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小林あにのブログ一覧

2021年01月17日 イイね!

東栄町御園と豊根村古真立を結ぶ古道を探索する

(「別所街道 望月峠道を歩いてきました」からのつづきになります。)

2021年1月16日土曜日、北設楽郡東栄町御園と豊根村古真立を結ぶ古道を探索してきました。

望月峠を越えて、峠の南側にある眞地集落までやって来ました。


ここまで歩いてきたルートはこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この時点で時刻は11時。このまま望月峠へと峠道を引き返してもよかったのですが、時間的には余裕があったので、「ついでに熊野神社前から東側へ別れていく古道を偵察がてらに歩いて、愛知県道74号の御園トンネルの上から望月峠へ出ればいいや。」と違う道で戻ることにしました。

熊野神社の参道脇の木のすぐ右側に古道の入口があります。


踏み込んでいくと、すぐにはっきりとした古道が現れます。


この道は旧園村御園と豊根村古真立を結んでいた里道(聯路)の跡です。戦前の地形図中の青線の道になります。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

まずは笹原をかき分けて進みます。


分岐点に来ました。わかりにくいですが、右側直進方向に進む道があります。が、左側に見える切り通しの方が明らかに古そうなので、左側を選択します。


切り通しを通過します。


抜けたところで、古道は急坂の堀割り道で斜面にアタック開始です(笑)。「またか…。」という気分ですが、これも古道の味わいの一つということで。


小さい切り通しを抜けます。


下に県道74号が見えています。ここは斜面が少し崩れていますが、通行に支障はありません。


細い道が続きます。


また小さな切り通しを抜けます。


通り抜けたところで古道が無くなってしまいました。斜面が崩落したようです。


仕方がないので県道脇まで降りて、落石防護柵に沿って進んでいきます。


結局、古道は復活しないまま県道74号の御園トンネルに出てきました。


望月峠につながる林道はトンネル上の尾根を通っているので、そこまでは登らないといけません。

トンネル前で振り返り、左側へと登っていく林道へ入ります。


林道へ入ってすぐ左側に古道を発見。林道ではなく、こちらで尾根まで登っていくことにします。


わかっていましたが急坂です…。




古道が崩れています。山側に寄って通り抜けます。


密集した枯れ笹が現れました。かき分けて進めますが、何気にうっとうしい…。へし折りながら先へと進んでいきます。




前方が明るくなってきました。


先ほど別れた林道と再合流です。


すぐ左手に分岐点があり、左側へ進めば望月峠へと向かうことができます。


時刻は11時30分。「もう少し古道を追ってみるかな。」と望月峠へは向かわず、林道を横断して、再度、古道へと取り付きます。


ちゃんと古道が残っていました。


また枯れ笹です…。へし折りながら進みます。


笹原へと出てきました。写真中央が古道のようです。


間もなく、古道は林道へと吸収されてしまいました。


ここからは林道を歩いていきます。


中部電力が設置した電波反射板。


林道の小さな切り通しの脇に、さらに小さい切り通しが残っています。写真左側の切り通しが古道のものでしょう。


山の斜面に広い草原が現れました。木を伐採した跡ですかね。


この草原の斜面の下で道が分岐しているのを見つけました。


林道の左側に分岐していく道は山の上へと向かうようです。さらに左側の道は、いかにも古道のような道です。


入り込んで覗いてみると、斜面を下っていく古道がありました。どうやらここから山の麓にある豊根村古真立へと向かうようです。


場所は星印の地点になります。熊野神社前からここまで1.5kmほどです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

時刻は11時50分。「少しだけ下ってみるかな。」と下り坂へと入り込んでいきます。ある意味、悪い方に嵌まる行動パターンですね(笑)。


少し進むと崩落箇所がありましたが、橋が架かっています。この道自体が高圧線鉄塔の巡視路として使われているようなので、整備したのでしょう。


ここに橋が架かっていなければ引き返したかもしれません。いや、橋が無くても右側の倒木を頼りに渡っていったでしょうね(笑)。

橋を渡った先も両足幅くらいの踏み跡を進んでいきます。左側はけっこうな急斜面ですが、足場を容易に作れるくらいの柔らかい地面だったので、あまり気にすることなく通過しました。


ガレた沢を通過します。


歩き進めていくと、直進方向に道が無い地点に来ました。


どうやら左へ折れて、斜面を真っ直ぐ下っていくようです。


どこまで下っていくのか、はっきりとした道跡が無く不安でしたが、幸い、道跡によく付く凹地を見つけ、さらに左へと折れていきます。


写真は逆方向から撮っているので、写真左上部から下ってきて、右方向へと折り返す形になります。

緩斜面の端まで来たら、また折り返します。


最後にまた折り返して、この緩斜面から離れていきます。


また道が細くなっています。瓦礫がたくさん転がっているので、足を取られて転ばないように注意して進みます。


またガレた沢に出会いました。手前の倒木を手すり代わりにして、沢を横断していきます。


幅が広い部分に出てきました。やはり、谷側の路肩に木が植わっている場所は路盤が安定していて、道がしっかりと残っています。


「やれやれ一安心。」と思っていたら、道が崩れてしまった岩場へと出てきました。


「ここで終わりか…。」と思いましたが、よく見ると岩場に積もった土の上に踏み跡が続いています。「これなら行けるわ。」ということで、ここも越えていきます。

すぐに瓦礫で埋め尽くされた沢へと出ました。古道と河原に若干高低差がありましたが、木の根がいい具合に手すり代わりになり、沢へと降りて先へと進んでいきます。


沢を渡った先も細い道が続きます。手入れされなくなった急傾斜地の古道を進んでいくので、これは仕方ありません。


こういう場所でリラックス。


ガレ沢です。この古道で出会う沢の全ては岩で埋め尽くされていて、水が流れている沢がありません。


この辺りで時刻を気にしだしています。この沢の時点で12時20分。すでに30分はこの古道を下ってきています。この古道の行く先は現在は新豊根ダムのダム湖になっており、しかも対岸へ渡る手段はないので、また登り返さないといけません。

下りで30分の道程、疲れた足での登りならどれだけ時間がかかるのか。このまま進むのもキリもないので、12時30分まで歩いて引き返すことに決めました。

沢の先へと進みます。依然、快適とはとても言えない状況が続きます。まあ、当然ですが。


切り通しというほどではないですが、両側に岩のあるポイント。こういう所も目印にしやすいです。


古道はまだまだ先へと続いています。制限時間までにダム湖畔へは出られないか…。


先ほど決めた制限時間の12時30分を過ぎてしまいました。ここで引き返すことにします。


この場所にあった炭焼き窯の跡。今は見渡す限り杉林ですが、昔は炭焼きに最適な広葉樹の森が広がっていたのですかね。


実は、この炭焼き窯の跡の上に乗ろうとしたところ、枯れ枝に足をロックされて盛大にコケてしまい、危うくカメラのレンズを割ってしまうところでした。

さて、ここまで歩いてきて口惜しいところですが、2か所目で無理しても仕方がないので、また気が向いたら出直すことにします(でも、もう多分来ないかな。)。

最後にこの先へと続く古道を撮り、12時40分、元来た道へと引き返していきます。


13時16分、橋まで戻ってきました。ここまでくれば林道までもう一息です。


13時20分、林道へと戻ってきました。


引き返した地点から40分で登り返してきました。13時30分までに林道へ戻れればと考えていましたから上等ですね。

青線の部分が今回歩いたルートになります。ピンク線は未踏査部分になります(もちろんダム湖部分は無理ですが(笑)。)。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ずっと杉林の中で眺望が効かず、写真に写っていた地形と地形図を見比べながら作ったので、本当に青線の末端部まで行ったのかはわかりませんけどね。

しかし、この古道、現役の頃でもどれくらいの人通りがあったのでしょうか。豊根村古真立やその奥の集落の人々が、この近隣で一番大きい街である本郷(東栄町本郷)やさらにその先の新城・豊橋と行き来するための大切な道ではあったのでしょうけど、行き来するたびに山深いこの坂道を通るわけですよ。ちょっと想像つきませんね。

さあ、あとは望月峠へと出て、別所街道の峠道を下り、車へと戻ります。

(次稿へつづく。)
Posted at 2021/01/17 22:09:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年01月17日 イイね!

別所街道 望月峠道を歩いてきました

2021年1月16日土曜日、愛知県北設楽郡豊根村にある別所街道望月峠までの峠道を歩いてきました。

ここ望月峠は、愛知県内の山登りをされる方や自転車乗りの方のブログなどに出てくる峠であり、また昔から東三河と信州を結ぶ街道の峠でもあったことから、峠の名前にまつわる古い伝承もあります。

ただ、この峠を訪れる人は、たいていは北設楽郡東栄町御園側から登るようで、豊根村側から旧街道を登って訪れたという記事は見かけませんでした。

周辺の地形図はこちら。地形図上部の星印からスタートして、地形図下部の望月峠を目指します。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

しかし、ご覧のとおり、現在の地形図では、スタート地点と望月峠を結ぶ道は記載されていません。

次に戦前の地形図です。こちらには赤線で印をしたように、豊根村と望月峠を結ぶ道が里道(聯路)として記載されています(青線は別稿になりますので、今回は無視してください。)。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

ちなみに、本稿の表題では「別所街道」望月峠としていますが、この地形図が測図された時点での「別所街道」はルートが変更されており、望月峠を通過しない図中左側の緑線ルートになります。これは現在の国道151号ルートに相当します。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

※余談:豊根村から長野県境にかけても、現在の国道151号と違うルートを通っていた時代があり、望月峠の峠道の途中から豊根村下黒川を経由し、小田峠を越えて長野県境の新野峠へ向かうルートだったようです(赤線から右側へと別れて、図中中央上側へと至る黄線。)。

「愛知の歴史街道」によると、新ルートの建設(おそらくは旧来からの道の大規模改修工事。)は明治27年(1894年)に起工され、北設楽郡東栄町本郷を起点に太和金峠を越えて豊根村上黒川までが明治30年(1897年)に開通しました。この新ルートが開通した時点をもって、別所街道は望月峠経由から太和金峠経由へ変更されたわけです。

あらためて現在の地形図上に整理すると以下のようになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

前置きが長くなりましたが、望月峠への峠道を歩いていくことにします。

やって来たのは、豊根小・中学校前の道路。


ここの路肩に車を停めて峠へと向かうことにします。周囲は思ったよりも雪が残っていたので、雪中やぬかるみでの歩行を想定して、長靴を履いていくことにします。

ここが望月峠への峠道の入口になります。


地形図に記載のない古道の取り付き口というのは、探すのに手間取ることがままありますが、今回は「ここしかないだろう。」というくらい、あっけなくわかりました(笑)。

林の中へ入ると初っ端から急坂です。これでは、明治時代に入って車道(馬車道・荷車道としての車道。)としては使えず、新道が建設されるのも当然です。


いきなり息切れしてしまいますが(笑)、急坂の頂上が見えてきました。


しかし、頂上の先を右へとカーブすると、坂の勾配がさらにきつくなっています…。


山側の斜面を削って、わざと道を蛇行させています。少しでも迂回させて距離を長く取ることで、勾配を緩くするためでしょう。


坂道の勾配が緩くなってきました。


前方に堀割り道が見えてきました。間もなく尾根の上へと出るのでしょう。


すぐに尾根へと出ると思ったら、けっこう奥行きがあります。


尾根へと出たら左へと曲がり進みます。地形図を見ていてわかっていましたが、まだまだ急坂が続くようです…。




ここからは、次の尾根に出るまで堀割り道のつづら折りを登っていきます。急坂の路面には小石や枯れ枝が無数に散らばっていて、着実に足腰へとダメージを与えてくれます(笑)。










この区間での最後のつづら折りを抜け、尾根へ向かい真っすぐに登っていきます。


細尾根の土手道に出ました。土手道といっても、今までに見たことがある無名の道跡のものとは違い、道幅は十分にとられています。さすが県道に指定されていた道だけのことはありますね。


※「別所街道」は明治9年(1876年)に「三等県道」として指定・命名されたもの。それ以前の街道名はよくわかりませんが、信州側からは遠州街道や金指道(金指は浜松市北区引佐町金指のこと。)と呼ばれていたようで、信州と東三河を結ぶ街道というよりは、遠州とを結ぶ街道だという認識だったのかもしれません。

両脇の路肩に切り株が並んでいます。並木のように見えますが、幹が細いので、街道として利用されていた当時のものではないでしょう。


一息つく間もなく、また急坂が始まります。




この辺りは崩落地形のようで、道跡は残っているとはいえ幅がだいぶ削られてしまい、歩きにくくなっています。




何とか通り抜けたところでまた倒木です。しかも枝打ちされていないので、容易に跨げません…。枝にしがみつき、幹に馬乗りになって乗り越えます。


ふたたび尾根が近づいてきました。


ここも細尾根の土手道になっています。


土手道を渡った先で道が二股に分かれているようです。尾根の上を通る道跡は帰りに通るとして、右側の道跡を辿っていきます。


大きい倒木が重なっていますが、幹を切り取ってくれてあるので、難なく通過します。


直線的な坂を進んでいきます。




唐突に作業道へと出ました。


緩い傾斜地の中を進みます。今まで歩いてきた峠道から真っ直ぐつながっていますし、周囲にほかの道跡も見られないので、これが峠道でしょう。


路上に雪が現れました。ぬかるんでもいるようです。


長靴で来て正解でした。


林道望月峠線へ合流しました。ここからは峠まで林道で歩いていきます。


通行止めの注意看板が立っています。もしかしたら人くらいは通れるかもしれないので、ひとまず進むことにします。


長い急坂の直線です。つらい!(笑)。脇にそれる小道があり、歩きながら上から眺めていましたが、どうやら作業道のようでした。


ここが通行止めの箇所のようですが、道は通れるようになっています。車の轍も続いているので、そのまま通過します。


5cmほどの積雪ですが、ここまで登ってきて疲れた足には大きな負担です。


登り始めてから1時間10分ほど。望月峠に到着しました。標高は837m(地理院地図の標高データより。)。スタート地点が505mなので、標高差332mでした。


峠は開削されて四方向に林道が伸びており、街道の峠という雰囲気は全くなく味気がありません。峠名を知らせる案内板等は無く、峠が北設楽郡豊根村と東栄町の境界になっていますが、町村名を表示する標識もありません。

峠の南側から分岐する林道の路肩、生い茂っている笹の間にすき間が見えます。


覗いてみると道が下っていっています。別所街道でしょう。


本当は峠で引き返すつもりでしたが、見えてしまったものは仕方ありません(笑)。峠下の集落まで辿ることにします。


どんどん下っていきます。帰りが大変そうだ…。




石仏と思しきものがあります。


しかし、正面へと回ってみたら、どうやら自然石のようでした。台座があるので、何らかの理由(損壊か盗難か。)で代わりに据えられたものでしょう。

道はまだまだ下っていきます。




最後の折り返し。


ここに望月峠への道標がありました。「熊注意」もあります。山深いですからね。


簡易水道の施設のようです。


脇を抜けると道路へと出ました。


左側には神社(熊野神社)があります。峠の南側の集落に出たようです。


熊野神社の参道。


神社から少し下ると集落に出ました。地名は「眞地(まっち)」だそうです。


歩いてきた望月峠の峠道のルートがこちらになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧の別所街道はこの先もいくつか峠越えをして、北設楽郡東栄町本郷へと向かっています。そのルートは現在の愛知県道74号が相当しますが、車で走るのもなかなか大変な山道です。

さて、眞地集落に出たら、もう一度峠道を登り直して帰るつもりでしたが、時間に少々余裕があったので、この付近でもう一つ探索しようと思っていた古道へ足を伸ばしてみることにします。

(次稿へつづく)
Posted at 2021/01/17 12:34:31 | コメント(2) | トラックバック(0) | 別所街道・国道151号 | 日記
2021年01月11日 イイね!

中馬街道(飯田街道)伊勢神峠道を歩く

2021年1月10日日曜日、愛知県豊田市連谷町にある中馬街道(飯田街道)伊勢神峠の峠道を歩いてきました。

峠の真下にある明治30年(1897年)開通の伊世賀美隧道は何度も訪れていますが、伊勢神峠へはだいぶ以前に1回訪れただけ。今回は、愛知県道484号自動車通行不能区間を歩いた後、まだ時間に余裕があったのでそのままやって来ました。

周辺の地形図です。西側の出入口から峠道を登り、峠を越えてそのまま東側の出入口に下り、帰りは伊世賀美隧道を通り抜けて車に戻るルートで歩きます。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

表題にある中馬街道とは、足助(豊田市足助)と伊那谷を結ぶ街道を指し、現在の国道153号に相当します。「中馬」は江戸時代にあった馬を利用した輸送業のことで、荷を担いだ多くの馬がこの街道を通り、三州と信州の間を盛んに行き来していました。

ちなみに国道153号の通称としてよく使われている「飯田街道」は、明治9年(1876年)に「県道三等飯田街道 平針村ヨリ信州伊奈郡界ニ至ル」として指定されたもので、江戸時代に使われていた名称ではありません。

さて、伊世賀美隧道の西側へとやって来ました。車の後方が伊勢神峠への出入口になります。


出入口に立つ伊勢神峠の説明板。


それでは峠道を登っていきます。


さっそく路面が凍っています。そのまま進むのはさすがに危険なので、路肩へ避けて通り抜けます。


ここからは、峠までのすべての折り返しを載せていきます(笑)。道自体は、峠まで舗装されてしまっているため、残念ながら「街道の峠道」という雰囲気は全くありません。


















出入口から10分程で伊勢神峠に到着しました。標高は780m。なかなか深い切通しです。






峠の東側には石仏群があります。




やや離れた場所にある巨木の杉の下にも石仏。杉の木は「八百比丘尼の杉」と呼ばれるそうです。










峠の切通しから日が差し込みます。


峠の東側の道。街道は左へと折り返していきますが、真っ直ぐに進む細道へちょっと入り込んでみます。


戦前の地形図では、伊勢神峠から南側へ尾根伝いの道が載っているので様子見です。


と思ったらすぐに道が折り返します。


峠の上にある伊勢神宮の遥拝所へ出ました。


この峠、もともと石神峠または石亀峠と呼ばれていたそうですが(だから、伊勢神峠の北方にある県道484号の峠が小石神峠(または小石亀峠。)なのかな。)、文久4年(1864年)に稲橋村(豊田市稲武町)の庄屋によって伊勢神宮遥拝所が峠に設けられ、伊勢拝(いせおがみ)峠へと改められました。そこから転じて伊勢神峠になったようです。


それでは、峠から東側の峠道を下っていきます。こちらは昔ながらの峠道の趣を残しており、また、西側よりもさらに折り返しの多いつづら折りの道となっています。














峠道の脇にある石垣。場所からして、おそらく真下にある伊世賀美隧道の坑口付近を落石から防護するための石垣だと思われます。


土留めのためであれば石垣が斜面に密着しているはずですが、隙間が開けてあるからです。隙間に落石や崩土を溜め込む仕組みではないかと思います。


まだまだつづら折りの道が続きます。伊世賀美隧道が開通するまでは、この細く険しい峠道を荷を担いだ多くの馬たちが通行していったんですね。








ようやく東側の出入口に出てきました。と言っても、峠から10分程です。


峠道としてはここでひと段落のように見えますが、街道としては、さらに下を流れる段戸川の橋まで標高差140mほどを降りていくので、なかなか大変な峠だということがわかります。

伊世賀美隧道がある旧国道へと出てきました。あとはトンネルを通り抜けるだけですが、何か様子が変です。


トンネルの内部が真っ暗です…。これは予定外でした。LED照明なのに故障中なのか、それとも節電で消灯しているのか…。


まあ、峠まで登り返すよりも、真っ暗でも300mのトンネルを通り抜けたほうが明らかに楽です。心〇スポットとして名を馳せる本トンネルですが、昼間なので問題ないでしょう(基本気にしないし、気にしたくない…(笑)。)。

トンネルの真上の沢から流れ出す水も凍り付いています。


石積みの隙間から流れ出す水も同じく凍っています。これを長年繰り返すうちに石積みが傷んでくるんですね…。


それでは真っ暗なトンネル内へと進んでいきます。


自分の経験からして、照明がない長さが200mを越えるようなトンネルの真ん中は本当に真っ暗闇です。自分の手のひらさえ視認できません。


加えて、このトンネルは内径が小さいので、なおさら奥まで光が届きません。フラッシュ撮影時にピント合わせのために光るカメラのライトを小刻みに照らして歩き進めます。

何事もなく西側の坑口へと出てきました。やれやれです。


こちら側は天井にツララができています。


伊世賀美隧道の足助側坑門です。このアングルの写真、もう何枚撮ったことか(笑)。


こちらもトンネル横の排水路が凍り付いています。


車に戻ってきました。車外温度計ではマイナス4℃。風が無いだけマシでしたね。
Posted at 2021/01/11 19:58:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | 伊世賀美隧道・伊勢神峠 | 日記
2021年01月11日 イイね!

愛知県道484号 自動車通行不能区間を歩いてきました

2021年1月10日日曜日、愛知県豊田市連谷町から坪崎町の山越え区間にある、愛知県道484号の自動車通行不能区間を歩いてきました。

地図はこちらです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

自動車通行不能区間のうち、黒色の実線で記されている区間はジムニーのような車なら一応通行できなくはないですが、破線区間は完全に徒歩道となります。そして、地図上では「県道」を表す「黄色」で上塗りされています。

この道、戦前の地形図でも「里道(聯路)」として記載されています。地図中の赤線が自動車通行不能区間に相当します。

※5万分の1地形図「明知」・明治34年(1901年)測図・昭和3年(1928年)要部修正測図・昭和6年(1931年)発行

現在の地形図で「軽車道」表記となっている区間はつづら折りで峠へ向かっていますが、戦前の地形図では斜面を直線的に進むルートになっているので、あわせて旧道ルートも探索していきます。

豊田市連谷町側(地形図で南側の地点。)の自動車通行「可能」区間の終点へとやって来ました。


連谷町の集落から先は、道幅≒ほぼ車幅という狭い道でしたが、一応舗装もされているので、薄く積もった雪でのスリップに注意しつつ徐行で進入してきました。

やって来た道が車の正面方向で、これから徒歩で進む道は右折方向になります。

さて、自動車通行不能区間へと歩き出します。道幅はさほど変化ありませんが、ここから未舗装となるので、轍の部分は瓦礫が剥き出しになっています。


ほどなくして、道の右側に斜面の上へと延びていく凹地を発見。


いかにも古道臭さを感じさせます。当たりかハズレかわかりませんが、取りあえず跡を辿ってみます。

結果的にはハズレでした。大雨時に水が流れる窪地だったようです。まあ、歩いてみないと正否はわかりませんからね。

ふたたび県道を歩き始めます。


今度は左斜め方向に下っていく道跡を発見。けっこう先まで直線が見通せます。


「ということは、真反対に山へと登っていく道跡があるはず。」と振り返ると、案の定、こちら側にも直線の道跡が見て取れます。


これはもう明らかに里道時代の道跡ですね。さっそく跡を追っていきます。




200~300mほど辿ったところで頭上に県道が接近。道跡は瓦礫で埋め尽くされてしまいました。県道建設時に出た瓦礫なのでしょう。


瓦礫をよじ登って県道へと出ました。ここから先は、最初に歩いていた所よりもさらに道幅が狭くなっています。


周りの様子を窺いながら歩いていきましたが、特に気になるような状況は見られませんでした。




県道へ復帰してから7分程歩いたところで、軽車道としての終点に到着しました。ここでUターンできるようにするためか、ちょっとした広場になっています。


正面の山の上が峠のようですが、里道時代の道は抉り取られてしまっています。進むためには斜面をよじ登っていくしかないようです。

閑話休題。ここの斜面にあった霜柱。冷え込みが厳しかったので良く成長しています。


探索当日、途中通過した国道153号伊勢神トンネルでは気温マイナス5℃。その伊勢神トンネルから北へ直線2km余のこの峠もそんなに変わりはないでしょう。歩く道中でもキンッとした冷たさにさらされ続けていますから。

斜面を登り、里道時代の道跡に出ました(と言っても現役県道ですが(笑)。)。峠もすぐそこです。


峠に到着です。地形図には記載がありませんが、ここの峠の名前は「小石神峠」または「小石亀峠」だそうです。車からは25分程でした。


さてさて、ここへとやって来た目的の一つ目(古道探索は二の次(笑)。)、峠の石仏を鑑賞します。


ちょっと自信がないですが、仏像の頭上にあるのが馬頭に見えるので、馬頭観音でよいでしょう。光背には「安永九年」と「子五月日」と彫られているようです。


安永9年は1780年。約240年前の石仏ということになり、けっこう古いですね。「子」とあるのは、安永9年が子年だからです。年号と干支の両方で確認できれば、年代確認の間違いも防げます。台座にも何か彫られているように見えましたが、全くわかりませんでした(そもそも気のせいかもしれませんが。)。

それでは峠を抜けて、豊田市坪崎町側へと下っていきます。今は峠の両側とも豊田市ですが、かつては東加茂郡旭町と東加茂郡足助町の境界でした。


峠のすぐ下に折り返しがありますが、この辺りは道そのものがきれいではっきりしているので、迷うことはありません。


この先、下を流れる坪崎川に出るまで、坂はきつめです。道跡自体ははっきり残っているので、通過に苦労するような所はありませんでした。路面に瓦礫が多いので、歩きづらくはありますが。






目の前に坪崎川が見えてきました。そして、今回二つ目の目的物が写真左側に写っています。


道標です。


峠の石仏とこの道標、この道の事を下調べした時に、この峠を自転車を担いで通過した方のブログがあり、その中で触れられていました。「おおっ、これは要チェックだな!」という訳で、実の主目的は峠の石仏とここの道標なのです(笑)。

さっそく道標をチェックするわけですが、彫刻された手指の下には「せんからし」と彫られています。「せんからし?どこの事だ?」。峠を越えた先は連谷や中馬街道伊勢神峠(昔なら石亀峠か。)に小田木、もう少し先の大きい街なら稲橋(豊田市稲武町。)や足助。まったく思いつきません…。

「まあいいや、家で調べよう。次。」。道標を右へと回ります。


「うっ…。」。「右 山〇」。「右」と「山」はご覧のとおり誰でも読めます。しかし、「山」の下の崩し字がわかりません。諦めて次の面へと移ります。

※複数の崩し字検索サイトで試してみたところ、「道」が妥当なようです。よって「右 山道」と解釈しました。実際、右側の小径の先(坪崎川の上流。)は、戦前の地形図には道の記載がなく、集落も記されていません。伊勢神峠へと通じる間道があったくらいでしょう。

次の面も難解ですね…。下の四文字は「坪崎村中」でしょうが…。


一文字目がまったく見当つきません…。二文字目は「主」かな。「坪崎村中」が道標の設置に際して何かの「主」となったのでしょうが、その「何か」がわからないと文字もわかりません。ちなみに「施主」は残る一面にあるので違う。う~ん…。

※こちらの字も、複数の崩し字検索サイトで書体を入力して試してみましたが、「これだ!」という文字はありませんでした。

最後の面です。表題は「施主」ですね。「施主」の下に2列分文字が彫られていますが、摩滅しているため、読み取ることができませんでした。


おそらくは施主の名前が彫られているはずです。

道標を峠方面へ向いて眺めています。この方向で見るのが、この道標の本来の使われ方のはずです。


道標に10分ほど滞在した後、先へと進みます。


道標の直下で坪崎川を渡っていたはずですが、橋の痕跡はありませんでした。


対岸の道路へ上がると県道標識があります。


ここから下流へと向かう道路が県道484号になります。ちなみに、上流側の道路はここから豊田市道になるそうです。


ここまで来たなら物はついでということで、坪崎町内の県道490号との交差点まで歩いていってみることにします。

途中、1か所だけ坪崎川を渡る橋があります。里道時代もほぼ同じルートで坪崎町内へと向かっていたようです。


20分程歩き、県道490号との交差点へと出てきました。


左折方向が県道490号になります。この先の峠にはものすごい急坂があります。




直進方向は引き続き県道484号。


ここに巡回バスのバス停があります。バスは1日2本あるようです。


右折した先にある常夜灯。台座には大正7年(1918年)とありました。


今回の探索はこれにて一応終了。車へと戻ることにします。

帰り道、途中で渡った橋の上流で石積み橋台を見つけました。その先に道跡が続いているので、里道時代の橋の跡でしょう。




道標まで戻ってきました。


手の彫り物をアップ。こういう物も遊び心なんでしょうかね。


で、また文面をしげしげと眺めていたら、「せ」の字の横に「〃」が。

「『せんからし』じゃなくて『ぜんかうし』、善光寺か!」とようやく合点がいきました。善光寺講の「坪崎村中」が「願主」となってこの場所に道標を建てたのでしょう。ただ、先ほどの文字が「願」であるのかは、まだわかりませんけどね。

