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小林あにのブログ一覧

2023年07月23日 イイね!

【長野県泰阜村】古道「和田新道」を探索する(3)

2023年6月17日土曜日、長野県下伊那郡泰阜村の古道「和田新道」を探索してきました。

さて、前回(2)では、今回歩いた「和田新道」の区間で一番高い場所となる大城峠まで来ました。


ここ大城峠で「小城頭」へと向かう登山道は分岐していき、この先の「和田新道」はいよいよ廃道区間となります。


峠から下っていくと折り返しがあります。


しばらく歩いていくと、また折り返しが現れます。


急斜面の中ですが、古道はしっかりと続いています。


ちょっと怪しい雰囲気の場所があらわれました。大鹿村の北條坂でよく遭遇した光景。路面全体に土砂が斜めに積もって谷側へと傾斜しています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

路肩が崩落している箇所もあります。でもこれくらいならまだ大丈夫。山側の土砂を踏み締めながら進んでいけば問題ありません。


ふたたび急斜面の中に続く一直線の古道を歩いていきます。




折り返しを下っていきます。


尾根の上を一直線に下っていきます。


尾根上の盛り土道。右側の斜面は急激に落ち込んでいっています。


しばらくは尾根を真っ直ぐに進んでいくものだと思っていたら、古道は左側へと逸れていきます。


下り始めると斜面が荒れていて、古道がはっきりしなくなっています。


踏み跡程度には道幅が残っているのと、路肩側には木々が生えているので、特に不安になることもなく通過していきます。


根の張り出しがすごいですね。


いかにもな格好のキノコ。アカマツが点在しているので、もしかして松茸?


廃道になって人が歩かなくなっている区間には、どうしても路面に土砂が積もってしまい、不安定な印象を感じてしまいます。まあ、土砂が柔らかければ長靴をめり込ませて歩けばいいだけなので、そんなに心配事ではないのですが。




檜の植林地になりました。植林地は硬く締まった地面が剥き出しになっているケースが多いので、古道探索としてはあまり好きな状況ではないですね。


ガレ場が現れましたが、安息角を保っているようなので、足元に気を付けて速やかに通過していきます。


木々は枝打ちが全くされていない感じです。(2)でも同じような雰囲気の場所がありましたが、山の手入れに入る人がもういないのかもしれません。


植林地を通り抜けました。落葉樹の林の方が、落ち葉が腐食して柔らかい土が残るので、歩く側としても歩きやすく感じます。


連続したつづら折りを下っていきます。








痩せ尾根に出てきました。


場所はこちら。


谷の浸食が進んで、絶壁になってしまっています。




左側の斜面の傾斜が幾分緩いので、浸食を受けてもこの痩せ尾根が一気に崩落することはないでしょうが、将来的にはこの場所も古道が寸断される要因になるかもしれません。


古道は正面のピークを避けるように尾根から右側斜面へと巻いていきます。


前方の斜面が明るく見えています。嫌な感じです…。


予想どおり、崩落斜面に遭遇しました。これは厳しいですね…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

一応ロープが掛けられていますが、方向が踏み跡と一致しておらず、これでは使い物になりません。そして、細い踏み跡は乾燥して表面が固まった土の上にサラサラした砂が乗っています。こんな場所で足を滑らせたら、急斜面をはるか下まで一気に滑落です…。


しばらく考え込んで、この場所は迂回することに決定。古道が尾根から斜面へと進んでいた場所まで戻り、正面のピークを越えて崩落箇所を迂回します。




そして、ピークを越えて古道へと再合流しようとしましたが、古道を再発見することができません。登山用アプリで現在地を確認しながら歩いていましたが、古道が細い道幅になっているために見落としてしまったのかもしれません。

仕方がないので、現在歩いている尾根をそのまま下り、御棚側へとできるだけ進んでみることにします。


万古川沿いにある平場まで出てきました。万古川までは高さ20~30mほどの急斜面になっています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この平場で炭焼き窯の跡を発見しました。もしかしたら、この平場から御棚の集落へと向かう道跡があるかもしれません。


