったことは想像に難くありません。


場所はこちら。


すっかり昔の街道レベルの道になってしまいました。


ここまでの道中、岩が剥き出しの荒々しい場所が多いですね。


倒木を越えていきます。


深い谷底を流れていた沢が接近してきました。


どうやら林道の終点に来たようです。正面に岩があり、大きな段差になっています。


場所はこちら。


そして、「この先はどんな様子かな?」と覗いてみたところ、何と林道はまだ先へと続いているようです。もう明らかに「車」が通行できる道ではないですが、岩盤を掘り下げて道形にしてあります。


「こんな良い廃道が本宮山にあるなんて!」とまたテンションが上がります(笑)。今回はすでに日没が迫っているため、あんまりのんびりと留まって写真を撮っているわけにもいかず、残念ながらそこそこの枚数を撮ったら移動です。




沢の真横を通り、林道はさらに続いていきます。


沢に接近したことで、だいぶガレ場が増えてきましたが、まだまだ道は鮮明に見えています。




ここはもう徒歩道の幅しかありません。周囲は岩なので、開通時からこの幅だったのかもしれません。


すでに16時半を回っていますが、ここまで来たら区切りの付く所まで行くしかありません。


陶製の土管。現在ならコンクリート製の土管かコルゲート管を使っているので、もしかしたら戦前製のものかもしれません。


倒木や雑草などが増えてきましたが、まだ林道を追っていけます。




林道が削れてしまい、沢の水が流れ込んでいます。


沢のほぼ最上流まで来ました。ここで左へとヘアピンカーブしていきます。




そして伐採用の作業道へと出てきました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この先、作業道を進んでも直に本宮山スカイラインへと合流するだけなので、廃林道の探索はこれにて終了し、引き返すことにします。帰りは作業道から本宮山臼子道へと入り込み、薄暗闇となった植林地の中の山道を急いで下っていきます。このような場所で急ぎたい時は、直線的なルートを取る古道の徒歩道に勝るものはありませんよね(笑)。

本宮山山頂への往復時に通った高圧線鉄塔。往復時には明るかった場所も夕闇に沈み始めています。


17時05分、無事に車へと戻ってきました。最後はスマホのライトを頼りに歩く状況でしたが、一度通った道なので迷うことはありませんでした。


今回のルート図です。


さてさて、この廃林道の建設目的を考えてみたいと思います。戦前開通の「林道」は珍しいので、地元の安城市図書情報館へ出かけて、地誌などの本をあたり、該当しそうな記事を探してみることにしました。

まずは新城市の「新城市誌」で本宮山や林業の項目について調べてみましたが、関係する記事は見当たりませんでした。次に「愛知県議会史」の7巻(昭和7年から12年の議事が掲載されている。)で林道の建設や補助金に関する議事が無いか探してみましたが、これも該当するような案件がありませんでした。

最後に「愛知の林業史」という本を調べてみました。やはり、この林道についての記事はありませんでしたが、戦前の林道建設に対する助成事業ついての概略的な記事がありました。

その記事によると、昭和7年(1932年)に国の時局匡救林道助成事業及び山村救済林道助成事業というものがあったようです。これらは当時勃発した世界恐慌に端を発する不況により大きなダメージを受けた山村地域を救済するために行われた助成事業の一つです。

この助成事業は、「小規模な林道を普遍化することを本旨とした助成」ではありましたが、当時の国の山林局長通牒(昭和7年山第1297号)には、「ナルベク短距離ノ林道ヲ多数助成スルヲ本義トス、…ナルベク多数ノ山村救済ニ努メラレタシ。」とあります。

乱暴に言ってしまえば、「とにかく短距離でも良いので、林道建設をするのであれば助成する。その建設事業によって山村地域での雇用を確保し、もって住民の救済を図りなさい。」という訳です。

この記事を読んで、今回歩いた廃林道はこの助成事業に基づいて建設されたものではないかと推測しました。

・記念碑の建立は昭和13年であり、当然それ以前に工事が始まっているわけで時期的には符合すること。
・距離の短い一林道の記念碑にわざわざ愛知県知事が揮毫しているが、当時は官選知事(選挙で当選した者ではなく、内務省を中心とした政府官僚より任命された知事。)であり、この林道建設が国の助成事業の一環で施工されたものであれば、このような事もあり得そうなこと。
・林道の規格が、建設当時も存在した自動車どころか、牛馬車でも通行困難なレベルだが、とにかく建設工事を実施して雇用を生み出すことが目的だったから、規格は二の次だったのではないか(場合によっては、道路の完成度や実際に利活用できるか否かすらも問題にならなかったかも。)。

図書館で調べ物をしただけでは、上辺をなぞっただけで本当のところはわかりませんが、状況についてはある程度合致しているので、自分としては納得いきました。

まあ結局のところは、想定外で遭遇した物件が自分好みのなかなかの出物だったのがうれしいだけなんですけどね(笑)。

※2023年11月4日追記
最近得た知識から推察すると、この廃林道は「木馬道」として造られた林道だったのではないかなと考え直しています。「木馬」(伐採した木材を搬出するための木橇。)を通すための「木馬道」であれば、この廃林道の規格で十分であり、実際、他所で探索した「木馬道」の規格も同様レベルか多少幅広い程度のものでした。

路面も、自動車や牛馬車の通行を考慮するとしっかりと整地する必要がありますが、「木馬道」では「木馬」を滑らせるための横木である「盤木」を設置できる程度に整地できればよく、路面を整地したり造成できない場所は桟道を渡したりと、建設上の自由度は比較的高いと思われます。

また、「愛知県」が建設に関わった「木馬道」の記録が、昭和3年度(1928年度)のものですが「愛知県林業報告」にあるので、この推察を裏付ける材料になるかと思います。
Posted at 2022/12/18 01:15:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

プロフィール

「【奈良県天理市】石上神宮へ行ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48702292/
何シテル?   10/09 22:33
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/10 >>

   1234
5678 91011
12131415161718
19202122232425
262728293031 

ブログカテゴリー

リンク・クリップ

旧伊勢本街道「飼坂峠」南方の廃道を探索する(1) 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2025/09/25 14:32:27
万古隧道から万古集落跡の周辺を探索しました(2) 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2025/09/04 14:47:53

愛車一覧

スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
所有4台目(4代目)となるインプレッサ。 ガチガチのマニアというわけではないですが、4 ...
スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
平成16年夏に購入。 自身3台目のインプレッサとなります。 購入理由は、2台目インプレ ...
スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
平成9年夏購入。 インプレッサ2台目。 行きつけの車屋さんへタイヤ交換の依頼をしに行っ ...
スバル インプレッサWRX スバル インプレッサWRX
平成7年夏購入。 インプレッサ1台目。 購入動機は、WRCのビデオを見たのが一番。 ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation