今日は、新城市大字連合字市代の山中にちょこっと残っている古道跡を歩いてきました。
新城市から寒狭川沿いに国道257号を進んでいきます。
途中、寒狭川に架かる橋にちょっと寄り道。
県道435号の橋で島原橋といいます。寒狭川を挟んで「湯島」と「恩原」という地名なので、そこから一文字づつ取られたのでしょう。
親柱には「昭和十四年三月架設」とあります。
目立った装飾もない、シンプルな橋梁です。
さて、国道257号をさらに進みます。
国道420号との交差点を過ぎ、さらにしばらく進むと寒狭川に架かるボロボロの橋が見えてきます。
「市代橋」です。
この橋の欄干のデザインは、寒狭川沿いの国道257号に残る古い橋の欄干と同様のものです。
欄干はなぜか破壊されています。戦時中の金属供出(欄干に使用されていた金属材を取り出した。)によるものとか言われていますが、明確な理由は不明のようです。しかし、通行止めという訳ではありません。
対岸側です。
「いちしろはし」と書かれていると思われます。
こちらは、「昭和七年四月改築」と思われます。国道257号の前身となる自動車道路が寒狭川沿いに開削されたのと同じ時期です。
さて、この親柱に取り付けられている銘板、ホーロー加工された金属板らしいのですが、これは回収されずに残っています。この点も金属供出説に疑問符が付けられています(安城市内の同時代の橋は、銘板も回収されてしまっている。)。
親柱のデザインは、戦前に愛知県が架橋した橋に共通するものです。
橋脚はどっしりしていて、島原橋と似た感じ。
この橋の奥は林道へとつながっているだけです。
では、どうしてこの場所へ戦前にコンクリート橋梁を架けたのでしょうか?しかも、おそらく「愛知県」が関わっているものです。
愛知県内の街道を精査されている方の本によると、昔、ここは新城市海老地区と豊田市足助地区を結ぶ街道が通っていたそうでうす(大まかには国道420号の前身。)。
県道指定の際、海老地区から島原橋へのルートと争って敗れてしまい、寂れていってしまったということのようです。そのため、寒狭川に架かる橋はコンクリート橋梁に改築はされたものの、その奥は改修されず放置されたということなのでしょう。
その改修されなかった街道の名残りが林道に沿って一部だけですが残っているので、そこへと向かいます。
古道跡への入口に来ました。左手の木々の間が入口ですが、パッと見はわかりません(笑)。
木々に覆われてしまい、道跡が見えません。
それらしい跡を辿って進んでいくと、ようやく道形がはっきりしてきました。
岩の上に馬頭観音碑が立っていました。この道跡が街道であった証とも言えます。
側面には「大正六年八月吉日」と「林 長五郎 立〇」と彫られています。
少なくとも大正6年(1917年)までは、この街道での通行の安全を祈願して石碑を建立する人がいたわけです。
古道跡はこの先で林道工事によるものと思われる土砂で埋もれてしまっていました。
馬頭観音碑まで戻ってきました。
杉の植林がされていない頃ならば、寒狭川の谷が見下ろせる眺めの良い場所だっと思います。木漏れ日が当たり、静かで心地よい雰囲気だったので、しばらく佇んでいました。
この後も橋へと引き返しながらも、道跡を探して杉林の中を右往左往してましたが、それらしい跡は見つけられず、やはり林道自体が元の街道だったようです。
汗を流そうと寒狭川の河原へ降りたところ、甌穴が刻まれた岩が。
さすがに川中へドボンという訳にはいかないので(笑)、顔と腕だけ洗いましたが、ちょっとスッキリしました。
Posted at 2018/06/02 22:04:54 | |
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