2021年5月30日日曜日、北設楽郡東栄町と豊根村の境にある太和金峠へと行ってきました。
現在の太和金峠は、国道151号が新太和金トンネル(延長685m)で通過しています。このトンネルは2017年(平成29年)に開通し、太和金峠を越える道としては四代目になります。
新太和金トンネル開通以前は、1958年(昭和33年)に開通した太和金トンネル(延長395m)が峠越えのルートを担っていました。このトンネルは、開通年代が古いためにトンネル内部の規格が小さく、乗用車同士でもすれ違い困難でボトルネックとなっていました。
それに加えて、2011年(平成23年)にはトンネル内部で土砂崩落が発生。老朽化も懸念されて、新太和金トンネルへと切り替えられました。現在はフェンスで封鎖され、通行止めとなっています。
太和金トンネル東栄町側坑口。
東栄町側から見たトンネル内部。
豊根村側の坑門。
トンネル諸元を記した銘板。
豊根村側坑門から見たトンネル内部。
太和金トンネルへ立ち寄ったのは5月29日土曜日でしたが(単なるドライブでの寄り道。)、翌日の5月30日日曜日、ふたたび太和金トンネルの前へとやって来ました。
2017年5月に太和金峠から東栄町側に残る太和金トンネル開通以前の旧国道(旧別所街道でもある。)を歩いたことがありますが、今回はその旧別所街道の峠道が開削された1897年(明治30年)よりも以前の峠道を探索するために訪れました。
さっそく長靴に履き替えて、旧旧旧道(新太和金トンネルから見て。)に当たる峠道へと出発します。まずは、国道のガードをくぐり、谷底を流れる沢へと向かいます。
歩くこと数分で沢に着きました。ここから沢沿いに峠へと登っていって道跡を探索していきます。
砂防ダムを乗り越えていきます。
砂防ダムがあることで沢が埋まり、道跡が消えてしまっていないか心配でしたが、幸いにも明瞭に残っていました。
沢に架けられた丸太橋の先に道跡が続いているので、丸太を渡り進んでいきます。
2か所目の丸太橋(と言っても沢に転がしてあるだけの状態。)を過ぎると、道跡は右へと折り返して斜面へと登っていきます。
ほどなく今度は左折します。
徐々に荒れてきましたが、まだ道跡は残っていて追うことができます。
ふたたび沢を渡ります。
この先から間伐材と薮の絡み合いが酷くなり、道跡を辿るのが困難になります。
これ以上歩き進めることは大変なので、頭上に接近していた旧国道の峠道へと登り出ました。
場所は地図中の十字マークの地点になります。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
旧国道から道跡があった付近を覗き込んでみましたが、それらしいものは見当たらず、この辺りで旧国道に吸収されてしまったようです。
この地点で沢を峠直下まで詰めていたので、3~4分ほどで太和金峠に到着しました。
場所は地図中の十字マークの地点になります。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
峠にある石仏。光背には文化十二年(1815年)とあります。
今回も峠の切通しの上に登り、周辺を見渡してみましたが、やはりこの石仏以外のものは見当たりませんでした。
峠から下るとすぐに林道へと合流します。左側の道が旧国道になります。
旧国道(旧別所街道)は山肌に沿って左へと大きくヘアピンカーブで曲がっていきますが、旧別所街道以前の峠道はここを真っ直ぐに下っていきます。
場所は地図中の十字マークの地点になります。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
U字型の道跡は間伐材で埋め尽くされています。
50mほどの所で道跡は右へと折り返していきますが(写真は峠を振り返って撮影。)、ここからは直進方向へと分岐しているもう1本の道跡を追ってみます。
ちょっとした堀割りを抜けます。
堀割りを通り抜けると尾根道へと変わります。幅は狭いです。
真下には新太和金トンネルを通り抜けた国道151号が見えています。
尾根にある小さなピークを右側へと避けて進むと、道跡は下り始めます。
また堀割りが現れました。
尾根の先端部をつづら折りの道で下っていきます。
峠下で分かれたもう1本の道と合流しました。帰りはこの道を辿って峠へと登ることにします。
峠の下にある路地へと合流しました。左側へと進めばすぐに国道151号です。正面の塀の向こう側はかつてはガソリンスタンドでしたが、今は空き地になっています。
場所は地図中の十字マークの地点になります。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
峠道の出入口には祠があり、神様と石仏が祀られています。
右側へと分岐して登っていく道が太和金峠への峠道です。正面の木の裏側に祠があります。
国道へと出てきました。正面の橋は津川橋。渡った先は国道151号と設楽町津具へと向かう愛知県道428号の交差点です。
木々に覆われていてわかりにくいですが、津川橋の下流側には旧橋の石積み橋台が残っています。
車へと戻るため、太和金峠への峠道をふたたび登っていきます。
行きに通った尾根道よりは道幅があり、坂も緩めに造られています。
ただ、こちらの道も間伐材がたくさん転がされていて、道跡を辿るために木を乗り越えたり潜ったり迂回しながら少しづつ登っていきます。
旧国道まで戻ってきました。
場所は地図中の十字マークの地点になります。登ってきたルートは青線になります。
「愛知の歴史街道」に記されていますが、行きに通った尾根道が旧道、帰りに登ってきた道が新道のようです。確かに、尾根道は最後のつづら折りが急で、荷馬の通行には向いていないので、荷馬の通行が盛んになった頃に道を付け替えたのでしょう。
ここからは旧国道を国道合流地点まで歩き、そこから車へと戻ることにします。
太和金峠。
旧国道(旧別所街道)。
国道との合流地点まで来ました。
場所は地図中の十字マークの地点になります。津川橋からここまで歩いてきたルートは青線になります。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ようやく車へと戻ってきました。約3時間、約4.5kmの行程でした。障害物が多かったので、距離の割には時間が掛かりました。
これで太和金峠を徒歩道で越える一番古い時代の峠道のルートを踏破できました。奥三河の主要道路である明治県道「別所街道」が太和金峠を経由するようになったのは、1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけて本郷(現東栄町本郷)から上黒川(現豊根村上黒川)まで車道(馬車道・荷車道)が開削されたことによる指定替えですが、それ以前の道は何と呼ばれていたのか、どんな格付けの道だったのかはわかりません。
ルート的には、現在の東栄町振草から新城市海老へと向かう海老街道(振草道・ふりくさ道)の延長線上にあるので、別所街道に指定される以前から交易の道として利用はされていたのは間違いないでしょうね。