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小林あにのブログ一覧

2022年12月17日 イイね!

本宮山「新城登山口」から始まる参拝道を登ってみました

2022年11月6日日曜日、愛知県新城市豊栄の本宮山「新城登山口」から始まる参拝道を本宮山山頂まで登ってきました。

本宮山「新城登山口」へとやって来ました。登山口の前にはバス停があります。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この場所は以前から知っていましたが、神社の跡だとばかり思っていました。本宮山の参拝道の関係をネット検索した時に、ここが「新城登山口」だと知り、今回訪れた次第です。

ここには白けてしまった登山口の標識が立っています。この状態から見ても、「新城登山口」は本宮山の登山口としてはすっかりマイナーとなっていることがわかります。しかし、ここから山頂まで50分ですか。この時間設定は私的には厳しそうですね(笑)。


バス停名が「鳥居前」とあるのは、かつてこの場所に鳥居が建っていたからです。今は撤去されてしまい、穴だけが残っています。


それではさっそく登っていきます。


100mほど進むと右側から廃林道が寄ってきます。この廃林道についても本宮山登頂後に探索しているので、次回紹介します。


坂がきつい場所には、だいぶ埋もれてしまっていますが石段が設けられていたことがわかります。


丁石がありました。「十丁」とありますが、起点はどこだったのでしょうか?「一丁」は約109mなので、もし「新城登山口」が起点だとせいぜい「二丁」くらいのはずです。


だいぶ急坂になってきました。参拝道はこのまま真っ直ぐ登っていくのでしょうか。


道のように見えなくもないですが、これを参拝道というにはハードな気が(笑)。しかし、周りには細い踏み跡以外にこれといった道が見当たりません。仕方ないので、このままよじ登っていきます。


尾根までよじ登ると道がありました。「臼子道」と呼ばれる本宮山の参拝道です。戻ってきた時に「新城登山口」からこの道につながる道を探し直すことにして、まずは山頂を目指すことにします。


高圧線鉄塔の下からの眺め。晴天なので遠くの景色までよく見えます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ふたたび林へと入り込んでいきます。


以前に登った新城市作手白鳥からの参拝道に比べると急坂が続きます。


「十五丁」の丁石。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

小さな岩場を越えていきます。


日の当たる尾根道を進みます。


「十七丁」の丁石。


どんどん登っていきます。


「十九丁」の丁石。


浅い堀割り。


盛土道らしき場所。緩やかな尾根を通る古道は、このような造りの道が多い気がします。


また丁石が見えてきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「二十五丁」の丁石です。


この場所では、別の道が合流してきます。各集落から本宮山を目指す参拝道が、このように幾筋も設けられていたのでしょう。


「二十六丁」の丁石。


本宮山スカイラインへと合流しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからはしばらく本宮山スカイラインの路肩を歩いていきます。


参拝道がスカイラインから分岐していきます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

しばらくはスカイラインに合流したり離れたりしながら進みます。付近の様子から、スカイライン開通時に並行するように登山道を付け替えてはあるようですが、もう全然保守されていないようで、歩くには少々厄介な状態になっています。


ダンロップのテープが残されています。本宮山スカイラインは、新城ラリー開催時にはSS(タイムアタックコース)として使用されるので、その時に登山道を封鎖した名残りでしょう。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

またスカイラインから離れていきます。


場所はこちら。


階段が設置されていますが、踏み板が全て抜け落ちています(笑)。




小さなピークへと一気に登っていきます。


頂上には石碑があります。読んでみましたが、詳細はよくわかりませんでした。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

小ピークを下りて、スカイラインを歩道橋で渡り、もう一度山を登っていくとようやく本宮山の頂上です。「新城登山口」から1時間半、2.8kmの行程でした。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは一等三角点「三本宮山」(「三」は三河のこと。「本宮山」と呼ばれる山が多いからでしょう。)。標高は789.3mです


三河湾まで眺めることができます。ここまで見晴らしが良いのは初めてな気がします(と言うか、前に本宮山の山頂に登ったのはいつだったか…。)。


登山したルートの全体図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

それでは下山することにします。こちらは石碑があった小ピークに立っている(正しくはもたれかけてある。)下山口の案内柱。こちらももはや立て直す気は無さそうです(笑)。


高圧線鉄塔まで戻ってきました。


高圧線鉄塔を通り過ぎ、さらにそのまま臼子道を進んでみます。


「九丁」の丁石。


道ははっきりしていますが、急坂の上、通る登山者がほとんどいないために路上が小石や枝葉などで荒れていて、非常に歩きにくいです。




「七丁」の丁石。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここの丁石から細道が分岐しているので、そちらへと進んでみます。


程なくして国道301号の法面の上に出てきました。法面に犬走りが付けられていますが、通る気にならなかったので、法面の上まで登って迂回します。


「新城登山口」へと戻ってきました。「七丁」からの細道は登山口からの参拝道に直交する形だったので、参拝道とは関係なかったようです。


最後にもう一度参拝道を石段が終わる場所まで登り直しました。


石段が終わる場所から左方向へ細い道があるので、尾根を通る臼子道まで登ってみました。参拝者が利用する道としては随分頼りない幅ですが、つづら折りの道で一応臼子道までは出ることができました。






長い間に崩落して道幅が狭くなったことも考えら、これが「新城登山口」からの参拝道なんでしょうかね。

さて、時刻はもう16時を回っていますが、次は「新城登山口」付近から始まる廃林道を探索しに向かいます。
Posted at 2022/12/17 06:48:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年11月23日 イイね!

旧国道156号 平瀬隧道へ行ってきました

2022年10月29日土曜日、岐阜県大野郡白川村平瀬に残る旧国道156号「平瀬隧道」へと行ってきました。

当初は一人で訪れるつもりでしたが、弟から「土曜日休みだからどこかドライブに行こう。」と連絡があり、「土曜日は御母衣ダム近くの廃トンネルへ行くつもりだけどどうする?」と返したところ、一緒に行くことになりました。

自宅を朝6時過ぎに出発し、現地には10時45分頃到着しました。今いる場所自体が国道156号の旧道ですが、正面に見えている薮の先に平瀬隧道があります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

平瀬隧道の位置はこちらになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

戦前の地形図です。矢印で示した場所が平瀬隧道になりますが、地図上にはトンネルが表記されていません。かつては短い2つのトンネルだったので、表記されなかったのかもしれません。

※5万分の1地形図「白川村」:明治43年(1910年)測図・昭和5年(1930年)要部修正測図。

戦前の地形図中には「平瀬歩危」という表記も付してあります。「ホキ」というのは断崖を表す古語だそうで、白川村では「歩危」と漢字を当てています。同村内には他に「保木」と当てている地名もあります。白川村には、南側から「福島歩危」、「平瀬歩危」、「下田歩危」、「内ヶ戸歩危」とあったそうで、いずれも険しい崖道で大変な難所であったそうです。

平瀬隧道は、そのうちの「平瀬歩危」の真上に建設されており、付近の地形は現在も「平瀬歩危」に街道が通っていた頃の面影を残しています。

「平瀬歩危」に木製の桟道が通っていた頃の写真を、こちらのサイトで見ることができます。人が歩くだけでも危うい感じがします。
白川郷の歩危道

それでは本題に入っていきます。

平瀬隧道へと向かう旧道には、一応、門扉が設置されていますが、雑草が複雑に絡まり、開閉された様子は全然見受けられません。平瀬隧道を含む区間は、昭和54年(1979年)に新平瀬トンネルが開通したことにより旧道化しました。


弟を先頭にして、さっそく薮漕ぎをしていきます。






感覚的には50mくらいでしょうか、路面のアスファルトが見えてきました。


ロックシェッドが現れました。




明かり区間を挟んで、次のロックシェッドが見えています。


路肩に倒れていた警戒標識「注意」。


ロックシェッドは鉄骨を組んで波板屋根を掛けた造り。よく見かけるコンクリート造りの重厚なロックシェッドと比べると華奢に感じます。


玉石練積みの擁壁。擁壁は一部に設置されているだけで、ほとんどは岩壁が剥き出しのままです。




平瀬隧道です。コンクリートトンネルに改築されたのが昭和31年(1956年)。トンネル延長は174mです。ご覧のとおり幅が狭く高さも低い小さなトンネルで、このサイズで昭和54年まで国道156号として利用されていたのが驚きです。