御棚側の斜面を探してみると、細く頼りない道跡がありました。これを進んでいってみることにします。


道跡を50mも歩かないうちに、またしても崩落斜面に遭遇してしまいました。


この斜面にもごく細い踏み跡が付いていました。多分、獣道でしょう。行けそうな気がしないでもありませんでしたが、もし踏み外したら、もし斜面が崩れたら、10m以上下を流れる万古川まで一気に滑落です…。

しばらく立ち止まって進むべきかどうか考え込んでいましたが、どうしても恐怖感が拭えず、この場で撤退することにしました…。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、まずは万古川へと急傾斜で落ち込む稜線を登り直して、標高差200mの尾根を通る古道まで復帰します。


久しぶりの長時間の山歩きでありながら、ここまで来て道が無い急傾斜の斜面を登り直す羽目になり、古道へと再合流した頃には両太ももがつり始めてきていました。


行きの時には気にもせず下ってきた下り坂も、帰り道ではいくつもの偽峠と延々と続く急な登り坂に化けて、気持ちが折れそうになります…。それでも「まずは大城峠まで戻らないと。」と気持ちを奮い立たせて、少し歩いては休むというパターンを何度も繰り返しながら、根気強く登っていきます。




万古川沿いから引き返して約2時間後、ようやく大城峠まで戻ってきました。これであとは下るだけ。気だけは抜かないように注意していきます。


鎖場を通過。


「ヒヤダルの滝」。ここの流水で顔や腕を洗って一息つきます。昔、この道を行き来していた馬や人も、この滝で同じように一服していたんですかね。


大城峠から約40分、ようやく無事に車まで戻ってきました。「この時間までには車へ戻りたい。」と考えていた時刻までには何とか着くことができました。


言い訳がましいですが、古道を外れて長い時間歩くことがなければ、急坂だとしてもここまで消耗しなかったと思います。こういうアクシデントがあるたびに、「道は人が歩けるようにできているんだなぁ。」と痛感します。

さて、今回探索したルートの全体図です。赤線が「和田新道」、赤線の先の青線が古道を外れてから歩いたルートになります。


一部区間だけですが、「和田新道」を歩いた感想を言うと、馬道として開削されたとはいえ、この道は駄馬(荷物を積んだ馬)にとって、とても厳しい道だったのではないでしょうか。

今回歩いた栃城~御棚間だけでも長い長い上り坂を歩かされたわけですが、ルート的にいくつもの谷を横切っていく「和田新道」は、当然その分だけ谷と谷の間に峠越えが待っているわけです。

重い荷を積んだ馬も曳いていく人も、泰阜村金野から和田村までの間に「何回キツイ峠越えをすればいいんだよ…。」という気分になったことでしょう。

そんな厳しい道でも、かつては金野と和田を最短距離で結ぶ、地元にとってはとても重要な道路だったわけですからね(生活物資を受け入れる側である遠山谷の方が、より重みがあったでしょうけど。)。

そして、時代が変わり用済みとなってしまった今は、人知れずにただただ朽ちていくわけです。


※2023年7月27日追記。
かつて遠山谷にあった和田村の後身である南信濃村(現在の飯田市南信濃。)が発行した「南信濃村史 遠山」を入手したので、「和田新道」に関する記述がないか読んでみたところ、「泰阜村誌」とは違い、全く何も書かれていませんでした。「泰阜村誌」での取り上げ方から、多少なりとも何か記事があるのかなと思っていたので、これはちょっとした驚きでした。

南信濃村側にとって歴史的・経済的に一番重要な街道は、遠山谷を縦断する秋葉街道と、遠山谷と伊那谷の中心地である飯田(現:飯田市)とを結ぶ小川路峠越えの街道です。そのため、村史での交通に関する項目では、秋葉街道と小川路峠越えの街道に関する記述がメインとなっているのは当然と言えます。