ちょっとスッキリした気分になって小石神峠への道を登っていきます。






馬頭観音にごあいさつして峠を通過。


急坂を下って、連谷町側の道へと出ます。




のんびりと県道を下っていきます。




帰り道は旧道跡へと降りずに、そのまま県道を歩いていきます。途中に1か所分岐がありますが、ここは左側へと進みます。


さて、行きに見つけた里道時代の道跡です。今度は下っていく方向へと道跡を追っていきます。




何か所か道跡の残り方が怪しい場所がありますが、まあ雰囲気で判断して(歩いてきた道跡と無理のない自然な方向へ向かっているか等。)、先へと進んでいきます。




2か所連続の折り返しを抜けたところで、道跡は県道に削られて無くなっていました。






道跡と県道にまだ高低差があるので、もう少し先へと県道を歩いていったところ、左斜めへと登っていく小道を見つけました。


ここが本来の分岐点で、里道時代はここから山へと取り付いていたのでしょう。

出発してから約2時間40分、ようやく車へと戻ってきました。今回は冷気が身に染みました…。


峠と道標、旧道跡の位置はこんな感じです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

最後にちょっと寄り道。現在実施中の「国道153号伊勢神改良工事」により建設中の「新郡界橋」です。少し見ない間に橋桁まで架かっていました。




橋が架かり、トンネル工事に利用できるようになれば、いよいよ新伊勢神トンネルの工事も始まりそうですね。
Posted at 2021/01/11 12:37:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年01月02日 イイね!

「三保の松原」と「旧東海道薩埵(さった)峠」へ行ってきました

2021年1月2日土曜日、静岡市清水区にある「三保の松原」と「旧東海道薩埵(さった)峠」へ出かけてきました。1月1日に家族4人で自宅へ集まって新年会をしましたが、そこでおもむろに「明日は『三保の松原』へ行こう。」という話になり、出かけた次第です。

今回は4人ということで、多少でもゆったりできる普通車の方がいいだろうと思い、私の車でお出かけすることにしました。母はやや抵抗があったようですけどね(笑)。

岡崎ICから東名高速に乗り、一路、静岡市へと向かいます。

日本平久能山スマートICで下りて、国道150号で清水区三保へと向かうので、最後のPAとなる日本坂PAでトイレ休憩。毎度、屋根の上のマグロが気になります(笑)。


久能山東照宮の出入り口付近でちょっとした渋滞はありましたが、それ以外は順調に車は流れていて、スムーズに「三保の松原」へと到着。

松林を通り抜けて、海岸へと歩いていきます。






強風ということもあってか雲は少なく、富士山の眺めは良好。


弟もまだ使い慣れないスマホで写真を撮っております(笑)。


強風のおかげで駿河湾も荒れていて、強い波が砂浜へと打ち付けています。


富士山と駿河湾の眺めを堪能したところで、「次はどこへ行く?」という話になり、「薩埵峠へ行こう。」ということになりました。


薩埵峠へとやって来ました。標高90m余の旧東海道の峠です。


今回は、国道52号から赤色のルートで峠まで来ました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠へ向かう道路は高速道路の側道から先は道幅が狭くて、交互通行できる場所も限られているので、注意が必要ですね。あと、峠に駐車場がありますが、7~8台しか停められないので、満車の場合は付近へ路駐となります。

まずは駐車場からの一枚。


テレビでよく見かけるアングルの場所は、駐車場からちょっとだけ歩く必要があります。


富士山と駿河湾に東名高速・国道1号・東海道本線というお馴染みの風景ですね。ここにはちょっとした展望台があり、カメラも何台か据え付けられています。


薩埵峠の説明板です。


薩埵峠は旧東海道の難所の一つでしたが、1854年に発生した安政大地震により周辺の海岸線が隆起したことで、海沿いを安全に通行できるようになり、峠越えの道は使われなくなったそうです。

さて、もう少し先まで旧東海道を歩いていこうかという話になりましたが、姉は「車に戻る。」というので、ここでひとまず分かれます。


眼下を国道1号が通っています。安政大地震が起こる前までは崖が直接海に落ち込むような地形であり、国道が通っている場所は海だったわけです。何気に自然の凄さを感じさせる場所なのです。


しばらく旧東海道を歩いていくと東屋があり、そこには薩埵峠の石碑が立っています。


東屋周辺の風景です。この辺りは、何となく昔の街道の雰囲気が残っている感じです。


この先、清水区興津(旧興津宿)まで道は続いているようですが、これ以上行くと疲れてしまうので(今回の目的ではないですしね。)、ここで引き返します。

モノレールのレール。周辺はミカン畑がありますが、歩いてきた道沿いの畑はすでに放棄されているようで、このモノレールも使われている形跡は全然ありませんでした。


まだ時間的にはもう1か所くらい寄り道してもいいくらいの感じでしたが、さすがに人混みのあるような場所は避けたいし、疲れてもきたので、今日のところはこれくらいにして、清水ICから東名高速に乗って帰宅しました。
Posted at 2021/01/02 21:43:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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「草津志賀高原ルート「雪の回廊」を見に行ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48482706/
何シテル?   06/12 23:30
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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