• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

小林あにのブログ一覧

2023年05月07日 イイね!

【尾鷲市】弓山林道から矢ノ川峠旧道までの古道を探索する(2)

2023年4月9日(日)、三重県尾鷲市賀田町にある弓山林道から国道42号の矢ノ川峠旧道へとつながる古道を探索してきました。

さて、伐採地を横断して、古道はふたたび森の中へと入っていきます。


森の中に入ると、伐採地と違って道跡がしっかりと残っていました。路肩には石積みの擁壁もあります。


大量の岩が転がる沢に遭遇しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢の直前で路面が消失していましたが、対岸を眺めると石垣が見え、古道は続いているようです。


沢の中へと下りて、岩の間を通り抜けていきます。


対岸へと取り付きました。先ほど眺めたとおり、路肩の石垣がしっかり残っています。


ただ、この先は道跡の状態が悪そうですね。


崩落して道跡が消失しています。崩落した斜面はそんなにきつい傾斜ではないので、木々を頼りに横断していきます。


古道が復活しました。


前方の広い範囲が明るくなってきました。


どうやらこの場所で古道は折り返すようです。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

最初に折り返した地点から、地図読みで500mほど進んできています。どうしてすぐに折り返さずに、こんなに長い距離を移動してきたのか考えましたが、おそらくは牛馬が通行しやすいように勾配を緩くするためなのでしょう。

人が通行するだけなら、短距離でジグザグに折り返す「稲妻型」に道を造って、直線的に急勾配を登っていけば、距離が短く済みますし、時間も余分にかかりません。

しかし、体が大きくて、重い荷物を背負う牛馬を通行させるとなると、勾配を緩くする必要がありますし、それなりの道幅も確保しなければなりません。また、頻繁に方向転換するような道形も避けたかったでしょう。ベターなルートとして、このように大きく迂回するルートを取ったのだと思います。

折り返してからの古道も、今となっては所々で崩落して、往時の姿のままに残っている箇所はあまりありません。








至る所でしっかりした石積み擁壁を築いて、険しい地形ながらも徒歩道以上の道幅を確保しているところから見ても、賀田・茶ノ又と三重縣道熊野街道を結ぶ重要な運搬路・交通路として開削されたことが推測できます。


と言いつつ、また崩落箇所を通過。


路肩の外は沢へと落ちる崖です。


水量の少ない滑滝へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢の対岸には古道の続きが見えています。


滑滝を見上げながら、沢の中の岩場を横断していきます。


木々に囲まれているのであまり意識しないで済みますが、この辺りも路肩の外は崖地が続いています。




水抜きのためか、路肩の石垣に隙間が設けられています。


ここでまたしばらくは、道幅がしっかり残った古道へと戻ります。




道跡が軽く抉られた枯れ沢を通過。


枯れ沢を登ると路肩に大きな岩が転がっていました。割れた断面が滑らかな岩ですね。


背の高い石積み擁壁が続いています。


石積み擁壁のある区間を過ぎると道跡があいまいになってきましたが、間近に見えてきた尾根を目指して、一直線に進みます。


広場に出てきました。左側へと進みます。


ようやく切り通しに到着しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

比較する物がないので写真ではわかりにくいですが、これは確かに巨大な切り通しです。壁面の高さは20m~30mはあるでしょうか。




これだけの規模の切り通しを掘り下げるとなると、相当の資金と労働力を掛けたと思われますが、どうして「尾鷲市史」にこの切り通しの工事のことが記述されていないのでしょうか。南輪内村が発行した「南輪内村誌」にすら何もありませんでした。


南輪内村が村費もしくは有力林業者からの寄付金などで開削したにしろ、三重県へ陳情して補助金を受けたり、県が工事を実施したにしろ、何らかの記録がありそうなものです。本当に記録が残っていないのか、市史などに記述するほどの出来事ではないと無視されたのか。また機会があれば調べてみますかね。


国道42号矢ノ川峠旧道へと出てきました。こちらは矢ノ川峠方面。


こちらは熊野市飛鳥町大又方面。矢ノ川峠以西は林道的な使われ方もされなくなってしまい、廃道化が進んでいる区間です。


交差点に立つ道標。


せっかく矢ノ川峠旧道まで登ってきたので、比較的近い場所にありそうな水準点と橋を見るために大又方面へと進んでいきます。


警戒標識が転がっていました。支柱が四角なので古いものには間違いありません。国道当時のものでしょうか。


路肩には申し訳程度の駒止め。


路上にまで木が生えていて、もはや自動車での通行は無理ですね。




水準点を見つけました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

少し摩滅していますが、「水準點」と読み取れます。


裏面には番号が彫られていて、「四七八六号」だと思われます。現在、基準点成果等閲覧サービスでこの地点を検索しても水準点は無いことになっているので、廃点された水準点のようです。


ふたたび歩き出し、橋へとやって来ました。ご覧のとおり、橋桁は撤去されています。そして、橋台には穴が4つ開いていて、その真下には丸太が4本転がっています。方丈橋のように橋を支えていた丸太でしょうか。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋跡をぐるりと見渡します。




橋跡の先にも廃道は続いていますが、今回の目的ではないので、ここで引き返すことにします。


矢ノ川峠旧道を引き返して、一旦切り通しの前を通過。矢ノ川峠が見える場所まで来ました。


さすがにまだ遠いですね…。今回のところは峠もあきらめることにします。


切り通しへと戻ってきました。それでは車へと帰ることにします。


さて、ここで登ってくる途中で気が付いた別の古道へと入っていきます。もしかしたら、歩いてきた古道の旧道に当たる道かもしれません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

登ってきた古道に比べると勾配は急ですが、所々、路肩に石積みがあったりして、道の造りはしっかりしています。




ところが、大岩を過ぎて折り返したところ、その先から道跡がプツリと消えてしまいました。おそらく崩落してしまったのでしょうが、全然見い出せなくなってしまいました。




仕方がないので、そこからは木々を頼りに斜面を急降下。伐採地近くの古道へと再合流しました。




いちいち古道を辿って戻るのももどかしいので、伐採地の中をショートカットして降りていきます。


斜面を下りていく途中に古道の名残りがありました。おそらく、正面の斜面を伝って緩やかに登ってきていたのでしょう。


弓山林道の終点付近にある橋まで戻ってきました。ここからもう少しだけ、おまけの探索を続けます。


※(3)へ続く。
Posted at 2023/05/07 21:08:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 矢ノ川峠 | 日記
2023年05月04日 イイね!

【尾鷲市】弓山林道から矢ノ川峠旧道までの古道を探索する(1)

2023年4月9日(日)、三重県尾鷲市賀田町にある弓山林道から国道42号の矢ノ川峠旧道へとつながる古道を探索してきました。

少々長くなりますが、今回この古道を探索することにしたきっかけを記しておきます。ある時、矢ノ川峠旧道を通行した方のブログに、「旧道に接続するように巨大な切り通しがあったが、その先に道は見当たらなかった。」という内容を見つけたからです。

この切り通しの場所はすぐに特定できたので、切り通しに関わる記事が他にもないか検索してみたところ、「切り通しには賀田(尾鷲市賀田町)からの杣道がつながっていた。」という記事がヒットしました。それ以外には、この杣道を歩いたとか切り通しの由来に関するような記事はヒットしませんでした。戦前発行の地形図を見てみると、切り通しから賀田方面へ直線的に徒歩道が表記されてはおり、一応、道が存在したことは間違いないようです。

それから、この古道について何かしらの記述がないかと「尾鷲市史」を調べてみましたが、直接該当しそうなものはありませんでした。

間接的な記事としては、鳥越林道の関係で「尾鷲市史」を調べた際に、南輪内村(現在の尾鷲市賀田町ほか)の記事で「高瀬山・茶ノ又方面からの天然林の伐採により、(木材輸送のため)港がある賀田から茶ノ又へ至る4.6kmの車道(荷車道)が明治31年(1898年)に竣工した。」というものがありました。

「南輪内村誌」にも同様の記事があり、「林産物の搬出の為めに字小濱の附近から、古川の右岸に沿って茶の又に至る四十二町程(約4.58km)の坦々たる車道が拓かれ、其れから飛鳥村大又に至る運搬路の掘鑿によって大に便利になった(以下略)。」とあります。

ここで興味を惹いたのが「飛鳥村大又に至る運搬路」の一文。年代が記されていないため、初めは単純に鳥越林道のことを指すのかと思いましたが、鳥越林道は南輪内村賀田と飛鳥村「小又」とを結ぶ道であり、同じ村内とは言え「大又」とは離れた場所です。巨大な切り通しがある場所は、現在の住所で言うと尾鷲市賀田町と熊野市飛鳥町大又の境。今回探索する古道を指している可能性大です。

さて、茶ノ又は賀田から古川沿いに4.6kmの距離にあるということで、おおよその位置は見当がつきますが、高瀬山は地形図に掲載がなく具体的にどの場所を指すのか不明でした。

そのため、尾鷲市内の山に関することをネット検索してみたところ、尾鷲市賀田町内の「ゲジョ山」への登山記録があり、その中に「タカセ山前峰」というピークを通過してゲジョ山へ向かうことが記されていました。登山記録をアップした方は、「タカセ山前峰」から北方にある847.4mの三角点表示がある無名のピークが「タカセ山」だろうと推測しています。

そこで、この「847.4m」の三角点について国土地理院の基準点成果等閲覧サービスで閲覧してみると、三角点名が「三頭」だとわかりました。残念ながら「タカセ山」もしくは「高瀬山」ではなかったのです。それでも念のため、さらに三角点の戸籍と言える「点の記」を閲覧してみました。すると、「三頭」の所在地が「三重縣紀伊国南牟婁郡飛鳥村大字大又字高瀬山」とあり、ここでようやく「高瀬山」という地名が出てきました。

三角点が設置されている土地の所有者も記されており、南輪内村村長となっていました。高瀬山の山林は南輪内村が所有しており(元和8年(1622年)に当時の賀田村が山林購入した際の売渡証書が残っている。)、三角点「三頭」がある山一帯が「尾鷲市史」にあった高瀬山で相違ないようです。

車道の終点である茶ノ又からは、木材を搬出するための木馬道が周囲の山々へと伸びていたそうなので、当然、高瀬山一帯にも伸びていたでしょう。それらの道の内の一つが整備され、南輪内村賀田と飛鳥村大又との境にある山の尾根を通過していた東紀州の主要街道「三重縣道 熊野街道」(矢ノ川峠旧道)に、木材や物資の運搬路として接続していてもおかしくありません。その接続場所が「巨大な切り通し」だと考えるのが妥当でしょう。

上記の内容に出てくる地名などについて表記した地図を載せておきます。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、ようやく本題に入ります。やって来たのは、国道42号と三重県道70号との交差点付近。この辺りに車を停めて、古道探索へと向かいます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

交差点付近にある「賀田口」バス停。


バス停の先から道路が分岐していて、「弓山林道」と記された標柱が入口に立っています。まずはこの林道の終点まで進むことにします。




「古道の痕跡がないかなぁ。」と周囲の斜面を探しながら歩いていたところ、さっそく石積み橋台を見つけました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

両側の橋台ともしっかり残っています。道幅は荷車道よりは狭く感じますが、牛馬の通行ができるくらいはありそうです。




ご覧のとおり、林道からほんの少しだけ上流側に寄せて残っていました。少しでも川幅の狭い所に橋を渡そうとしたのでしょう。


その後はしばらく痕跡はなく、淡々と林道を歩いていきますが、橋の手前で左側の斜面へと入り込みます。林道の橋が架かっている場所は川面までの高さがけっこうあったので、まだ川を渡らずに進んだのではないかと考えたからです。


凹んだ場所に間伐材が埋もれていて、それが奥へと続いていっているので、道跡のような気がします。




人為的に積まれたものと思われる石積みがありました。


しかし、急流の沢沿いを通っているためか一面に岩や倒木が転がっていて、明確に「道跡だ!」と言えるようなものが見い出せなくなってきました。


これ以上時間を取るのももったいないので、沢を渡り、対岸を通る林道へと戻りました。






無名の橋が現れました。


場所はこちら。


そして、この場所で右側の斜面を見ると石垣が奥へと続いていっています。さすがにこのまま見逃すわけにはいきません。


石垣の上へと登ってみると一定の幅のある平場が続いています。石積み橋台からの古道の続きのようです。


歩き始めてすぐに古道の向きが川へと直交しました。ここに橋があったようです。


対岸にも路肩を石で組まれた道形が続いています。


平らな場所なので、わざわざ道幅分だけ嵩上げする必要もないと思うのですが、なぜでしょう。川の増水を考えるならもっと高くする必要があるでしょうし。




木の根元に祠があります。


祠の中には何もありません。他の場所へと移されたのでしょう。


祠の先で古道は林道に削り取られていました。


弓山林道の終点に着きました。そして、この光景を見て愕然としました…。古道が通っていた谷の木々が皆伐されています。この状態では、古道は破壊されているかもしれません…。


場所はこちら。


コンクリート舗装された作業道が谷の上部へと続いているので、ここは割り切って進めるだけ進むことにします


今度は大きな砂防ダムが見えてきました。新しそうなものが3か所設置されています。近年の豪雨などでこの谷全体が痛めつけられた証拠です。ますます不安になってきます…。


砂防ダムの銘板を見るとやはり新しいものばかりでした。






「こんな大きな砂防ダム、越えていけるかなぁ…。」と心配でしたが、幸い、通路が設けられていたり、堰堤横の斜面が緩やかだったりしたので、割と容易に通過できました。




前方に皆伐地の頂上部が見えてきました。頂上部にある大きな木を目標に、何とかあの場所まで取り付くことにします。


伐採された際に切り落とされて大量に折り重なった枝葉の中を乗り越えて、大きな木の下までやって来ました。


場所はこちら。


ここからは、幅が狭まった沢筋の斜面に残っているであろう古道を探すことになります。岩の間から染み出ていた沢水で汗まみれの顔や汚れた手を洗って、さらに奥へと進んでいきます。


戦前の地形図によると、徒歩道は沢筋の右岸の斜面に記されていたので、そのとおりに右岸側の斜面へと取り付きますが、全然古道が見つけられず、急斜面に行く手を阻まれてしまいます。


取りあえず、足場となる岩が大量に転がる沢の中を進み、古道の痕跡を見つけたら斜面へと取り付くことにします。


程なくして、右岸側の斜面に一筋に連なる石垣を発見しました。




場所はこちら。


路肩の石垣がしっかりと残っていますね。




所々で崩れてはいたものの、道筋を見失うことなく上流側へと進んでいったところ、突然、古道は切り通しのある尾根とは真逆の方向へと折り返していきます。




「地形図と違う…。でも、真っ直ぐに道跡らしきものは無いし、あるとおりに進むしかないか。」と逆方向となる古道をさらに進んでいきます。


折り返した後も、古道はしっかりとした幅のある道筋が残っていて、路肩には石垣もあります。地形図はどうあれ、この方角が古道の本来のルートのようです。




伐採地の上部へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

いい眺めです。でも、個人的に急斜面の伐採地は怖いんですよね…。日光を浴びて地面はカリカリに硬く乾いてグリップが悪く、小石や枝葉、切り株など転びやすい材料が一面にあって、危険極まりないのです。


足元に十分注意しながら伐採地を横断していきます。ここを古道が通っていたのだから、嫌であっても仕方がないのです…。






こんな場所にも古道の証拠である路肩の石垣がちょっとづつ残っています。下まで遮るものがないので、高い場所が苦手な私には困ってしまいます…。


ようやく伐採地を横断しました。この先はふたたび林の中を通るようです。まあ、木々が生えているからと言って、道跡が残っているわけではないですが(笑)。




※(2)へ続く。
Posted at 2023/05/04 17:26:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | 矢ノ川峠 | 日記
2023年04月27日 イイね!

鳥越隧道・鳥越林道を歩く(2)

2023年4月2日日曜日、三重県熊野市・尾鷲市境にある鳥越隧道とトンネルから尾鷲市賀田町へと続く鳥越林道を歩いてきました。

さて、前回(1)で鳥越隧道を通過。


翌日が月曜日なので、本当はトンネルだけ見て帰ろうかと思っていましたが、トンネルの先に続く廃道の状況を見て、「もう少しだけ進んでみるか。」という気分になってしまいました(笑)。


さっそく路上にはたくさんの石が散らばっています。その中に石列が見て取れ、本来の路肩の位置を示してくれています。


ガスボンベと大型の炊飯器らしき物が転がっています。


コンクリートブロックで造られた小さな小屋。何を入れていたのでしょうか。


広場へと出てきました。パッと見では何か建物があったような雰囲気はありません。




何となく道跡が広場の先へと続いているようには見えるので、そのまま広場の中を通り抜けていきます。


ふたたびはっきりとした道跡になってきました。


この付近でふと頭上を見上げると高い岩壁が見えていました。どうやらこの辺りはかつて採石場だったようです。尾鷲市賀田町は花崗岩の採石が盛んで、実際、このまま鳥越林道を下っていくと、現役の採石場内を通過することになります。


先ほど見たガスボンベやコンクリートブロック積みの小屋も、採石場が稼働していた頃の遺物かもしれません。

路肩に石組みの擁壁が現れました。険しい地形に開削された林道なので、この先もどんどん現れてくるでしょう。


巨木が廃道を塞ぐように倒れ込んでいます。樹皮がすっかり剝けてしまっているので、ずいぶん前に倒れたようです。


鳥越林道の建設は、飛鳥村小又~賀田港間にトラックが通行することができる道路を新たに開削することが目的でした。そのため、当初から道幅は3.7mで設計されており、明治期車道に比べると道幅にゆとりがあります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

同じく尾鷲市の南部にある矢ノ川峠の昭和道・明治道を歩いた時も似たような光景でしたが、とにかく路上への落石が多いです。表土が薄くて、すぐに岩肌が剥き出しになってしまう箇所が多いからでしょう。










高さ5mほどに積もった崩土の上を越えていきます。路面が崩落しているよりは、盛り土になっている方が状況としてはずっと良いですね。




廃道だから当然ですが、落石や倒木が次から次へと現れます。全く管理されていない林道ですから、まさに荒れるに任せる状態なわけですが、この程度なら廃道気分を満喫するにはちょうど良い感じです(笑)。












曲線を描いて奥へと連なる石垣。


路面の山側にもわざわざ石を列状に埋め込んであります。矢ノ川峠明治道でも見かけますが、尾鷲市周辺での古い時代の道路建設の特徴なのでしょうか。


珍しくきれいな路上。


先程も出てきましたが、廃道を歩いていて曲線の石垣を見るとつい「絵になるなぁ。」と思ってしまうんですよね(笑)。




また荒れた場所を通過していきます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この廃道を木材や物資を満載したトラックが往来していたとは、今見る限りでは想像もできません。




前方が明るくなってきました。


廃道が川を渡って、谷の反対側の斜面へと折り返していく場所まで来ました。谷川を塞ぐように設置されている砂防ダムには、大量の土石が積もっています。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここで引き返そうかと思いましたが、もう少し先でまた川を渡るようなので、そこまで進むことにします。


小さな橋が現れました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋には、小さな親柱と背の低い高欄が設けられています。親柱には何も記されていないので、橋名はわかりません。


「もうそろそろ切り上げて帰らないと、東名阪道で渋滞に巻き込まれるなぁ。」と頭の中で考えていますが、どうしても帰ることができません(笑)。


「あっ!石造の暗渠だ!」。コンクリート造りが普及してきている昭和戦前期に建設された林道(しかも三重県が建設。)なので、こういうものは全然期待していなかった分、小躍りしてます(笑)。


しっかり撮影しておきます(笑)。






予想外の「獲物」を収穫してようやく踏ん切りがついたので、これにて引き返すことにします。少しだけ進むつもりが、結局、トンネルから1時間20分も歩いてしまいました(笑)。


三重県道70号まで続いている鳥越林道の内、歩いた距離は4分の1くらいでしょうか。メインディッシュは鳥越隧道だったので、日を改めて続きを探索するかどうかは微妙ですね…。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

岩壁の切り取り工に残っていた発破の跡。


帰り道は足早に戻っていきます。




鳥越隧道の賀田側坑門まで戻りました。


このトンネル、内部は一直線ですが、反対側の坑口からの光は見えません。いわゆる「拝み勾配」(トンネル内部に「へ」の字形の勾配が付けられている。)となっているためです。


唐突ですが、「鳥越林道・鳥越林道を歩く(1)」をアップした後、ネット検索で「縣營林隧道工事に就て」(日本林學會誌 第十八巻 第三號 昭和10年(1935年)4月8日受理)という論文を見つけ、これが鳥越隧道の工事概要を記していました。

この論文によると、トンネル内には賀田側坑口から232mは30分の1(3.3%)、小又側坑口から200mは200分の1(0.5%)の勾配が付けられているそうです。

トンネル内に残っていた発破の跡。


賀田側坑口からの勾配がきつめに設定されているので、写真で見ても上り坂であることが何となくわかるかと思います。




トンネル中央部の拡幅部分へ来ました。


この拡幅部分、開削時点でこのように造られていたのか、後年の工事で拡幅されたものなのかが疑問でしたが、これについても論文に記載があり、開削時点から存在することがわかりました。

論文中、「5.設計変更及び竣工成績」という項目に「本工事は前述の通り工事の進捗に伴い、覆工を著しく減少して差支無い事が判明したので、設計を変更して坑内の中央に待避場(延長30m、路幅6.4m)を新設し、(以下略)」とあります。

小又側の坑口へと戻ってきました。




鳥越隧道は坑口付近のみコンクリート覆工されていますが、当初計画では賀田側坑口からは10m、小又側坑口からは70mを覆工する予定だったものが、「工事実施の結果、東口(賀田側坑口)6m、西口(小又側坑口)15mで十分であると認めたので、設計を変更した。」とあります。これによって多額の経費を節約できたともあります。

トンネル前から浅谷越林道を見ています。最初にグーグルマップで現地確認をした時は、「トンネル前に車を停められそうだな。」と思っていましたが、現地を見て「これだけ段差があると無理だな…。」という訳で、やや離れた路肩へ停めたわけです。


無事に車へと戻ってきました。



最後に鳥越林道の開通後の出来事を列記しておきます。

昭和11年(1936年)3月、飛鳥村・南輪内村両村長は、新宮営林署を通じて大阪営林局へ林道修繕費として木材・木炭の輸送量に応じて交付金を下付されたいと出願(営林署が木材・木炭を賀田港へ輸送する際に鳥越林道を利用するようになったため。)

昭和11年4月3日、鳥越林道の開通祝賀会を南輪内村の賀田小学校で300名余りを招いて開催。

昭和11年10月、飛鳥村からの提案で、鳥越林道を利用する自動車・牛馬車から飛鳥村・南輪内村両村が通行料を徴収開始。利用距離3km以上は木材価格の1%、3km未満は0.5%。ただし、木材が南輪内村着の場合はすべて0.5%。

昭和11年10月、矢ノ川峠の県道改修がなり、輪内~尾鷲間に初めて自動車が通行する。楽器材として使用する木材が、紀勢東線尾鷲駅まで自動車で出荷されるようになる。

昭和19年(1944年)・21年(1946年)の大地震により大損害を受ける。「生活再建整備事業」の補助を受けて、昭和22年度(1947年度)に全線改修。

昭和23年(1948年)5月11日、南輪内村・北輪内村・飛鳥村の各村長連名で、鳥越林道の県道編入を三重県知事へ願い出る。鳥越林道の維持管理に南輪内村と飛鳥村を合わせて毎年約15万円の出費を要しており、村財政を圧迫していたため。