しかし、隣村である泰阜村との道については、谷京峠を通る秋葉街道(支線)と、和田~山原~底稲~下沢~栃城〜二軒屋〜粟代〜法全寺と続く古道(下沢〜粟代が泰阜村内で、法全寺は飯田市内。栃城から先が「和田新道」とルートが異なる。)についての一文がある程度です。

さらに泰阜村との間の交易については、これといった記述が見当たりませんでした(飯田や遠州方面との交易内容がほとんど。)。

「泰阜村誌」では、古来から続いてきた遠山谷との交易の中で、「和田新道」を明治になって民間有志により開削された経済道路として「画期を成す」と取り上げたのですが、「南信濃村史 遠山」においては、遠山谷と泰阜村との交易は題材としてはあまり重要な出来事ではなく、「和田新道」も取り上げられなかったのでしょね。
2023年07月20日 イイね!

【長野県泰阜村】古道「和田新道」を探索する(2)

2023年6月17日土曜日、長野県下伊那郡泰阜村の古道「和田新道」を探索してきました。(1)では「和田新道」開削までの簡単な交通史などを記しましたが、今回からは探索した内容について記していきます。

さて前回、「和田新道」の想定ルート図を載せましたが、距離自体もそれなりにあり、「泰阜村誌」によると4里(約15.7km)だそうです。全線を探索できればいいのでしょうが、さすがにそこまでの気力・体力はありません(笑)。

そこで、想定したルートの中で、地形図に破線道(徒歩道)がそれなりの長さで記載されている部分を選びました。実際に道があり、少しでも無難に探索できそうな部分を選んだわけです(まあ、破線道はあてにならない部分もありますが…。)。

それが泰阜村栃城から御棚の区間。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

御棚側からは万古川を渡って「和田新道」へアプローチする必要がありましたが、地形図にある橋が現存するのか不明でした。一方、栃城側はストリートビューで入口付近の確認ができ、駐車スペースと入口への目標物があったので、栃城側からアプローチすることにしました。

泰阜村温田から栃城へと向かう林道に入っていきます。こちらは栃城への道程のまだまだ序盤にある万古隧道。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

1車線幅の狭い舗装林道を走行し、栃城側の入口へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

栃城側からの「和田新道」は、途中まで「小城頭」(こじろがしら)という標高1040mの山への登山道になっています。これならば、登山道の区間は道が維持されている可能性大です。


「小城頭」への簡単なルート図も掲出されています。


さっそく登山道である「和田新道」へと踏み込んでいきます。


歩き始めて20mも進まない場所で土石流の跡に遭遇。


幸い、乗り越えて進んでいくと「和田新道」はちゃんと続いていました。




折り返して登っていきます。


涸れ沢を越えていきます。黄色のタンクは入口付近にあった住宅のものでしょうか。


つづら折りを登ります。




「和田新道」は道幅6尺(約1.8m)だそうですが、土砂で埋まったり、路肩が崩れたりしていて、半分くらいの幅になっています。まあ古道なので、よくあることですが。




倒木があるザレ場が現れましたが、特に気にすることもなく進んでいきます。


岩場へ出てきました。眺めてみると「和田新道」は左斜め上へと続いているようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

実はここまで地形図の破線道とは違う場所を歩いてきました。最初に入口で破線道があるはずの地点を少し探ってみましたが、どう見てもただの急斜面でしかありませんでした。なので、地形図の破線道は無視して登山道を歩いたわけです。旧版地形図でも登山道のルートが旧来からの道のようです。

ちょっとした岩場を登っていきます。






山側からの土砂で細くなった「和田新道」を歩いていきます。


「ヒヤダルの滝」に来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山の斜面のこの部分だけ岩盤が縦に露出しており、そこを流れる細い水流が滝となっています。




滝の下流は真っ逆さまに落ち込んでいっています。


ふたたび細い道が続いていきます。


折り返していきます。


道幅がかなり細くなっている場所に出てきました。踏み場はしっかりしているので、気にすることなく進んでいきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「ヒヤダルの滝」の前後にはトラロープが掛かっていましたが、この崩落箇所にはより頑丈な鎖が掛けられています。


路肩に石垣のようなものが残っています(自然石が割れただけかもしれませんが。)


地形図には無い分岐路が現れました。ここは右側へと進んでいきます。


折り返しです。ここにもカーブの内側から分岐していく小径があります。




そのまま道なりに進んでいきます。


岩の段差を登ります。


檜の植林地に入りました。


石がゴロゴロして荒れています。檜も全然枝打ちされておらず、今は人の手が入っていないのかもしれません。


落葉樹林へと戻ってきました。落葉樹林の方が地面が柔らかく感じます。


炭焼き窯の跡です。


「和田新道」と「小城頭」への登山道の分岐点となる大城峠に着きました。標高は地形図読みで925mです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

大城峠の看板。


道案内の看板。私は小黒山方面へと進んでいきます。




大城峠から先の「和田新道」は廃道となります。ここからが本格的な探索になるわけです。


(3)へ続きます。
2023年07月20日 イイね!

【長野県泰阜村】古道「和田新道」を探索する(1)

2023年6月17日土曜日、長野県下伊那郡泰阜村の古道「和田新道」を探索してきました。

さて、「和田新道」を探索するきっかけとなったのは、泰阜村が発行した「泰阜村誌」道路交通編の一番目の項目にこの道の事が説明されていたことに興味をひかれたからです。

そこで、探索の話は次回からにさせていただきまして(笑)、今回は「泰阜村誌」からの引用で「和田新道」開削に至るまでの泰阜村〜遠山谷(現在の飯田市南信濃周辺。)間の地域交通史を簡単に記します。

古来より、泰阜村では産出する米穀を遠山谷へと輸送してきました(狭隘な谷あいで田畑に乏しい遠山谷一体で米を販売するためでしょう。当然、米以外の物資も取り扱ったと考えられます。)。その輸送方法は坦送(人が担いで運ぶ方法。)であり、輸送ルートは、泰阜村内から南へと下り、万古(まんご。飯田市南信濃南和田。)を経由し谷京峠を越えて、飯島(飯田市南信濃南和田)で遠山谷へと出て、和田村へと至るものでした。

万古~谷京峠~飯島の推定ルート図です。谷京峠は、2020年11月にJR飯田線為栗駅から出発して峠までの古道を探索したことがあります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

泰阜村周辺の全体図です。地図中、「金野」は「和田新道」の出発点、「和田」は遠山谷の中心集落で「和田新道」の終点となります。金野~和田を直線で結ぶと、万古・谷京峠越えルートは直線から南側へ大きく外れていることがわかります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、時代が進み、天竜川の通船が発達してくると、泰阜村の明島港から満島(現在の天龍村平岡。)まで舟運で輸送し、満島から和田へと坦送するルートが利用されるようになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

しかし、地図で見るとおり、この通船ルートも直線上からは大きく南側へと外れたルートであり、舟運に坦送にと費用が嵩むことが泰阜村側の大きな悩みでした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

そこで、泰阜村と遠山谷の間に新たな馬道を開削して、駄馬(荷物を積んだ馬)により直送することが計画されます。

明治15年(1882年)、泰阜村高町の吉沢某、泰阜村打沢の吉沢某、土岐某、萩本某等は、和田村の山崎某、遠山某、小松某等と図って、泰阜村山手集落から和田村へと通ずる道路を企画し、資金を募ります。

調査・測量の結果に基づき、明治18年(1885年)秋に着工。昔からある里道を改修する部分もあったものの新規開削した部分も多く、万古川以東の山岳地に入ると急峻な地形のために工事は困難を極めました。

また、工事には道路が通過する集落の有志が中心となって参加していたようで(昔のことなので、実は住民挙げて労働奉仕しているかもしれない。)、農作業などに影響しないよう農閑期である秋口から冬期に作業は行われていました。そのため、土地の凍結や厳しい寒気も工事の進捗に大きな影響を与えることとなりました。

さらには工事の資金不足にも悩まされましたが(これもお約束。)、この計画の主唱者である泰阜村高町の吉沢某の多額の資金融通もあり、明治21年(1888年)に無事に竣工となりました。

ところで、明治20年(1887年)に工事費用の寄付金を募った際の趣意書である「道路修繕及新設御允可願」には、この新道を「栃城新道」と記していますが、「泰阜村誌」は「和田新道」と紹介しています。泰阜村から遠山谷の和田村までの新道なので「和田新道」としたのだと思います。

「和田新道」の推定ルート図です。「泰阜村誌」に記載されている経由地と戦前の地形図に記載されている道を参考に作成してみました。金野〜和田間をほぼ直線的に結ぶルートになりました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

推定ルートの拡大図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

現在、このルートを踏襲するような道路は存在していません。現存する集落間をつなぐ道路や山中にある徒歩道にその名残を見い出せますが、地形図からその存在をまったく消してしまった区間もあります。

「和田新道」が最も大きな打撃を受けた出来事は、昭和11年(1936年)の三信鉄道(現在のJR飯田線。)満島駅(現在の平岡駅。)開業と満島~和田間の車道改修でしょう。

「和田新道」がいつ頃まで利用されていたのか「泰阜村誌」に記載はありません。また、満島~和田間の道がいつ頃自動車通行可能な道路へと改修されたのかも資料がわからず不明ですが、大きな峠を4つも越えて歩く駄馬の輸送量とスピードが、たとえ大回りルートてあっても鉄道輸送とトラック輸送にかなうはずもなく、これらの出来事が「和田新道」の息の根を止めてしまったことは間違いないはずです。

それでは、次回から探索の内容を記していきます。
2023年07月16日 イイね!

旧東海道小夜の中山・諏訪原城跡・島田宿大井川川越遺跡

2023年6月10日土曜日、弟の誘いで母と私の三人で旧東海道小夜の中山、諏訪原城跡、島田宿大井川川越遺跡と巡ってきました。

元々は弟の希望で島田宿大井川川越遺跡だけ行く予定でしたが、どうせ道中なので(笑)、私が道案内して、まず最初に旧東海道小夜の中山へ立ち寄りました。

やって来たのは、久延寺の前の駐車場。お寺の前の道が旧東海道になります。




場所はこちら。地形図内の青線が旧東海道になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

駐車場は接待茶屋があった跡だそうです。


久延寺の境内へと入っていきます。




小夜の中山と言えば「夜泣石」。




「夜泣石」には伝説以外にも曰くがあって、実はこの久延寺にある「夜泣石」は昔から存在する本物では無いそうです。詳しい経緯が国土交通省中部地方整備局浜松河川国道事務所のホームページ内「東海道【東海道小夜の中山】」に掲載されていますが、要は「夜泣石」を金もうけに利用した結果によるものだそうです。

さて、弟が「一里塚の跡を見てみたい。」ということで、徒歩で移動します。


現地を見ると石碑と案内板が立つだけで、塚はきれいに無くなっていました。




それでは車へと戻ります。小夜の中山付近の旧東海道は、なだらかな山の尾根を縦走しています。こうして眺めると高い場所を通過しているのがよくわかります。


久延寺の近くにある峠の茶屋「扇屋」。私たちが一里塚跡へ行っている間、母はお店の人とずっと話をしていたようです。


それでは出発します。


旧東海道小夜の中山を下り、間の宿である菊川宿を通り抜け、つづいて旧東海道菊川坂と並走する道を登り、やって来たのは諏訪原城跡。駿河から遠江への侵攻を目指す武田勝頼軍が築城し、徳川家康軍と激しい争奪戦を繰り広げた城です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

城跡の見物に向かいます。


城跡には、幾重にも張り巡らされた深い堀が各所に点在しています。






「一体どこの原野を歩いているんだ?」というような光景です(笑)。


二の曲輪へと入っていきます。


二の曲輪を横断して、本曲輪へ。


ここにも深い堀があります。


本曲輪の説明板。


本曲輪の中を進んでいきます。




本曲輪の先端からの景色。眼下には金谷の街。その先には大井川を挟んで、島田市街地が見えています。


自軍(武田軍)が安全に大井川を渡渉できるようにするための防御上の拠点、そして徳川氏の領地である遠江への侵攻のための攻撃上の拠点。この景色を見ていると武田軍がこの場所に築城した理由がよくわかります。ちなみに城跡付近の東海道には急坂の金谷坂と菊川坂があり、街道も容易に抑えることができます。

さらに城内を進んでいきます。


カンカン井戸。水はすでに枯れてしまっているようです。




水の手曲輪へ向かう谷筋。


城内に鎮座する諏訪神社へと出てきました。


人と比較すると堀の深さがよくわかります。


諏訪神社前の説明板。


諏訪神社の鳥居。


神社のある場所が「馬出し」になっています。


さらに小径を歩き、車へと戻りました。


諏訪原城跡から牧ノ原台地を下り、大井川を渡って、ようやく今回のドライブの本命である島田宿大井川川越遺跡に到着しました。こちらは街並みの入口にあるモニュメント。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

島田宿へと続く街並み。


「川会所」です。この建物は1856年(安政3年)に建てられたもので、明治時代以降は数回の移転を繰り返し、1970年(昭和45年)にこの場所に復元保存されたそうです。


大井川の川越についての説明板。




「川会所」は内部見学ができます。


役人の人形。


役人についての説明板。


川越の手順の説明板。


川札の値段の説明板。今の金銭感覚だとそんなに高いとも思いませんが、江戸時代当時はどうだったのでしょうか。


後ろ姿が何となく侘しいです。


ふたたび街並みを歩いていきます。まだまだ整備の途中なのか、空き地が目立ちます。


札場。「陸取り」(おかとり。現役を引退した川越人足。)などが川越人足から回収した川札(川越のための切符。)を換金していた場所。換金後、賃金として川越人足へ分配したそうです。


仲間の宿。「陸取り」などの詰所。


「番宿」。川越人足の詰所。川越人足は一番から十番までの組に分けられていました。この建屋は「十番宿」になります。


川越人足の人形。鋭い目つきと色褪せしてきた体躯。夜に見たらビビりそうな迫力があります(笑)。こんな感じの人足さんに肩車されての川越は何か落ち着かないなぁ。


以上、島田宿大井川川越遺跡でした。


帰りは東名高速吉田ICまで移動して高速へ。我が家にとってはお約束の牧ノ原PAに立ち寄り、早めの晩御飯を食べました。
Posted at 2023/07/17 00:36:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2023年07月14日 イイね!

彦根城へ行ってきました

2023年6月4日日曜日、滋賀県彦根市の彦根城へ弟と行ってきました。彦根城は以前にも訪れたことがあります。

駐車場へ車を停めて、最初に訪れたのは馬屋。普段は立ち入れないそうですが、特別公開中とのことで立ち寄ってみました。


お城に「馬屋」という種類の建物が現存していること自体が大変珍しいようです。


中に入ると一頭だけ馬のレプリカが展示されています。


経年劣化なのか、誰かが撫でているのか、鼻の頭の色が落ちています。


それでは彦根城の城内へと入っていきます。


彦根城の天守は小高い丘のに建っているので、そこまで登っていかなければいけません。


正面に見えてきたのは廊下橋。この橋を渡らないと彦根城の本丸へ入ることができません。


廊下橋の正面に立つ天秤櫓。




さらに坂を登っていきます。


太鼓門櫓。この門をくぐると本丸です。


彦根城天守です。




天守の中も見物しましたが、見物客が多くてのんびり立ち止まりながら見ることはできず、流れるように一回りしただけの感じでした。

本丸から琵琶湖方面の眺め。


記念撮影用のひこにゃんのボードが立っていたので、天守と一緒に撮ってみました(笑)。


この後は同じく特別公開中の天秤櫓の内部を見物してから、彦根城博物館で展示物や復元された御殿を見て回りました。
Posted at 2023/07/14 21:52:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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「大井川鐡道の駅をいくつか巡ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48626253/
何シテル?   08/30 00:20
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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