側壁部分が大きく崩壊しています。鉄筋コンクリートなので、かろうじて形を保っているのでしょう。




しかし、廃止から43年経っているとしても、こんなにコンクリートが損壊してしまうとは…。湧水が多くて冬に凍結と融解を繰り返して大きく損壊したというところなのでしょう。




かつての明かり区間です。昭和31年完成の改築工事で、落石・雪崩事故防止に前後のトンネルをロックシェッドでつないで一体化したようです。明かり窓が良い雰囲気です。


ここも側壁のコンクリートがボロボロに崩れてしまい、編み込まれていた鉄筋がむき出しになっています。


崩れた天井部分には小さな穴が開いていて、外が見えています。


かつての2つ目のトンネル区間。山側だけがボロボロなので、やはり湧水の影響を受けているのでしょう。


トンネル内が緩くカーブしているのがわかります。これ、対向車と鉢合わせたらどうしていたのでしょうかね。もしかして、現役当時はトンネル出入り口に信号機が設置されていたのかな。




延々と続く明かり窓から光が差し込み、トンネル(ロックシェッド)というよりは、まるで回廊のようです。




天井アーチ。コンクリートを打設する時に用いられた型枠の板の跡が無数に付いています。


眼下を流れる庄川。昔々は、この崖下に桟道を架けて通行していたわけですね。


反対側の坑口が見えてきました。坑口直前にもカーブがあります。


短いトンネルでしたが、なかなか堪能できました(笑)。


反対側の坑門です。


坑門上部にある扁額(銘板)。「昭和31年3月竣工 延長174米 岐阜縣」とあります。


「平瀬歩危」の全景。庄川沿いの絶壁であることがよくわかります。




トンネルの手前は広場になっています。やはり、この場所で通行車両を待機させて、トンネル内は交互通行させていたのでしょう。


もう少し場所を変えて「平瀬歩危」を撮ってみました。


かつての白川街道が桟道で川面近くの崖を通過していて、その後(明治時代でしょう。)、現在の位置に新たに街道が開削され、それを改修し続けて昭和54年まで国道156号として利用していたわけです。


それでは車へと戻ります。










最後は寄り道した白山白川郷ホワイトロードの「ふくべの大滝」です。






Posted at 2022/11/23 17:40:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年11月20日 イイね!

新城市作手白鳥から始まる本宮山への参拝道を探索する

2022年10月9日日曜日、愛知県新城市作手白鳥の旧挙母街道沿いに残る砥鹿神社の鳥居から始まる本宮山への古い参拝道を探索してきました。

国道301号和田峠の峠道に残るミニ廃道を探索した後、今度は新城市作手白鳥の砥鹿神社鳥居へとやって来ました。


砥鹿神社と書きましたが、この場所に存在するのは鳥居のみ。砥鹿神社の神奈備山である本宮山の遥拝所か本宮山及び砥鹿神社奥宮への参拝道の入口を表す場所と考えられます。


戦前の地形図には、この鳥居から本宮山山頂へと続く道が記載されており、これが参拝道と考えられます。

※5万分の1地形図「御油」:明治23年(1890年)測図・大正7年(1918年)修正測図・昭和2年(1927年)鉄道補入・昭和4年(1929年)発行。

さっそく、鳥居の脇から伸びる道を歩いていきます。


路肩に石柱が転がっています。彫られている文字を読むと「一丁」とあります。これは「丁石」というやつですね。通常は1丁(約109m)ごとに立てられています。この道が本宮山への参拝道である証しと言えます。


分岐点へ来ました。参拝道は右へと曲がっていきます。左は民家の庭を通って旧挙母街道へと戻ります。民家前の道は、元々は挙母街道と参拝道とをつなぐ小径だったのかもしれません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

休耕田の横を進んでいきます。もはや誰も使うことがない道であるのに草刈りされています。こちらとしては助かります。




小川を渡り、さらに真っ直ぐ進みます。


林道との交差点へと出てきました。林道を横切ってさらに進みます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