昭和24年(1949年)10月29日、正式に県道移管が認可される。三重県道「南輪内~五郷線」となる。

昭和34年(1959年)7月15日、紀勢本線全通。賀田駅開業。

昭和43年(1968年)4月6日、矢ノ川・弓山・大又の各トンネルを通過する国道42号矢ノ川峠越えの新ルート開通。

昭和44年(1969年)7月1日、国道42号新道と賀田港を連絡する道路が県道中山線となり、県道南輪内~五郷線は鳥越隧道を境に尾鷲市道・熊野市道へ格下げとなる。

ざっくりですが、鳥越林道の歴史は以上となります。

賀田地区での林業の衰退、紀勢本線の全通と賀田駅の開業、国道42号矢ノ川峠越えルートの新ルート開通と県道中山線の接続などの理由により、狭くて急坂で荒れ道で維持費もかかり、地域の中心地である尾鷲市街地へも大回りとなってしまう鳥越林道の存在価値はどんどんどんどんと低下していき、ついに廃道となってしまったわけです。
Posted at 2023/04/27 23:12:08 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年04月24日 イイね!

鳥越隧道・鳥越林道を歩く(1)

2023年4月2日日曜日、三重県熊野市・尾鷲市境にある鳥越隧道とトンネルから尾鷲市賀田町へと続く鳥越林道を歩いてきました。

紀勢道を尾鷲北ICで降りて国道42号を南進。熊野市飛鳥町小又で国道42号から市道小又線を経由して林道浅谷越線へと入り込み、5kmほど走行した所にある広い路肩へと車を駐車します。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

車を駐車した場所からさらに先へと歩いて進みます。


車から100mも進んでいない道路の左側。唐突にトンネルが現れます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

このトンネル、手前の林道浅谷越線とは段差が付けられていて、車では行き来することができないようにされています。


あらためまして、鳥越隧道です。地形図にしっかりと記載されていながら、ご覧のとおりの廃トンネルです。






坑口から見事な崩れっぷりです。




小又側坑門の扁額です。


アーチ環の石には起工・竣工年月が彫られています。読み取りにくいですが、「起工 昭和八年五月」、「竣工 昭和九年六月」とあります。事前の下調べですでに知っていましたが、戦前に開削されたトンネルです。


そして真向かいの石には、「請負人 津市 平田組」とあります。ネットで社名を検索してみましたがヒットせず、少なくとも「平田組」としては現存していないようです。


ここで鳥越隧道がある「鳥越林道」の建設の経緯について少々記します。内容は「尾鷲市史」からの抜粋です。

鳥越林道が建設された旧南牟婁郡南輪内村(現:尾鷲市賀田町など)は、明治時代に林業が盛んとなりました。高瀬山・茶ノ又方面からの天然林の伐採により、港がある賀田から茶ノ又に至る4.6kmの車道(荷車道。三重県道70号 賀田港中山線の前身。)が明治31年(1898年)に竣工し、天然木が大量に賀田港へ搬出されるようになりました。

そうした中、昭和7年(1932年)に政府の農山漁村振興策の一環として、林道等の開削が大きく取り上げられることになったため(「時局匡救林道助成事業」及び「山村救済林道助成事業」のことか。)、当時の南輪内村村長・賀田区区長は、鳥越峠を越えた西隣にある飛鳥村(現:熊野市飛鳥町)の村長と共同して、飛鳥村小又(現:熊野市飛鳥町小又)~南輪内村賀田間の林道開設を三重県へ強く要望しました。

南輪内村と同様に、隣接する飛鳥村でも林業が盛んに行われていましたが、当時村内を通過していた県道津木本線(後の国道42号)は、尾鷲方面へ向かう矢ノ川峠も木本(現:熊野市)方面へ向かう小坂・評議峠も峠道の整備がまだまだ行き届いておらず、村外へと木材を搬出することに長年苦慮していたと思われます。

そのような状況であったところに、賀田港を持つ南輪内村から共同で林道開設を陳情しようと誘われれば、是非もない話だったでしょう。南輪内村側としても、林道が開削されれば飛鳥村だけでなく、さらに奥地の村々からも賀田港への木材搬出が期待できる目算があったはずです。

この陳情は三重県に取り上げられ、県林務課によって「鳥越林道」が開削される運びとなり、津市の平田組が135,000円で工事を請け負うこととなりました。最大の難関である鳥越隧道は、昭和8年(1933年)5月に起工し、昭和9年(1934年)6月に竣工。鳥越林道は昭和10年(1935年)6月に完成しました。

