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小林あにのブログ一覧

2023年04月27日 イイね!

鳥越隧道・鳥越林道を歩く(2)

2023年4月2日日曜日、三重県熊野市・尾鷲市境にある鳥越隧道とトンネルから尾鷲市賀田町へと続く鳥越林道を歩いてきました。

さて、前回(1)で鳥越隧道を通過。


翌日が月曜日なので、本当はトンネルだけ見て帰ろうかと思っていましたが、トンネルの先に続く廃道の状況を見て、「もう少しだけ進んでみるか。」という気分になってしまいました(笑)。


さっそく路上にはたくさんの石が散らばっています。その中に石列が見て取れ、本来の路肩の位置を示してくれています。


ガスボンベと大型の炊飯器らしき物が転がっています。


コンクリートブロックで造られた小さな小屋。何を入れていたのでしょうか。


広場へと出てきました。パッと見では何か建物があったような雰囲気はありません。




何となく道跡が広場の先へと続いているようには見えるので、そのまま広場の中を通り抜けていきます。


ふたたびはっきりとした道跡になってきました。


この付近でふと頭上を見上げると高い岩壁が見えていました。どうやらこの辺りはかつて採石場だったようです。尾鷲市賀田町は花崗岩の採石が盛んで、実際、このまま鳥越林道を下っていくと、現役の採石場内を通過することになります。


先ほど見たガスボンベやコンクリートブロック積みの小屋も、採石場が稼働していた頃の遺物かもしれません。

路肩に石組みの擁壁が現れました。険しい地形に開削された林道なので、この先もどんどん現れてくるでしょう。


巨木が廃道を塞ぐように倒れ込んでいます。樹皮がすっかり剝けてしまっているので、ずいぶん前に倒れたようです。


鳥越林道の建設は、飛鳥村小又~賀田港間にトラックが通行することができる道路を新たに開削することが目的でした。そのため、当初から道幅は3.7mで設計されており、明治期車道に比べると道幅にゆとりがあります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

同じく尾鷲市の南部にある矢ノ川峠の昭和道・明治道を歩いた時も似たような光景でしたが、とにかく路上への落石が多いです。表土が薄くて、すぐに岩肌が剥き出しになってしまう箇所が多いからでしょう。










高さ5mほどに積もった崩土の上を越えていきます。路面が崩落しているよりは、盛り土になっている方が状況としてはずっと良いですね。




廃道だから当然ですが、落石や倒木が次から次へと現れます。全く管理されていない林道ですから、まさに荒れるに任せる状態なわけですが、この程度なら廃道気分を満喫するにはちょうど良い感じです(笑)。












曲線を描いて奥へと連なる石垣。


路面の山側にもわざわざ石を列状に埋め込んであります。矢ノ川峠明治道でも見かけますが、尾鷲市周辺での古い時代の道路建設の特徴なのでしょうか。


珍しくきれいな路上。


先程も出てきましたが、廃道を歩いていて曲線の石垣を見るとつい「絵になるなぁ。」と思ってしまうんですよね(笑)。




また荒れた場所を通過していきます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この廃道を木材や物資を満載したトラックが往来していたとは、今見る限りでは想像もできません。




前方が明るくなってきました。


廃道が川を渡って、谷の反対側の斜面へと折り返していく場所まで来ました。谷川を塞ぐように設置されている砂防ダムには、大量の土石が積もっています。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここで引き返そうかと思いましたが、もう少し先でまた川を渡るようなので、そこまで進むことにします。


小さな橋が現れました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋には、小さな親柱と背の低い高欄が設けられています。親柱には何も記されていないので、橋名はわかりません。


「もうそろそろ切り上げて帰らないと、東名阪道で渋滞に巻き込まれるなぁ。」と頭の中で考えていますが、どうしても帰ることができません(笑)。


「あっ!石造の暗渠だ!」。コンクリート造りが普及してきている昭和戦前期に建設された林道(しかも三重県が建設。)なので、こういうものは全然期待していなかった分、小躍りしてます(笑)。


しっかり撮影しておきます(笑)。






予想外の「獲物」を収穫してようやく踏ん切りがついたので、これにて引き返すことにします。少しだけ進むつもりが、結局、トンネルから1時間20分も歩いてしまいました(笑)。


三重県道70号まで続いている鳥越林道の内、歩いた距離は4分の1くらいでしょうか。メインディッシュは鳥越隧道だったので、日を改めて続きを探索するかどうかは微妙ですね…。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

岩壁の切り取り工に残っていた発破の跡。


帰り道は足早に戻っていきます。




鳥越隧道の賀田側坑門まで戻りました。


このトンネル、内部は一直線ですが、反対側の坑口からの光は見えません。いわゆる「拝み勾配」(トンネル内部に「へ」の字形の勾配が付けられている。)となっているためです。


唐突ですが、「鳥越林道・鳥越林道を歩く(1)」をアップした後、ネット検索で「縣營林隧道工事に就て」(日本林學會誌 第十八巻 第三號 昭和10年(1935年)4月8日受理)という論文を見つけ、これが鳥越隧道の工事概要を記していました。

この論文によると、トンネル内には賀田側坑口から232mは30分の1(3.3%)、小又側坑口から200mは200分の1(0.5%)の勾配が付けられているそうです。

トンネル内に残っていた発破の跡。


賀田側坑口からの勾配がきつめに設定されているので、写真で見ても上り坂であることが何となくわかるかと思います。




トンネル中央部の拡幅部分へ来ました。


この拡幅部分、開削時点でこのように造られていたのか、後年の工事で拡幅されたものなのかが疑問でしたが、これについても論文に記載があり、開削時点から存在することがわかりました。

論文中、「5.設計変更及び竣工成績」という項目に「本工事は前述の通り工事の進捗に伴い、覆工を著しく減少して差支無い事が判明したので、設計を変更して坑内の中央に待避場(延長30m、路幅6.4m)を新設し、(以下略)」とあります。

小又側の坑口へと戻ってきました。




鳥越隧道は坑口付近のみコンクリート覆工されていますが、当初計画では賀田側坑口からは10m、小又側坑口からは70mを覆工する予定だったものが、「工事実施の結果、東口(賀田側坑口)6m、西口(小又側坑口)15mで十分であると認めたので、設計を変更した。」とあります。これによって多額の経費を節約できたともあります。

トンネル前から浅谷越林道を見ています。最初にグーグルマップで現地確認をした時は、「トンネル前に車を停められそうだな。」と思っていましたが、現地を見て「これだけ段差があると無理だな…。」という訳で、やや離れた路肩へ停めたわけです。


無事に車へと戻ってきました。



最後に鳥越林道の開通後の出来事を列記しておきます。

昭和11年(1936年)3月、飛鳥村・南輪内村両村長は、新宮営林署を通じて大阪営林局へ林道修繕費として木材・木炭の輸送量に応じて交付金を下付されたいと出願(営林署が木材・木炭を賀田港へ輸送する際に鳥越林道を利用するようになったため。)

昭和11年4月3日、鳥越林道の開通祝賀会を南輪内村の賀田小学校で300名余りを招いて開催。

昭和11年10月、飛鳥村からの提案で、鳥越林道を利用する自動車・牛馬車から飛鳥村・南輪内村両村が通行料を徴収開始。利用距離3km以上は木材価格の1%、3km未満は0.5%。ただし、木材が南輪内村着の場合はすべて0.5%。

昭和11年10月、矢ノ川峠の県道改修がなり、輪内~尾鷲間に初めて自動車が通行する。楽器材として使用する木材が、紀勢東線尾鷲駅まで自動車で出荷されるようになる。

昭和19年(1944年)・21年(1946年)の大地震により大損害を受ける。「生活再建整備事業」の補助を受けて、昭和22年度(1947年度)に全線改修。

昭和23年(1948年)5月11日、南輪内村・北輪内村・飛鳥村の各村長連名で、鳥越林道の県道編入を三重県知事へ願い出る。鳥越林道の維持管理に南輪内村と飛鳥村を合わせて毎年約15万円の出費を要しており、村財政を圧迫していたため。

昭和24年(1949年)10月29日、正式に県道移管が認可される。三重県道「南輪内~五郷線」となる。

昭和34年(1959年)7月15日、紀勢本線全通。賀田駅開業。

昭和43年(1968年)4月6日、矢ノ川・弓山・大又の各トンネルを通過する国道42号矢ノ川峠越えの新ルート開通。

昭和44年(1969年)7月1日、国道42号新道と賀田港を連絡する道路が県道中山線となり、県道南輪内~五郷線は鳥越隧道を境に尾鷲市道・熊野市道へ格下げとなる。

ざっくりですが、鳥越林道の歴史は以上となります。

賀田地区での林業の衰退、紀勢本線の全通と賀田駅の開業、国道42号矢ノ川峠越えルートの新ルート開通と県道中山線の接続などの理由により、狭くて急坂で荒れ道で維持費もかかり、地域の中心地である尾鷲市街地へも大回りとなってしまう鳥越林道の存在価値はどんどんどんどんと低下していき、ついに廃道となってしまったわけです。
Posted at 2023/04/27 23:12:08 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年04月24日 イイね!

鳥越隧道・鳥越林道を歩く(1)

2023年4月2日日曜日、三重県熊野市・尾鷲市境にある鳥越隧道とトンネルから尾鷲市賀田町へと続く鳥越林道を歩いてきました。

紀勢道を尾鷲北ICで降りて国道42号を南進。熊野市飛鳥町小又で国道42号から市道小又線を経由して林道浅谷越線へと入り込み、5kmほど走行した所にある広い路肩へと車を駐車します。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

車を駐車した場所からさらに先へと歩いて進みます。


車から100mも進んでいない道路の左側。唐突にトンネルが現れます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

このトンネル、手前の林道浅谷越線とは段差が付けられていて、車では行き来することができないようにされています。


あらためまして、鳥越隧道です。地形図にしっかりと記載されていながら、ご覧のとおりの廃トンネルです。






坑口から見事な崩れっぷりです。




小又側坑門の扁額です。


アーチ環の石には起工・竣工年月が彫られています。読み取りにくいですが、「起工 昭和八年五月」、「竣工 昭和九年六月」とあります。事前の下調べですでに知っていましたが、戦前に開削されたトンネルです。


そして真向かいの石には、「請負人 津市 平田組」とあります。ネットで社名を検索してみましたがヒットせず、少なくとも「平田組」としては現存していないようです。


ここで鳥越隧道がある「鳥越林道」の建設の経緯について少々記します。内容は「尾鷲市史」からの抜粋です。

鳥越林道が建設された旧南牟婁郡南輪内村(現:尾鷲市賀田町など)は、明治時代に林業が盛んとなりました。高瀬山・茶ノ又方面からの天然林の伐採により、港がある賀田から茶ノ又に至る4.6kmの車道(荷車道。三重県道70号 賀田港中山線の前身。)が明治31年(1898年)に竣工し、天然木が大量に賀田港へ搬出されるようになりました。

そうした中、昭和7年(1932年)に政府の農山漁村振興策の一環として、林道等の開削が大きく取り上げられることになったため(「時局匡救林道助成事業」及び「山村救済林道助成事業」のことか。)、当時の南輪内村村長・賀田区区長は、鳥越峠を越えた西隣にある飛鳥村(現:熊野市飛鳥町)の村長と共同して、飛鳥村小又(現:熊野市飛鳥町小又)~南輪内村賀田間の林道開設を三重県へ強く要望しました。

南輪内村と同様に、隣接する飛鳥村でも林業が盛んに行われていましたが、当時村内を通過していた県道津木本線(後の国道42号)は、尾鷲方面へ向かう矢ノ川峠も木本(現:熊野市)方面へ向かう小坂・評議峠も峠道の整備がまだまだ行き届いておらず、村外へと木材を搬出することに長年苦慮していたと思われます。

そのような状況であったところに、賀田港を持つ南輪内村から共同で林道開設を陳情しようと誘われれば、是非もない話だったでしょう。南輪内村側としても、林道が開削されれば飛鳥村だけでなく、さらに奥地の村々からも賀田港への木材搬出が期待できる目算があったはずです。

この陳情は三重県に取り上げられ、県林務課によって「鳥越林道」が開削される運びとなり、津市の平田組が135,000円で工事を請け負うこととなりました。最大の難関である鳥越隧道は、昭和8年(1933年)5月に起工し、昭和9年(1934年)6月に竣工。鳥越林道は昭和10年(1935年)6月に完成しました。