川にぶつかりました。橋がないので一旦迂回します。


上流側にある床固工を使って対岸へと渡ります。


道標となる丁石を見つけられないまま、緩やかな谷筋を尾根へと登っていきます。




ここまで来ても明確な道跡が見当たりません。とにかく尾根の上へと出ることにします。


尾根へ出ると尾根に沿うように盛土道がありました。ひとまず辿っていくことにします。


ピンクリボンを巻き付けてある木を見つけました。一応、何らかの道ではあるようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

どんどん道跡を進んでいきます。


作業道へと出てきました。これでは参拝道がかく乱されてしまっているかもしれません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

作業道の横に古道を思わせるU字型の窪みを見つけました。参拝道かもしれないので辿ってみます。


参拝道と思われる窪みを進んでいきます。




道跡の脇に長方形の石造物を発見。丁石です。この道跡が参拝道であることを示しています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「十一丁」とあります。二丁から十丁までは見逃してしまったのか、無くなってしまったのでしょう。


特に目ぼしいものが見当たらないまま、先へと進んでいきます。








巨岩が露出している場所を通過。


地形が緩やかになり、道幅がやや広くなりました。


また巨岩があります。こういう場所は目印になるので覚えておきます。


小さな沢を渡ります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

前方が明るくなってきました。


本宮山スカイラインが通る尾根へと出たようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この先の参拝道は本宮山スカイライン建設時に破壊されたと考えられます。もう少しだけ先へと進んでみましたが、代替ルートは用意されなかったようです。


砥鹿神社鳥居から本宮山スカイラインまでのルート図です。


さて、小雨がパラついてきたし、周りも薄暗くなってきたので引き上げることにします。

「十一丁」の丁石を通過し、作業道へと出て来た場所まで戻ってきました。ここで登ってきた谷筋とは違う谷筋に明瞭な道跡があることを発見。距離的な違いは大したことはないので、この道跡を下っていくことにします。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

道跡を下っていくと丁石が転がっているのを発見。どうやらこの道が参拝道だったようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここにあったのは「九丁」の丁石。


沢沿いの道跡を下っていきます。




また丁石を発見。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここの丁石は「七丁」。「八丁」は埋もれてしまったのかな。


続けて「六丁」の丁石。




大水でもあったのか道跡が荒れてきました。


「五丁」の丁石。


川を渡ります。川の前後の道形から見て、橋は架かっていなかったようです。


場所はこちら。


坂を登って林道へと合流します。




行きに林道を横切った交差点へと戻ってきました。ここを横切ったのが道間違いの原因だったわけです(笑)。


場所はこちら。


傘を持ってきていなかったので、小雨に降られる中、濡れながら歩いています。


行きに気が付かなかった「四丁」の丁石。




砥鹿神社鳥居へと戻ってきました。


今回の全行程です。青色が参拝道。赤色は誤って通ったルートです。


参拝道(登山道)を探索するというのは初めての経験でしたが、道跡そのものは街道の峠道と何ら変わるものではないので、いたっていつも通りの探索でした。

さて、地元豊川市の方が調べたところによると、本宮山にはかつて18もの参拝道があったそうです。その方は調査内容を自家出版されているので、一度読んでみたいものです。豊川市内の本屋で発売したようですが、4年前の発行なのでもう存在していないかも…。
Posted at 2022/11/20 11:37:12 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年10月30日 イイね!

百瀬川隧道と西野水道へ行ってきました

2022年10月1日土曜日、滋賀県高島市マキノ町にある百瀬川隧道と同県長浜市高月町西野の西野水道へ行ってきました。

初めにやって来たのは百瀬川隧道。天井川である百瀬川の下をくぐるトンネルで、大正14年(1925年)7月16日に開通しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今回、なぜ百瀬川隧道へやって来たのかというと、9月25日にTGRラリーびわ湖高島戦に出ることになった際、「そう言えば、会場の近くに天井川トンネルの百瀬川隧道があったよなぁ。」と思い出し、何気にネットで検索したところ、トンネル撤去のための工事を開始している記事を見つけたからです。

「これはいかん!!」ともう少し記事を漁ってみたところ、トンネル本体の撤去は10月半ばから開始することがわかりました。TGRラリーびわ湖高島戦の帰りに国道161号バイパスから見た限りでは坑門は健在だったので、さっそく最後の姿を撮りに向かったわけです。

さて、この場所にトンネルが開通するまで、ここを通過する西近江路(現在の国道161号に相当。)の通行者は、百瀬川を渡るために天井川の高い堤防を急坂で上り下りする必要があり、交通上の支障となっていました。

※5万分の1地形図「竹生島」:明治26年(1893年)測図・大正9年(1920年)修正測図・昭和7年(1932年)鉄道補入・昭和8年(1933年)発行。

この状況を解消するためにトンネル建設の機運が高まり、大正13年(1924年)にトンネル建設を開始。大正14年に開通したわけです。そして最近まで、百瀬川隧道は滋賀県道287号のトンネルとして利用されていました。ただし、大正時代建設のためトンネルの規格が小さく、またしても交通上の隘路となってしまっていました。

話は変わりますが、天井川である百瀬川は、洪水対策として百瀬川隧道付近の幅の狭い流路を廃止して、百瀬川の北部を流れる生来川(こちらは天井川ではない。)へと流路を付け替えるための工事が行われていました。そして、百瀬川の流水を生来川へと落とすための落差工とその新流路は2005年頃には仮完成していたらしいです。

しかし、どういう理由なのか河川の切り替えがずっと行われていませんでした。約17年が経過し、ようやく新流路へと切り替えが行われたようで、百瀬川隧道の撤去が決定したわけです。

あらためて百瀬川隧道の坑門です。現在はピラスター(壁柱)から外側の部分だけが下見板張りの装飾が施されていますが、開通当時は全面が下見板張りの装飾でした。






高島市役所発行の「広報たかしま」平成25年3月号に、百瀬川隧道の歴史と開通式及び開通時のトンネルの写真が掲載されています。

百瀬川隧道の扁額。現在の扁額は左側から読むように彫られていますが、開通式の写真に写っている扁額を見ると右側から読むように彫られており、後年に取り替えられたものと考えられます。


トンネル内部です。アーチ環よりも内側に巻き立てのコンクリートが見えているので、こちらも後年補強されたのでしょう。


トンネル周辺の様子です。百瀬川が流れていた土手状の流路はすでに撤去されています。


撤去後のイメージを伝える案内板。


トンネル本体が土砂の隙間から見えています。


反対側へと回ってきました。トンネル坑門の右側にかつての流路が残されています。川を渡るたびにいちいちこの高さの土手を上り下りするのは大変ですよね。


反対側の坑門。




反対側の扁額。こちらも左側から読むタイプになっています。


トンネル内部。


百瀬川隧道は文化財に指定されているわけではありませんが、滋賀県内でよく見られる天井川トンネルの一つとして貴重な土木遺産ではありました。建物などと違ってトンネルは移築できませんし、大正末期だと文化財的な価値もまだ低いでしょうから、撤去されてしまうのもやむを得ないのかもしれませんね。


百瀬川隧道の見物を終えて、そのまま百瀬川の堤防道路を上流へと進んできました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

上流側を眺めます。流路にはまったく水が流れていません。


こちらは下流側。新しく建設された流路を眺めています。奥に見えている大きな水溜りの先に生来川への落差工があるはずです。


こちらは旧流路側。旧流路の入口は土砂で塞がれています。


ここでUターンせず、堤防道路をさらに先へと進んでいきます。


山が間近に迫る場所まで上がってくると百瀬川も普通に水が流れています。


百瀬川の谷あいまで進む気は無かったので、途中で左折して平野側へと下りてきました。出てきた場所に門扉があったので「川沿いは立入り不可だったのかな?」と思ったら、単なる獣害防止用に設置されたもので通行OKでした。


今津総合運動公園まで少し足を伸ばし、TGRラリーの際の駐車場所に車を停めて1枚。


まだ11時過ぎだったので、「滋賀県内でどこかもう1か所くらい寄ろうかな。」と考え、長浜市高月町の西野水道へ行ってみることにしました。

高島市今津町から国道161号バイパスに乗り、高島市マキノ町海津からは海津大崎を通り抜けて琵琶湖に沿って進んでいきます。さらに長浜市西浅井町大浦・菅浦と湖岸沿いを通り、奥琵琶パークウェイに入って「つづら尾崎」展望台で小休止。

展望台からの眺めです。




この後は奥琵琶パークウェイから国道8号、湖岸道路と走行し、長浜市高月町西野の西野水道へとやって来ました。


西野水道は弘化2年(1845年)完成した排水路です。この排水路が造られた西野地区は江戸時代後期、当地を流れる余呉川の大洪水にたびたび見舞われていました。そのため、洪水被害を防ぐには地区の西側に立ちはだかる山にトンネルを掘り、余呉川の水を琵琶湖へ一直線に流すしかないとの考えに至りました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

天保11年(1840年)から工事は始められ、難工事と資金不足に苦しめられながらも、220mのトンネルを5年の工期で完成させたわけです。


さてさて、普通ですと江戸時代に造られた水路トンネルなんて、しっかり出入口を封鎖されて、外から眺めるのが関の山かと思っていましたが、なんとここは自己責任で水路トンネル内の見学が可能なのです。

場所が場所なので、ヘルメット・長靴・懐中電灯は必須ですが、それらも無人案内所にレンタル用のものが用意されているほどです。幸いにも私はすべて自前の物を持っていますので(笑)、それらを装備してまずは無人案内所へと赴きました。

無人案内所に掲示されている西野水道内部の案内図。


それでは排水路跡に下りて、西野水道のトンネル内部へと向かっていきます。






江戸時代なので当然手掘り。岩なので鑿でコツコツと掘り進めたようです。必要最小限の流路を掘り上げるだけでもとても大変な作業だったでしょう。






台状になっている部分は、サザエの貝殻を利用した明かりを置いていた場所だそうです。灯明皿の代わりにサザエを利用したのでしょう。


トンネル内部で一番天井高が高い場所。


比較的きれいに掘られている場所でも天井高が低いので、少し頭を動かすとすぐ壁にぶつかります。「これはヘルメット必須だわ。」と実感しました。


測量技術が未発達なので坑内は直線ではなく、上下左右にぶれながら進んでいきます。






断層の横断部分。案内板の左側が周囲の岩質と違う感じがするので、これが断層なのでしょうか?


坑内の中央地点です。


あと110m、狭く真っ暗闇な坑内を進みます。今さらですが、何匹かコウモリがいるので(狭いのでぶつかってくる(笑)。)、苦手な人は無理かもですね。


金属棒のアーチとフードが設置されている所へ来ました。ただでさえ前かがみ姿勢だったのが、この先は中腰に…。狭い・暗いよりも中腰で歩き続けることが辛いです。






無事に琵琶湖側の坑口へと出てきました。写真を撮りながらでしたが、通り抜けるのに約20分かかりました。出てきた時に親子連れの方と鉢合わせ。「何だあの人?」というような目で見られました(笑)。




現在使用されている西野放水路の河口の先に琵琶湖の湖面が見えています。


こちらが初代西野水道から三代目となる西野トンネル。扁額には「余呉川放水路」とありますが、地図には「西野放水路」とあります。




西野トンネルの注意看板。現役水路トンネルの中に入ろうとするもの好きは、さすがにいないとは思いますが。


帰りは、駐車場と琵琶湖を結ぶ通路となっている二代目の西野水道を歩いていきます。


駐車場側の坑口付近に取り付けられている銘板。昭和25年(1950年)3月竣工とあります。ということは、初代の西野水道は105年間利用されたわけですね。


二代目西野水道の駐車場側坑口です。戦後に造られた排水路トンネルがすでに利用されていないということは、このトンネルでは処理能力不足となる大きな災害があったのでしょうか。


西野トンネルの駐車場側です。


取り付けられている銘板によると、竣工は1980年(昭和55年)3月。銘板どおりなら、二代目の利用期間は30年間で終わったわけです。


今回は滋賀県内を2か所回りました。

予定どおりであれば、百瀬川隧道はすでに破壊・撤去されてしまったことでしょう。私が訪れていた時にもチラホラとトンネルを写真に収めている人がいました。長年地域に存在していたものですから、いざ無くなるとなれば名残惜しく思う方もいるでしょう。

西野水道については、江戸時代に掘られたトンネルを歩いたのはさすがに初めてなので、もう驚嘆しかないです。見た限り、コンクリート巻き立てなどの後年の補修も全然見当たらないので、当時そのままと言って差し支えないでしょう。いい体験でした。
Posted at 2022/10/30 15:48:48 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年09月19日 イイね!

伊賀上野城と初代長野隧道へ行ってきました

2022年8月11日木曜日、弟の誘いで母と三人で三重県伊賀市の伊賀上野城へ行ってきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

最寄りの駐車場に車を停めて、城内を歩いていきます。


伊賀上野城の天守です。


現在の伊賀上野城の基礎となったのは、1585年(天正13年)に同地に封ぜられた筒井定次により築城された城だそうです。その後、1608年(慶長13年)に筒井定次が改易となり、伊勢・伊賀22万石の大名として伊予国宇和島から藤堂高虎が移封。1611年(慶長16年)に対豊臣への備えとして伊賀上野城の改修工事を行い、現在の規模となったそうです。

改修工事の際には新たに五層の天守が築かれていましたが、完成間近の1612年(慶長17年)9月に大嵐により倒壊。その後、大坂の陣により豊臣氏が滅亡したため城郭の増強は必要なくなり、天守は再建されることはありませんでした。

現在立っている天守は1935年(昭和10年)に地元名士たちの出資により建てられたもので、史実に基づき再建されたものではありません。ちなみに当時は「伊賀文化産業城」と名付けられていたそうです。

それでは天守へと入っていきます。


津藩の藩祖「藤堂高虎」の坐像。


柱にしがみつく不審者(笑)。伊賀忍者のイメージのようです。


ご覧のとおり天守は木造建築となっています。建設案の中には鉄筋コンクリート造りの建築物とするものもあったようですが、建設の中心人物であった地元出身の衆議院議員「川崎克」の強い要望により天守を模した木造建築となったそうです。


最上階です。


上野市街地の眺め。


最上階の格天井。近衛文麿や横山大観など当時の著名人・文化人から寄贈された書画がはめ込まれています。


こちらは城内の西側に聳える高石垣。高さは約30mあるそうです。






西側から眺めた天守。


城内を一通り巡りましたので、車へと戻ることにします。


帰りは運転手交替で私がハンドルを握ります。このまま素直に名阪国道に乗って帰宅しても良かったのですが、ついでなので初代長野隧道へと立ち寄ることにしました。「ついでに立ち寄る」と言っても全然方向違いになりますが(笑)。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

トンネル前にやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

まずは二代目の長野隧道を覗きに行きます。


二代目の長野隧道開通時に設置された「隧道改修記念碑」。昭和14年(1939年)3月竣工とあります。


二代目の長野隧道です。現在はご覧のとおり完全封鎖されていますが、内部は現役当時の状態のままに残っています。


それでは初代の長野隧道へと向かいます。場所は二代目の長野隧道の真上になりますが、そこへと向かう通路の出入口は、駐車場所の真向かいにあります。


通路を登っていくとわずかに残っている旧車道の石積みが見られます。


通路を奥へと進んでいきます。




初代の長野隧道です。訪れるのは2018年2月以来です。


このトンネルは明治18年(1885年)の竣工。二代目トンネルが開通する昭和14年(1939年)まで54年間、津と上野(伊賀上野)を結ぶ街道のトンネルとして利用されていたわけです。




大きな石材を積み上げて築かれた重厚感ある坑門。


トンネル内部も短冊状に整えられた石材により巻き立てられています。


今回は寄り道なので、見物はサクッと終了。




この後はそのまま国道163号で津市まで出て、伊勢道津ICから高速道路に乗り帰宅しました。
Posted at 2022/09/19 13:46:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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「【富山県】黒部ダムへ出かけてきました http://cvw.jp/b/1796277/48759927/
何シテル?   11/11 01:11
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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