主要な街道でもない山奥の林道に戦前期のトンネルがあるのは、こんないきさつがあったからなのです。

それでは、トンネル内へと進んでいくことにします。コンクリートで巻き立てられているのはほんのわずかな距離で、すでに素掘りの坑内が見えています。


そのわずかなコンクリート区間も剥落が激しい状態です。


トンネルの真上が凹地なためか、凹んだ山肌に集まった水が浸透してきて、路面に大きな水溜りを作っています。


ちなみに明かりが無いとこんなに暗いです。


素掘りトンネルとは言え、岩盤の荒々しさが剥き出しになっています。




路面は当然のように未舗装。


岩質が変わったためか、壁面が先ほどのゴツゴツした状態ではなく、多少滑らかな仕上げになってきました。


このトンネルの特徴の一つとも言えるトンネル中央部の拡幅部分です。トンネル延長が430mもあるので、すれ違いのために設置されたものでしょう。






壁面に腐食した木が刺さっています。電線でも通していたのでしょうか。


トンネル後半の壁面は、ずっときれいな仕上げになっています。


反対側の坑口が近づくにつれて、坑内がまた濡れてきました。




コンクリートの補修壁があります。


下部には水抜きのためか穴が開けられています。


坑口に向けて側溝も設けられています。


路面に岩盤が剥き出しになっています。昔の車は車高が高いので、この程度なら問題なかったのでしょう。


反対側も坑口付近だけはコンクリートで巻き立てられています。


右側の壁面に埋め込まれている「石工 水浦尋市」の銘板。トンネル工事の監督に当たった方だそうです。


左側は落書きで名前がたくさん彫り込まれています。


賀田側の坑門です。


場所はこちら。トンネル坑道の位置が地形図とずれています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

賀田側の坑門はトンネル坑内に対して斜めに設置されています。トンネルの先が急カーブなので、トンネル前の狭いスペースでもスムーズに曲がれるように、トンネル内からカーブを付けて、坑門も斜めに設置したのかもしれません。




賀田側坑門の扁額。


このトンネルに着いた時は、「明日は月曜だし、トンネルだけ見て帰ろうかな。」と思っていましたが、この廃道の風景を見て「もう少しだけ進んでみるか。」という気になってしまいました(笑)。


※(2)へ続く。
Posted at 2023/04/25 00:27:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年04月17日 イイね!

中央本線 十二兼駅周辺を散策してきました

2023年4月1日土曜日、長野県木曽郡南木曽町の中央本線十二兼駅周辺を散策してきました。本当は、野尻森林鉄道柿其線跡の続きを探索しようと思ってやって来たのですが、図らずも「散策」となってしまいました…。

さて、野尻森林鉄道柿其線跡へと向かうため、木曽川に架かる柿其橋の近くへとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

対岸の山の中腹を通る野尻森林鉄道柿其線跡を眺めます。


柿其橋を渡り、橋のたもとにある神社へとやって来ました。ここから木曽川の河原へと下りていきます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

木曽川の河原から支流である柿其川の河原へと進んでいきます。


橋の下へとやって来ました。本当はこの橋を渡ることができれば簡単に廃線跡が通る山へと行けるのですが、採石業者?の私有橋のため関係者以外利用禁止なのです。


場所はこちら。


そのため、前回訪問時は橋の上流側にある浅瀬を渡渉したわけです。もちろん、今回もそのつもりでこの場所へと来ました。しかし、残念なことに今回は川の深さが長靴よりも深くなっていました…。

しばらく付近を移動して、別の場所に何とか渡れる浅瀬がないか、石伝いに渡っていけそうな場所がないかと探してみましたが、ダメでした…。

仕方ないので一旦道路へと上がり、柿其水路橋へと向かいます。


ここから野尻森林鉄道柿其線跡へと取り付きます。






柿其水路橋の上を通過。


杉林の中を進んでいきます。


昨年、初めて訪れた時に引き返した崩落箇所へと来ました。あれから1年経っているので、「もしかしたら通っていけるようになっているかも。」と淡い期待を抱いてやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

残念なことに、昨年引き返した時の状態と変わりありませんでした…。


崩落した土砂の上に登り、反対側に続いている廃線跡を見下ろします。黄色の線のとおりに下りていけば、反対側へと進むことができます。しかし、右側は柿其川まで20~30mの絶壁。今も谷側へと傾斜している崩土が、その場へと踏み込んだ途端、崩れ落ちるかもしれないという恐怖感が拭えません…。進むのは止めました。


結局、また柿其橋へと戻ってきました。振り出しです。


こうなったら、中央本線十二兼駅の北側にあるという、木曽川を渡るつり橋へと行ってみることにします。ただ、気がかりなのは、ネットで検索した渡橋記録が最新のもので7~8年前のものしかないことです。

つり橋の場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧中山道(旧国道19号)を歩いていきます。


十二兼駅へ寄り道。






ふたたび旧中山道を歩いていきます。


木曽谷の中央本線でよく見かける石造りのアーチ暗渠。




つり橋が見える場所までやって来ました。つり橋へと続く道が工事中のため立入禁止になっています。


それから、つり橋のたもとに門扉が付けられていて閉鎖されているようです。またダメでした…。


あともう1か所、希望のある場所へと移動します。

中央本線「第14仲仙道踏切」の近くへと車で移動してきました。




場所はこちら。この場所の直下にある読書ダムの堰堤を渡れるかもしれないとやって来ました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