主要な街道でもない山奥の林道に戦前期のトンネルがあるのは、こんないきさつがあったからなのです。

それでは、トンネル内へと進んでいくことにします。コンクリートで巻き立てられているのはほんのわずかな距離で、すでに素掘りの坑内が見えています。


そのわずかなコンクリート区間も剥落が激しい状態です。


トンネルの真上が凹地なためか、凹んだ山肌に集まった水が浸透してきて、路面に大きな水溜りを作っています。


ちなみに明かりが無いとこんなに暗いです。


素掘りトンネルとは言え、岩盤の荒々しさが剥き出しになっています。




路面は当然のように未舗装。


岩質が変わったためか、壁面が先ほどのゴツゴツした状態ではなく、多少滑らかな仕上げになってきました。


このトンネルの特徴の一つとも言えるトンネル中央部の拡幅部分です。トンネル延長が430mもあるので、すれ違いのために設置されたものでしょう。






壁面に腐食した木が刺さっています。電線でも通していたのでしょうか。


トンネル後半の壁面は、ずっときれいな仕上げになっています。


反対側の坑口が近づくにつれて、坑内がまた濡れてきました。




コンクリートの補修壁があります。


下部には水抜きのためか穴が開けられています。


坑口に向けて側溝も設けられています。


路面に岩盤が剥き出しになっています。昔の車は車高が高いので、この程度なら問題なかったのでしょう。


反対側も坑口付近だけはコンクリートで巻き立てられています。


右側の壁面に埋め込まれている「石工 水浦尋市」の銘板。トンネル工事の監督に当たった方だそうです。


左側は落書きで名前がたくさん彫り込まれています。


賀田側の坑門です。


場所はこちら。トンネル坑道の位置が地形図とずれています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

賀田側の坑門はトンネル坑内に対して斜めに設置されています。トンネルの先が急カーブなので、トンネル前の狭いスペースでもスムーズに曲がれるように、トンネル内からカーブを付けて、坑門も斜めに設置したのかもしれません。




賀田側坑門の扁額。


このトンネルに着いた時は、「明日は月曜だし、トンネルだけ見て帰ろうかな。」と思っていましたが、この廃道の風景を見て「もう少しだけ進んでみるか。」という気になってしまいました(笑)。


※(2)へ続く。
Posted at 2023/04/25 00:27:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年04月17日 イイね!

中央本線 十二兼駅周辺を散策してきました

2023年4月1日土曜日、長野県木曽郡南木曽町の中央本線十二兼駅周辺を散策してきました。本当は、野尻森林鉄道柿其線跡の続きを探索しようと思ってやって来たのですが、図らずも「散策」となってしまいました…。

さて、野尻森林鉄道柿其線跡へと向かうため、木曽川に架かる柿其橋の近くへとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

対岸の山の中腹を通る野尻森林鉄道柿其線跡を眺めます。


柿其橋を渡り、橋のたもとにある神社へとやって来ました。ここから木曽川の河原へと下りていきます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

木曽川の河原から支流である柿其川の河原へと進んでいきます。


橋の下へとやって来ました。本当はこの橋を渡ることができれば簡単に廃線跡が通る山へと行けるのですが、採石業者?の私有橋のため関係者以外利用禁止なのです。


場所はこちら。


そのため、前回訪問時は橋の上流側にある浅瀬を渡渉したわけです。もちろん、今回もそのつもりでこの場所へと来ました。しかし、残念なことに今回は川の深さが長靴よりも深くなっていました…。

しばらく付近を移動して、別の場所に何とか渡れる浅瀬がないか、石伝いに渡っていけそうな場所がないかと探してみましたが、ダメでした…。

仕方ないので一旦道路へと上がり、柿其水路橋へと向かいます。


ここから野尻森林鉄道柿其線跡へと取り付きます。






柿其水路橋の上を通過。


杉林の中を進んでいきます。


昨年、初めて訪れた時に引き返した崩落箇所へと来ました。あれから1年経っているので、「もしかしたら通っていけるようになっているかも。」と淡い期待を抱いてやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

残念なことに、昨年引き返した時の状態と変わりありませんでした…。


崩落した土砂の上に登り、反対側に続いている廃線跡を見下ろします。黄色の線のとおりに下りていけば、反対側へと進むことができます。しかし、右側は柿其川まで20~30mの絶壁。今も谷側へと傾斜している崩土が、その場へと踏み込んだ途端、崩れ落ちるかもしれないという恐怖感が拭えません…。進むのは止めました。


結局、また柿其橋へと戻ってきました。振り出しです。


こうなったら、中央本線十二兼駅の北側にあるという、木曽川を渡るつり橋へと行ってみることにします。ただ、気がかりなのは、ネットで検索した渡橋記録が最新のもので7~8年前のものしかないことです。

つり橋の場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧中山道(旧国道19号)を歩いていきます。


十二兼駅へ寄り道。






ふたたび旧中山道を歩いていきます。


木曽谷の中央本線でよく見かける石造りのアーチ暗渠。




つり橋が見える場所までやって来ました。つり橋へと続く道が工事中のため立入禁止になっています。


それから、つり橋のたもとに門扉が付けられていて閉鎖されているようです。またダメでした…。


あともう1か所、希望のある場所へと移動します。

中央本線「第14仲仙道踏切」の近くへと車で移動してきました。




場所はこちら。この場所の直下にある読書ダムの堰堤を渡れるかもしれないとやって来ました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

読書ダムを見下ろして、その期待は速攻で砕かれました…。ここも門扉が付いています…。十二兼駅前にあったハイキング案内図には渡れるように図示されていたのに…。


これで木曽川の対岸へと渡る手段は無くなりました。もう一つ、さらに上流に架かる阿寺橋から下流へと向かう方法もありますが、人目が多いルートなので…。

このまま帰るのも何なので、野尻宿の入口まで旧中山道を散策することにします。と言っても、舗装路になってしまっているので、昔の街道の風情は全然残っていませんでしたが。


道中、旧中山道をハイキングしているのか、何名かの人とすれ違いました。


山側にトンネル型の穴を発見。


砂防ダムの水抜き穴だったようです。


「第13仲仙道踏切」に来ました。五街道と呼ばれるうちの一つであるこの街道。通常、「中山道」または「中仙道」と表すと思うのですが、踏切名称はなぜか「仲仙道」。中央本線建設当時はそのような表記もあったのかもしれません。




名古屋行きの特急「しなの」が、振り子電車の威力を発揮して豪快に通過していきます。


旧中山道の橋は今時の橋に架け替えられています。せめて戦前のコンクリート橋で残っていないかなと期待したのですが。頭上の橋は現在の国道19号です。


野尻宿の入口まで来ました。直進すれば野尻宿。左折すれば木曽川に架かる阿寺橋を渡り、阿寺渓谷へと行くことができます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「第13仲仙道踏切」まで戻ってきました。ここから左側へと山道が分岐しています。このまま旧中山道を戻るのも面白味がないので入り込んでみます。




落石防止施設が現れました。土台のコンクリートに大きな亀裂が入っていますが、大丈夫なんですかね。


竣工年月は1977年(昭和52年)11月とあります。


落石防止施設に沿って進んでいきます。


砂防ダムへと出てきました。もしかしたら、砂防ダム建設時に造られた作業道だったのか…。


砂防ダムの先へと細い通路?が続いているので、進んでみることにします。




斜面に点検用と思われる梯子が設置されています。中央本線の真上になるので、この辺りの斜面は石積みかコンクリートの擁壁で覆われているようです。土砂が積もり草木が生えているので、石・コンクリートのどちらで造られているのかはよくわかりませんが。


今は擁壁の「犬走り」を歩いているわけですね。でも、通路右側の木にピンクリボンが付けられているし、昔の道跡であるかもしれません。


擁壁部分を脱出したようです。


斜面の凹地が崩落しています…。渡れそうではありますが、失敗すると10mくらい斜面を滑り落ちそうです。


この場所で10分くらい立ち止まって進退を検討(笑)。結局、斜面に足場を作りながらじりじりと進み、大丈夫な距離まで来たところで小ジャンプ。反対側へと進みました。

崩落箇所の先の杉林の中には、道跡と思われる隙間が続いていました。




結果的には、国道19号 野尻トンネルの前へと合流。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

車がビュンビュンと走る、歩道の無い国道19号を歩くのは怖いので、ふたたび斜面へと突入。


かつて建物があったのか、側溝に囲まれた平場。


何とかうまく「第14仲仙道踏切」の近くへと脱出し、車へと戻りました。


今回は、昨年3月に探索した野尻森林鉄道柿其線跡を前回よりもさらに上流に向かって探索したかったのですが、廃線跡に取り付けなかったばかりに探索空振りとなってしまいました。

ブログに上げていないだけで、こんなことはままあります(笑)。ネットなどで下調べして向かっても、当時と状況が変わっていることはよくありますし、自分がそもそも探索場所を発見できないこともあります。

まあ、空振りに終わったとしても、代わりに何か小ネタを拾って気分を紛らわすのが大事ですね(笑)。
Posted at 2023/04/17 18:27:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年04月11日 イイね!

【京都市左京区】鞍馬寺へ出かけてきました

2023年3月21日(火)春分の日、姉が「京都へ行きたい。」と言い出したので、母を連れて3人で京都市左京区にある鞍馬寺へと出かけてきました。鞍馬寺を訪れるのは母は初めてですが、姉と私は2回目。前回来た時は兄弟3人で来ましたが、もう何十年前のことか…。








鞍馬寺の周辺図はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山門からそのまま参道を登っていくのは厳しいので、ケーブルカーで中腹まで移動。ケーブルカーに乗るような事はめったにないので、写真を撮っておきたかったのですが、順番が来て待合室を出るとそのまま車両へ乗り込むように促されたので、やむなく断念しました…。ちなみに、ここのケーブルカーは鞍馬寺が運営しています。

ケーブルカーに乗り、山門駅から多宝塔駅へと移動。そこからしばらく歩いていくと参道へと合流します。


こちらは参道の石階段。この急階段を登ってくるのはキツイですからね(笑)。


合流地点にあった小さな石橋。大正4年(1915年)の銘が彫られています。


この先は急階段を登っていくしかないので、母にも頑張ってもらいます。

休み休みしながら鞍馬寺の本殿へと到着しました。




本殿の前には円形に敷かれた石畳(六芒星がかたどられているそうです。)があるのですが、参拝者のみなさんは順番にその中心に立って、お祈りしたり、元気玉を受ける孫悟空みたいに万歳したり(笑)していました。パワースポットなわけですね。

本殿の前に立つ金属製の灯篭。






さて、ここで引き返しても良かったのですが、鞍馬寺にはさらに奥の院魔王殿というその名を知られたお堂があります。これまたパワースポットなわけですが、そこまでの道のりにはちょっとした峠を越える必要があります。

母にそのことを話した上で、「行ってみるかね?」と尋ねたところ、行く気になったので、さらに奥へと進むことにしました。


最初は元気よく歩いていましたが、すぐに急な階段の連続となりペースが落ちてきます。




休み休みながら道中にある峠に到着。これは峠にある「義経の背比べ石」。源 義経が幼少時代を過ごした鞍馬寺を離れて奥州藤原氏の下へと向かう際に、名残を惜しんで背比べをした石だそうです。


「すぐ奥の院」と記された道標。言葉どおりに受け取るとつらい思いをします(笑)。


峠の先からしばらくは急な下り。帰り道はこの坂を登ってこなければならないわけです。


不動堂を通過。


奥の院魔王殿まではもう一息です。




小さな谷に倒れ込んだ倒木。幹の上に落ち葉がビッシリと積もり、苔も生えていて、まるで小径か橋のように見えます。


木の根道です。母がつまずいて転ばないように見張りながら進んでいきます。




本殿から歩くこと約40分。ようやく奥の院魔王殿に到着しました。




奥の院魔王殿には、650万年前に金星から地球に降り立ったという魔王尊(サナート・クマラ)が祀られています。この話を知ったのは、オカルト雑誌「ムー」でしたね(笑)。中学生の頃だったかな。

奥の院魔王殿で5分ほど休憩して、すぐに引き返します。もう少しこの場所の雰囲気をゆっくり味わってもいいかと思うのですが、用が済んだらさっさと戻りたいようです。ここまでの道中ですっかり疲れてますからね。


峠下の階段をゆっくりゆっくりと登っていきます。




峠の横にある木の根道。




まずは本殿まで戻ってきました。この頃になると雨が降り出してきました。




帰りもケーブルカーに乗り、お寺を下山しました。


さて、山門まで戻ったところで、姉が「お腹が空いたのでお昼が食べたい。」と言い出しましたが、門前には適当な飲食店がありません。

「大原に和食屋があるみたい。」ということで、東側に山を越えて、左京区大原へと移動。大原三千院がある所ですね。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

母に「この辺りが大原だよ。」と言うと急にソワソワした様子に。母がお気に入りだった大原在住の外国人女性を取り上げたドキュメント番組の舞台だとわかったからです。こちらもそれを知っていたから伝えたわけですけどね。

結局、姉が検索したお店の場所や入口がよくわからず、三千院入口にあった別の和食店に入ることに。

私は「京都だから」という訳でもないですが(笑)、湯豆腐定食をいただきました。湯葉よりはお腹に溜まりそうでしたから。


母は店員さんに「あの番組のことを知ってますか?」と尋ねて、「その方なら店に来たことがありますよ。」と返事をされ、何か有頂天になってましたね(笑)。鞍馬寺へ行ったことよりも、その外国人女性が来たことのあるお店に来られたことの方を喜んでるようでした。まあ、今回のドライブ、結果オーライだったのかな(笑)。
Posted at 2023/04/11 17:45:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2023年04月08日 イイね!

旧 越路隧道と旧国道42号 小坂隧道へ行ってきました

2023年3月19日日曜日、和歌山県新宮市の旧越路隧道とその旧道及び三重県熊野市の旧国道42号 小坂隧道へと行ってきました。今回のメインは旧越路隧道で、過去に訪れたことのある小坂隧道はオマケです(笑)。

旧 越路隧道の周辺図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

新宮市街地の西部にある越路峠には、新旧合わせて3つのトンネルが存在しています。現在のメインルートである国道168号新越路トンネル(2008年(平成20年)開通)、すぐ北側に並行する先代の越路隧道(1964年(昭和39年)開通)、先代の越路隧道の真上にある先々代の旧越路隧道(1936年(昭和11年)開通)となります。そして、旧越路隧道がある旧道には、もう一つ無名の短いトンネルがあります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、いつものパターンだと離れた場所に車を停めて、徒歩で現場へと接近するのですが、過去のレポートを読むとトンネルまで車で乗り付ける方が多かったので、今回は私もそのようにしてみました。

新越路トンネル前の交差点から進入。1.5車線幅から1車線幅へと狭くなっていきましたが、舗装はされていたので「これはインプレッサでも大丈夫かな。」と進んでいきましたが、大きな廃屋が現れるとその先から未舗装となり、最後は狭くてガタガタな道の段差に腹を擦らないかとおびえながら(笑)、何とかトンネルの前へとやって来ました。


こちらが旧越路隧道です。日差しが強いため陰影が濃く、見づらい写真になってしまいました・・・。華美な装飾が全く無い、昭和戦前期の標準的なデザインのコンクリート製坑門です。


昭和16年(1941年)3月に内務省土木試験所より発行された「本邦道路隧道輯覧」によると、起工は昭和10年(1935年)7月3日、竣工は昭和11年(1936年)3月31日とあり、トンネル延長は165.5m。当時はまだ国道ではなく、指定府縣道本宮新宮停車場線のトンネルでした。


扁額です。パッと見では気づきにくい程度の大きさです。


内部を覗いてみると、アーチ部はコンクリートブロック積み、側壁は場所打ちコンクリートとなっています。


コンクリートブロックで巻き立てられている部分は漏水が多いようで、壁面も路面も濡れており、水溜りもあります。「本邦道路隧道輯覧」中、越路隧道のページの地質欄にも、「花崗岩(亀裂多く隧道入口は漏水甚だし)」と記されています。




トンネル中央部は素掘り状態のままとなっています。コンクリート巻き立て部分と違って乾燥しています。トンネル上の土被りの厚みの違いや地質の違いによるものでしょうか。





新宮市街地側と違い、反対側の坑口付近は短い距離しかコンクリート巻き立てがされていません。「本邦道路隧道輯覧」には、巻き立て延長が「新宮口施工延長67.55m、高田口施工延長14.15m」とあります。


そして、やはり坑口付近は水浸しになっています。


反対側の坑門です。当然ですが坑門のデザインに違いはありません。坑門前には崩落してきた土砂が積もっています。




坑門の上を見上げると、尾根に向かって凹地が伸びています。これがスロープになって、付近の斜面から崩れてくる土砂を坑門前へと落としているようです。


反対側の扁額。文字が土に埋もれている部分がありますが、書体は市街地側の扁額とやや違うようにも見えます。


せっかくなので、旧道を歩いてみることにします。


木々の隙間から熊野川の流れが見えています。


高い岩壁を切り崩して道路を通しています。軽四同士でもすれ違うのが難しそうな程度の道幅しかありません。


目の前に巨岩が山積みになっている場所が現れました。「これはすごいなぁ。この先の道は大丈夫かな?」と直線方向を眺めると道がありません。「あっ、もしかして無名トンネルがある場所が崩壊したということ!?」と少々パニックに。


1個1個岩を踏みしめて浮石になっていないか確認しながら、慎重に巨岩の山を登ります。


崩落した斜面を見上げます。岩壁に幾筋もの縦線が入っています。斜面の上部が土色をしていて風雨に晒された感じが無いので、あのあたりの岩壁が筋に沿って一気に崩落したのでしょう。恐ろしい・・・。


「トンネルは潰されたのか埋まってしまったのかなぁ。」と進んでいくと、かろうじてトンネルの上部が見えてきました。


巨岩はトンネル内へとなだれ込んではいますが、トンネル自体に被害は無いようでヤレヤレです。




あらためて無名のトンネルです。岩脈に直接トンネルを穿ってあり、坑門はありません。また、高さ・道幅も旧越路隧道と比較すると小さく、自動車は1台づつしか通行できなかったでしょう。




ここは旧道(廃道)ですが、平成13年(2001年)に法面工事を行ったようです。旧道の真下には住居や国道(現在は旧国道)があったので、それらの防護のためでしょう。




新越路トンネルが見えました。戦前と現代では、トンネルの規格も造りも全く違いますね。




路上にも巨岩が落ちていました。すぐ上の斜面にぶら下がっている岩がまだあったので、そのうちに旧道が塞がれてしまうかもしれません。


熊野川と山の急斜面の間の狭い土地に現国道、旧国道、倉庫らしい建屋と並んでいます。


ここの路肩はコンクリートで保護されています。しかし、ガードレールは設置されていなかったようです。支柱を差し込む穴が見当たりません。


小さな切り通しが見えてきました。




この切り通しの路肩に標石を見つけました。


「電話」とあるので、旧電電公社が設置したものでしょう。かつては電話線が地中を通っていたのかもしれません。


切り通しを通り抜けると真新しい橋がありました。左側にこれまた新しそうな砂防ダムがあったので、建設時に架け替えられたのでしょう。


ようやく旧道と現国道との合流地点が見えてきました。正面奥の住宅がある所を国道が通っています。合流地点まで行く必要もないので、この場所で引き返すことにします。


それではふたたび旧道を通り、車へと戻ることにします。










旧越路隧道を通り抜けます。




















市街地側にあるコンクリート巻き立て部には、ブロックが抜け落ちて岩盤が見えている箇所があります。


車へと戻ってきました。


今回、旧越路隧道自体は、昭和戦前期の目立った特徴の無いコンクリート・素掘りトンネルということで、「淡々と見物しました。」といった感じでした。正直、どちらかというと無名トンネル前の崩落現場のインパクトの強さに上書きされてしまった感じでしたね(笑)。

旧道から眺めた新宮市街地。


これで旧越路隧道の見物は終わり、明日は月曜日で仕事があるということで、熊野市からさっさと高速道路(正しくは熊野市-尾鷲市間は国道42号「熊野尾鷲道路」ですが。)に乗って帰宅しても良かったのですが、「せっかくなので」、熊野市から高速道路には乗らずに国道42号の佐田坂を登っていくことにします。

やって来たのは、国道42号小阪トンネルの前。


小阪トンネル付近の地形図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

かつて、この場所を通過していた国道42号の前身となる県道は、トンネルの真上にある小阪峠を越えていました。そして小阪峠から木本(現在の熊野市の中心地)へは、国道42号とは違うルートである評議峠を越えるルートを取っていました。

ただ、評議峠越えのルートは、明治時代に荷車道として開削された当時から難所であり、自動車交通が普及してきた昭和初期においては通行に支障をきたしていました。そこで、小阪峠にトンネルを建設し、現在国道42号が通過する佐田坂を自動車通行できるように改修する計画が立てられました。

今から見に行くのは、この改修計画により建設されたトンネルです。

そのトンネルは小阪トンネルに並行する場所に残っています。短い旧道へと入り込みます。


小坂隧道です。こちらも陰影が濃すぎて写真がダメですね・・・。トンネルの竣工は昭和13年(1938年)。しかし、計画のもう一つの要となる佐田坂の改修が戦争勃発などにより全然進まず、改修が完成した昭和24年(1949年)まで供用されなかったようです。


小坂隧道の扁額。現地の地名や現トンネル名は「小阪」ですが、このトンネルはなぜか「小坂」と名付けられています。


扁額には「三重縣知事 佐藤正俊」と刻まれています。佐藤氏は、昭和12年(1937年)12月24日から昭和14年(1939年)3月1日まで県知事に在任しています。


トンネルは門扉で封鎖されています。


トンネル内部は一部が水没。


門扉の前は泥沼になっています(笑)。


小坂隧道は昭和24年(1949年)からようやく供用されたわけですが、戦前期に造られたトンネルであり、その後の車両大型化に規格が合わなくなったことで、昭和41年(1966年)に現在の小阪トンネルが竣工。小坂隧道は竣工から28年、供用開始から17年という短命でお役御免となってしまいました。立派な坑門を持っていることからも、竣工当時の同トンネルへの期待度の高さが伺えますが、結局、時代の波に翻弄されて終わってしまったみたいですね。
Posted at 2023/04/08 18:12:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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