読書ダムを見下ろして、その期待は速攻で砕かれました…。ここも門扉が付いています…。十二兼駅前にあったハイキング案内図には渡れるように図示されていたのに…。


これで木曽川の対岸へと渡る手段は無くなりました。もう一つ、さらに上流に架かる阿寺橋から下流へと向かう方法もありますが、人目が多いルートなので…。

このまま帰るのも何なので、野尻宿の入口まで旧中山道を散策することにします。と言っても、舗装路になってしまっているので、昔の街道の風情は全然残っていませんでしたが。


道中、旧中山道をハイキングしているのか、何名かの人とすれ違いました。


山側にトンネル型の穴を発見。


砂防ダムの水抜き穴だったようです。


「第13仲仙道踏切」に来ました。五街道と呼ばれるうちの一つであるこの街道。通常、「中山道」または「中仙道」と表すと思うのですが、踏切名称はなぜか「仲仙道」。中央本線建設当時はそのような表記もあったのかもしれません。




名古屋行きの特急「しなの」が、振り子電車の威力を発揮して豪快に通過していきます。


旧中山道の橋は今時の橋に架け替えられています。せめて戦前のコンクリート橋で残っていないかなと期待したのですが。頭上の橋は現在の国道19号です。


野尻宿の入口まで来ました。直進すれば野尻宿。左折すれば木曽川に架かる阿寺橋を渡り、阿寺渓谷へと行くことができます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「第13仲仙道踏切」まで戻ってきました。ここから左側へと山道が分岐しています。このまま旧中山道を戻るのも面白味がないので入り込んでみます。




落石防止施設が現れました。土台のコンクリートに大きな亀裂が入っていますが、大丈夫なんですかね。


竣工年月は1977年(昭和52年)11月とあります。


落石防止施設に沿って進んでいきます。


砂防ダムへと出てきました。もしかしたら、砂防ダム建設時に造られた作業道だったのか…。


砂防ダムの先へと細い通路?が続いているので、進んでみることにします。




斜面に点検用と思われる梯子が設置されています。中央本線の真上になるので、この辺りの斜面は石積みかコンクリートの擁壁で覆われているようです。土砂が積もり草木が生えているので、石・コンクリートのどちらで造られているのかはよくわかりませんが。


今は擁壁の「犬走り」を歩いているわけですね。でも、通路右側の木にピンクリボンが付けられているし、昔の道跡であるかもしれません。


擁壁部分を脱出したようです。


斜面の凹地が崩落しています…。渡れそうではありますが、失敗すると10mくらい斜面を滑り落ちそうです。


この場所で10分くらい立ち止まって進退を検討(笑)。結局、斜面に足場を作りながらじりじりと進み、大丈夫な距離まで来たところで小ジャンプ。反対側へと進みました。

崩落箇所の先の杉林の中には、道跡と思われる隙間が続いていました。




結果的には、国道19号 野尻トンネルの前へと合流。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

車がビュンビュンと走る、歩道の無い国道19号を歩くのは怖いので、ふたたび斜面へと突入。


かつて建物があったのか、側溝に囲まれた平場。


何とかうまく「第14仲仙道踏切」の近くへと脱出し、車へと戻りました。


今回は、昨年3月に探索した野尻森林鉄道柿其線跡を前回よりもさらに上流に向かって探索したかったのですが、廃線跡に取り付けなかったばかりに探索空振りとなってしまいました。

ブログに上げていないだけで、こんなことはままあります(笑)。ネットなどで下調べして向かっても、当時と状況が変わっていることはよくありますし、自分がそもそも探索場所を発見できないこともあります。

まあ、空振りに終わったとしても、代わりに何か小ネタを拾って気分を紛らわすのが大事ですね(笑)。
Posted at 2023/04/17 18:27:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

プロフィール

「大井川鐡道の駅をいくつか巡ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48626253/
何シテル?   08/30 00:20
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/9 >>

 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    

ブログカテゴリー

リンク・クリップ

万古隧道から万古集落跡の周辺を探索しました(2) 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2025/09/04 14:47:53
甚目寺と名鉄築港線東名古屋港駅 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2025/04/19 15:27:31

愛車一覧

スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
所有4台目(4代目)となるインプレッサ。 ガチガチのマニアというわけではないですが、4 ...
スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
平成16年夏に購入。 自身3台目のインプレッサとなります。 購入理由は、2台目インプレ ...
スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
平成9年夏購入。 インプレッサ2台目。 行きつけの車屋さんへタイヤ交換の依頼をしに行っ ...
スバル インプレッサWRX スバル インプレッサWRX
平成7年夏購入。 インプレッサ1台目。 購入動機は、WRCのビデオを見たのが一番。 ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation