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小林あにのブログ一覧

2023年07月31日 イイね!

【新城市】古道「只持海老道」を探索する(2)

2023年6月24日土曜日、新城市只持から新城市海老へと至る古道「只持海老道」を探索してきました。「只持海老道」という名称は、旧鳳来町発行の「鳳来町誌 交通史編」によります。そのため、この道が地元の人々からはどのように呼ばれていたのかは不明です。

さて、前回(1)では、林道松峯線の終点までやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「只持海老道」はまだ先へと続いているので、砂利道となった林道へそのまま進んでいきます。

砂利道に入ってすぐの場所ですが、右側に平場が続いているように見えます。


上へと上がってみると古道の続きがありました。


この区間に残っていた古道は短く、間もなく林道へと飲み込まれてしまいました。林道へと下りて、先へと進んでいきます。






林道に出てから、ずっと山側(右側)の斜面を眺めながら歩いていましたが、不意に法面の上へと登っていく踏み跡を発見。さっそく上へと登ってみます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

やはり古道の続きがありました。しかし、埋もれたのか崩れたのか、だいぶ道幅が狭くなっています。




沢へと出てきました。そして、沢の先へと続いている古道へ進むのを邪魔するように、倒木が思い切り倒れ込んでいますね…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

段差の平らな所で沢を渡り、倒木の下をくぐって枝を掻き分けて対岸へと進みます。思っていたよりも苦労せずに通過できました。


沢を渡った箇所を振り返っています。対岸の路肩には石積みの擁壁が見えています。古道と沢の間には橋を架ける程の段差は無いので、流れの中をそのまま渡っていたのでしょう。


沢を渡った後も、古道の道幅は狭いままです。


古道が唐突に作業道へと変わってしまいました。周囲を確認してみましたが、正面の作業道以外に道跡らしきものはなく、作業道は古道を拡幅したものだと判断して、そのまま進んでいきます。


広い平場へと出てきたので、違う場所を古道が通っていないか念のため確認しておきます。


結局、作業道以外にはこれといった道跡は無かったので、このまま平場から下っていく作業道を歩いていきます。


作業道を下っていくと、道の分岐点に出てきました。


まずは下りてきた場所の正面から分岐していく道へと入ってみます。どうみても廃作業道なので、あまり気は進みませんが…。


ぬた場と思われる大きな水溜りで道がわからなくなってしまいました。この道から引き返します。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

平場から下りてきた分岐点まで戻り、隣の道へと入っていきます。




こちらもしばらくは廃作業道が続いていましたが、やがて途切れてしまいました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こうなっては仕方がないので、杉林の斜面を下りて、先ほどまで歩いていた並行する林道へと出ます。




林道を進んでいくと、別の舗装林道へと合流しました。そのまま真っ直ぐ進んでいきます。


峠の深い切り通しに出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

切り通しを通り抜けて、古道が通っていたと思われる方向へ左折します。この道も廃作業道のようですね…。


路上に木々が生えていたり、薮で覆われていたりと、なかなか不快な廃道です(笑)。




ここが作業道の終点のようです。この先に古道の続きはあるのか…。


しばらくは土砂などでかく乱されていましたが、そのまま進んでいくと古道が再び現れました。


古道が折り返して下を通っていくのが見えます。路肩に石積みの擁壁があるのが見えています。


この辺りは作業道ほどの道幅があります。「現役」の頃からこの道幅なのか、後年の作業道への改修によるものか、見当が付きません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

小さな沢を渡る部分も路肩が石垣で補強されています。


小さな沢から振り返っての眺め。古道の路肩にはずっと野面積みの石積みがあります。この景色を見る限りでは、昔のまま残っているようにも思えます。


道が分岐していく場所に来ました。ひとまず、この地点で山へと登っていくことはないはずなので、左側の道を進むことにします。


ここへ来てまた倒木ですか…。しかも薮と絡んでいるし…。


少々嫌な思いはしましたが、また沢へと出てきました。


沢の辺りも土砂や岩で地面がかく乱されていて、道跡は全くわからない状態。そのまま沢を歩いて舗装林道へと出ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この時点で時刻は14時10分。実は夜に飲み会の約束をしているので(笑)、この場所から車まで引き返して、さらに自宅へと戻り、集合時間に間に合うように会場へ向かうとすると、時間的に限界かなと判断。ここで引き返すことにしました。

まずは、峠の切り通しまで舗装林道を登っていきます。ちなみに、この林道の路線名は「桃の久保線」といいます。新城ラリーの初期にはSSコースとして使われたこともある林道です。




土砂崩れが放置されています。土砂の雰囲気からして、ごく最近の土砂崩れのようですが、誰もこの林道を通らないようですね。


さて、峠の切り通しの近く、道の上の斜面に石碑が立っているのを見つけました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

喜び勇んで(笑)近寄ってみたところ、これは名号碑ですね。独特の書体で「南無阿弥陀仏」と彫られています。それ以外の文言は全く無いため、残念ながらいつの時代に立てられたものかは不明です。


名号碑の目の前には古道が通っています。通っている場所からして、これが「只持海老道」でしょう。


せっかくなので、名号碑から左方向へと延びていく古道を辿っていきます。程なくして酷い道になるのはわかっていましたが…。


若木に覆われだしましたが、まだこの程度なら問題なく行けます。


いよいよ、いろいろなものが絡みだしてきました…。


かつて道が通っていたルートを忠実に辿ろうとすると、往々にしてこんな目に遭います…。何の「旨味」もない行動ですが、自分が納得するためだけに突破していきます(笑)。


とにかく面倒くさい事ばかりが連続する区間でしたが、何とか突破してきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

あとはここから砂利道の林道へと合流し、まずは林道松峯線の終点に向けてひたすら歩いていきます。

林道松峯線の終点まで戻ってきました。もう古道は通らず、そのまま舗装林道を進んでいきます。


と言いながら最後に寄り道。スタートして間もなく古道へと取り付いた地点から只持側へと続いている、ほんのわずかな距離の古道を歩きます。




林道だけでなく、こちらの古道にも獣害防止柵の門がありました。しかも困ったことに扉が開かない仕様…。仕方がないので、金網を登って外へと出ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

最後の最後に引っ掛かりましたが(笑)、無事に車へと戻ってきました。




今回探索したルート図がこちら。赤線が往路。青線は復路ですが、一部赤線の区間も通っています。登山用アプリでの計測では、往復8.4kmに4時間15分かかりました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらの地形図での赤線は、今回探索した区間での「只持海老道」の推定ルートになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今回だけでは、只持から海老まで踏査することはできませんでしたが、残りの区間については日を改めて探索したいと思います。
Posted at 2023/07/31 22:01:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年07月30日 イイね!

【新城市】古道「只持海老道」を探索する(1)

2023年6月24日土曜日、新城市只持から新城市海老へと至る古道「只持海老道」を探索してきました。「只持海老道」という名称は、旧鳳来町発行の「鳳来町誌 交通史編」によります。そのため、この道が地元の人々からはどのように呼ばれていたのかは不明です。

「鳳来町誌 交通史編」によると、昭和の初め頃まで、只持は東側の山地を挟んで海老川沿いの谷にある海老や玖老勢との交流が盛んであったそうです。その中で「只持海老道」は名前のごとく、只持と付近の物流・商業の中心地であった海老の街を結ぶ道でした。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年測図)・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行


※5万分の1地形図「三河大野」:明治23年(1890年測図)・大正6年(1917年)修正測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

また、この道は、海老にあった郵便局が只持での郵便物の集配を行う際にも利用していたようで、明治40年(1907年)の「海老局市外集配路線図」によると、海老局→須山→山中→湯島→只持→小松→只持→海老局の順路を徒歩で周回していたことがわかります。

さて、探索のために新城市只持へとやって来ました。国道257号から林道松峯線へと入り込み、地元の墓地の前にある広場へ駐車させてもらいます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さっそく準備を整えて、まずは林道を歩き始めます。広場から先の林道は、ご覧のとおり獣害防止用の門が設けられているため、門を開けて進入していきます。


100mも歩かない所で、右側の斜面へと入り込みます。林道の右側の尾根筋を古道が通っているだろうと予測したからです。


予想どおり古道がありました。ここからは古道を歩いていきます。


深い堀割りがあります。掘削に労力を要する深い堀割りを見つけると、やはりそれなりの往来があった道なのかなと感じます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

堀割りを通り抜けると谷側の路肩が急斜面になります。けっこう高い場所を通過しています。


山と山とをつなぐ尾根筋に盛土道がありました。細い尾根で渡る場所によく見かけます。


古道が二股に分かれているように見えます。左側の道の方が人の手で造られた感じがするので、左側へと進みます。


薮が邪魔ですね。


程なくして薮を抜けました。


右側から別の古道が合流してきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

そして、この場所に石仏がありました。これは馬頭観音ですね。


光背には「文久三 亥三月」の文字が読み取れます。文久3年は1863年。今から160年前です。干支が「癸亥」(みずのとい)なので、「亥」とあるわけです。


石仏からさらに進んでいくと、間もなく林道へと出てきました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この場所でふたたび林道から外れます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

少しだけ林道の下を並行してから左側へと曲がっていきます。


左へ曲がると長い上り坂が始まります。


また古道が二股に分けれています。右側はショートカットの道(もしくは下り用の道。)でしょうが、その分急坂になるので、左側の道を進んでいきます。


二股道の坂の頂上で折り返していきます。




一本に戻った道をさらに登っていくと、頭上に林道が見えてきました。


古道は林道に寸断されていたので、法面を登って林道へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

林道を10m~20mほどだけ歩き、今度は右側へと逸れていきます。


この区間は薮が多くて、あまりいい状態ではありませんね。




薮は抜けましたが、道の雰囲気がいまいち。


ようやく真っ当な感じの古道に戻りました。


と思ったら、林道に削られて古道が無くなっていました。


斜面を滑り降りて、林道へと合流します。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

路肩に据え付けられていた林道松峯線の銘板。


古道の分岐点に来ました。左側の木々の間へと入っていきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この場所に来て、初めは草地の中に古道が通っているのかと思って踏み込みましたが、道らしきものが見当たらず、引き返して右側の急坂を登っていきます。


いくら古道でも急坂過ぎます。疑問に感じつつもひとまずは坂を登り、状況を確かめることにします。


急坂を登ると右側から合流してくる道がありました。どうやら、本来は合流してくる道が古道だったようです。合流してきた道へ様子を見に入ってみましたが、すぐに林道の高い法面に寸断されていました。


先程の急坂よりは幾分緩いですが、なおも急坂が続いていきます。




古道の路肩に短く切られた丸太が並べられています。どういう目的で並べたものなのでしょうか。


深い堀割りです。前方には尾根が見えています。




堀割りを登り切ると、古道は折り返して尾根を進んでいきます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

右側のピークを避けるように古道は進んでいきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここでちょっと寄り道。右側のピークにある三角点へと登ってみます。


三角点と「建設省国土地理院」の標柱が立っています。


標石を覗いてみると「三等三角點」とあります。「基準点成果等閲覧サービス」で閲覧してみると、基準点名は山の名前ではなく「只持村」。標高は408.28m。「点の記」には、選点が明治20年(1887年)7月21日とあり、当時の村名から付けられたのでしょう。選点時にこの山には名前が無かった証しとも言えますね。


古道へと戻り、先へと進んでいきます。




三角点がある山から下っていきます。


山からどんどん一気に下っていきます。








林道へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

合流地点の先で、林道の舗装区間が終了しました。ここが林道松峯線の終点のようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

※その(2)へ続く。
Posted at 2023/07/30 14:07:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年07月08日 イイね!

国道151号「落合新野バイパス」旧道を歩く(2)

2023年5月13日土曜日、長野県下伊那郡阿南町を通る国道151号のバイパス「落合新野バイパス」の旧道を歩いてきました。

国道151号「落合新野バイパス」は、阿南町巾川から阿南町新野の区間にあるバイパスで、同区間にある幅員狭小・線形不良部分の解消を目的として建設された延長7.6kmの二車線道路です。

区間のほとんどは新規に建設されていて、旧道から離れて大きく蛇行したルート取りやループ区間、いくつかのトンネルを設置することで、二車線確保と勾配緩和がなされていますが、地形的な制約もあり急坂の完全解消までには至りませんでした

このバイパス区間の旧道、現在は事実上廃道となっていますが、おそらく廃道となってからまだ20年程度しか経過しておらず、廃道としてはまだ現役時代の風味が残る部類になるかと思います。実際、この旧道がまだ現役国道だった頃に自分の車で通行したことも何度かあります。

さて、前回(1)でここまでやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここから現国道の路肩(歩道は無いので。)を少し歩くと、また旧道が分岐していきます。


現国道の橋梁をくぐるとすぐにきついヘアピンカーブ。


ヘアピンカーブを過ぎると橋が現れます。


川の名前は「からさわ」。現国道の橋梁名が「新唐沢橋」なので「唐沢」ですね。


旧道の橋名は当然「からさわばし」。変体仮名を使用しているので、「から」しかまともに読み取れませんね。


現国道の橋梁下を進んでいきます。


「すべりやすい」の警戒標識。


石積みの擁壁が崩れています。大雨で緩んだ土砂に押し出されたのでしょう。


この辺りは山側にずっと石積み擁壁が組まれています。


現国道が接近してきました。現国道の奥に見えているのは聖岩トンネルです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

現国道へ合流です。


出入口には車両通行止の注意看板が立てられています。


また現国道の路肩を少しの間歩き、今度は左側へと分岐していきます。


この場所は現国道との接続部分が急坂です。写真ではわかりませんが、路面にぬめっとした苔が生えていて、滑りそうになりました。


苔で滑る坂を下りてくるとすぐにヘアピンカーブ。転ばないよう慎重に歩いていきます。


また橋が現れました。高欄がガードレールに交換されていたので、橋名は不明です。


この看板、文章の内容からみて、おそらく旧道が現役の頃に設置されたものがそのまま残っているようです。


背の高い石積み擁壁です。擁壁の上部には細い水路が通っています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからは大きく半円形に右カーブしていく現国道の外側を通っていきます。






半円形のカーブ区間が終わると、ガードをくぐってきた道路が合流してきます。


このガードをくぐる道路は、落合新野パイパスの帯川トンネルが開通するまで、バイパスの暫定開通区間と旧道(当時は国道)をつなぐ連絡路でした。ちなみにこの連絡路は半円形カーブの内側にループ形状で設置されています。

ガードに設置されている銘板。「根吹第2トンネル」とあります。ちなみにバイパス上に「根吹トンネル」があります。「根吹第1~」とは付けなかったんですね(笑)。


元連絡路との合流地点以降の旧道は供用中の道路となります。

現国道の橋梁下にある帯川バス停。この橋梁の先にバイパス区間最長の帯川トンネル(延長1264m)があります。


旧道にも橋が現れました。


昭和38年(1963年)3月竣功とあります。当時はこのサイズの橋で十分だと判断される程度の交通量だったのでしょう。


橋名の銘板も残っていました。「井戸入沢橋」とあります。


今回の目的である旧道の廃道区間は終わってしまったので、この橋で引き返すことにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧道の急坂を休み休み登り返してきて、旧道と天龍村の見遠へ向かう道との分岐点まで戻ってきました。ここから見遠への道へと入り込みます。


見遠への道は2020年8月30日に弟のレックスで走っています。その時は、天龍村内の国道418号が大規模土砂崩れで通行止めになっていたことを知らずにやって来て、何とか国道151号へ出ようと山の中をさまよっているうちにたまたま通りました。


その時にどこかのカーブに石仏があったのを見かけていて、「ついでだし、それを見に寄り道するか。」と思い立ったわけです。いや、本当はここまで相当な距離を歩いて疲れているので、そんなことをせずにそのまま旧道を登っていけば良かったのです…。

さて、旧道からの取り付き部分はコンクリート舗装の急坂の連続になります。この時点ですぐに嫌気が差していましたが(笑)、「わかっていたことだし。」と黙々と登っていきます。




石仏を見かけた場所を正確に覚えているわけではないので、見つけるまで奥へと進んでいくことになります。


深い谷の奥を小さな橋で渡っていきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この橋からまた急坂が始まります。


この道はずっと幅が狭いので、軽四でもちょっときついですね。写真みたいに路肩が崩れた場所があるともうギリギリです。対向車がくると本当に最悪です(笑)。


戦前の地形図にも徒歩道の里道として記載されている道ですが、良くも悪くも忠実に当時の線形をなぞっている感じです。






二つ目の深い谷の奥まで来ました。ここまで石仏の姿は発見できていません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この時点で16時20分過ぎ。日が長くなったとは言え、ここは人家が全く無い深い深い山の中。それにまだ旧道の急坂を登り返していかなければいけません。ここで見切りをつけて引き返すことにしました。

引き返し地点から30分後、旧道へと再合流しました。ここまで熊鈴をいつもより大きく鳴らしながら歩いてきました。


ここからさらに休み休み歩くこと20分あまり。ようやく駐車場所へと到着しました。登山用アプリで計測した歩行距離は13.7km、歩行時間は4時間18分。これだけの距離を歩いたのは久しぶりで、車に乗り込んで少しぐったりしていました…。


今回の歩行ルートです。


4月に尾鷲市内の山の中を歩いて以来、しばらく山の中を歩く機会が無かったので、雨天でもそこそこ大丈夫だろうと舗装路の廃道へとやって来たわけでしたが、その分、欲張って歩いてしまいました。道が崩れて無くなっていれば嫌でも引き返しますが、そこまで古い時代の廃道でもないですからね。まあ、体力をしっかり使ったので、良い気分転換にはなりました。
Posted at 2023/07/08 22:24:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年07月06日 イイね!

国道151号「落合新野バイパス」旧道を歩く(1)

2023年5月13日土曜日、長野県下伊那郡阿南町を通る国道151号のバイパス「落合新野バイパス」の旧道を歩いてきました。

国道151号「落合新野バイパス」は、阿南町巾川から阿南町新野の区間にあるバイパスで、同区間にある幅員狭小・線形不良部分の解消を目的として建設された延長7.6kmの二車線道路です。

区間のほとんどは新規に建設されていて、旧道から離れて大きく蛇行したルート取りやループ区間、いくつかのトンネルを設置することで、二車線確保と勾配緩和がなされていますが、地形的な制約もあり急坂の完全解消までには至りませんでした

このバイパス区間の旧道、現在は事実上廃道となっていますが、おそらく廃道となってからまだ20年程度しか経過しておらず、廃道としてはまだ現役時代の風味が残る部類になるかと思います。実際、この旧道がまだ現役国道だった頃に自分の車で通行したことも何度かあります。

さて、やって来たのは阿南町新野の大村池の横にある駐車帯。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

駐車帯から国道を飯田方面へと歩いていくと旧道の分岐点が現れます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ゴミの不法投棄防止のため、旧道の出入口にはチェーンが掛けられています。そのために現在は車が通行することが無いようで、路面には落ち葉や苔が広がっています。


橋が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋の親柱に取り付けられている銘板を見てみると、「くつかけばし」とあります。


橋の竣工は昭和39年(1964年)3月です。


漢字名は「沓掛橋」です。


この流れだと、最後の銘板には河川名が表記されているのかと思ったら、道路の路線名が表記されていました。しかも「二級国道飯田豊橋線」。まだ国道に一級・二級と等級があった時代の国道151号の路線名で、これは珍しいですね。


ブラインドとなる右カーブ。車同士を安全に対向させるためか、随分と幅広になっています。


「右方屈曲あり」の警戒標識。


「すべりやすい」の警戒標識がひっくり返っています。


長野県飯田建設事務所自作の速度制限の標識。


「巾員狭い」の標識を流用しています。ちなみにこの「巾員狭い」標識は長野県オリジナルの警戒標識だそうです。


速度制限の標識の裏側には「左方屈曲あり」の警戒標識。


切り通しが現れました。擁壁全体が苔むしています。


擁壁上のフェンスに取り付けられていた「重要電話線あり」の標識。「飯田電報電話局」とあるので、電電公社時代のものでしょうか。


切り通しを通り抜けると、道路は小刻みに屈曲して坂を下っていきます。




ふたたび現国道が接近してきました。


石か太い枝の直撃でも受けたのか、標識の頭頂部がへし曲がっています。


ぐにゃっと曲がった標識がありました。


強引に広げてみると「警笛鳴らせ」の規制標識でした。本来は丸形なので、この標識も飯田建設事務所の自作標識と思われます。


見遠(みとお)への分岐点まで来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この分岐点の旧道側は、A型バリケードで封鎖されています。ゴミの不法投棄に相当手を焼いたのでしょう。


しかし、この場所の傍らにはバンパーが捨てられていました…。


旧道は左側の道を直進となります。


見遠への分岐点から程なくして、現国道へと合流しました。


ここからしばらく現国道を歩いていくと、ふたたび旧道への分岐点が現れます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この部分の旧道は、現国道に架かる橋梁の修復工事の迂回路として再整備され、一時的に復活・供用されていました。そのため、舗装や白線が真新しくなっています。


旧道から分岐して、新たに建設された迂回路が現国道へとそのまま真っ直ぐに進んでいます。一方、旧道は右側へと逸れて、坂を下っていきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

現国道の橋梁をくぐります。


この先は2か所のヘアピンカーブと急坂で一気に下っていきます。昔は、トラックでは通行困難なこんな狭い急坂を行き来していたわけです。






現国道へと合流です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

※その2へ続く。
Posted at 2023/07/06 23:38:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年04月27日 イイね!

鳥越隧道・鳥越林道を歩く(2)

2023年4月2日日曜日、三重県熊野市・尾鷲市境にある鳥越隧道とトンネルから尾鷲市賀田町へと続く鳥越林道を歩いてきました。

さて、前回(1)で鳥越隧道を通過。


翌日が月曜日なので、本当はトンネルだけ見て帰ろうかと思っていましたが、トンネルの先に続く廃道の状況を見て、「もう少しだけ進んでみるか。」という気分になってしまいました(笑)。


さっそく路上にはたくさんの石が散らばっています。その中に石列が見て取れ、本来の路肩の位置を示してくれています。


ガスボンベと大型の炊飯器らしき物が転がっています。


コンクリートブロックで造られた小さな小屋。何を入れていたのでしょうか。


広場へと出てきました。パッと見では何か建物があったような雰囲気はありません。




何となく道跡が広場の先へと続いているようには見えるので、そのまま広場の中を通り抜けていきます。


ふたたびはっきりとした道跡になってきました。


この付近でふと頭上を見上げると高い岩壁が見えていました。どうやらこの辺りはかつて採石場だったようです。尾鷲市賀田町は花崗岩の採石が盛んで、実際、このまま鳥越林道を下っていくと、現役の採石場内を通過することになります。


先ほど見たガスボンベやコンクリートブロック積みの小屋も、採石場が稼働していた頃の遺物かもしれません。

路肩に石組みの擁壁が現れました。険しい地形に開削された林道なので、この先もどんどん現れてくるでしょう。


巨木が廃道を塞ぐように倒れ込んでいます。樹皮がすっかり剝けてしまっているので、ずいぶん前に倒れたようです。


鳥越林道の建設は、飛鳥村小又~賀田港間にトラックが通行することができる道路を新たに開削することが目的でした。そのため、当初から道幅は3.7mで設計されており、明治期車道に比べると道幅にゆとりがあります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

同じく尾鷲市の南部にある矢ノ川峠の昭和道・明治道を歩いた時も似たような光景でしたが、とにかく路上への落石が多いです。表土が薄くて、すぐに岩肌が剥き出しになってしまう箇所が多いからでしょう。










高さ5mほどに積もった崩土の上を越えていきます。路面が崩落しているよりは、盛り土になっている方が状況としてはずっと良いですね。




廃道だから当然ですが、落石や倒木が次から次へと現れます。全く管理されていない林道ですから、まさに荒れるに任せる状態なわけですが、この程度なら廃道気分を満喫するにはちょうど良い感じです(笑)。












曲線を描いて奥へと連なる石垣。


路面の山側にもわざわざ石を列状に埋め込んであります。矢ノ川峠明治道でも見かけますが、尾鷲市周辺での古い時代の道路建設の特徴なのでしょうか。


珍しくきれいな路上。


先程も出てきましたが、廃道を歩いていて曲線の石垣を見るとつい「絵になるなぁ。」と思ってしまうんですよね(笑)。




また荒れた場所を通過していきます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この廃道を木材や物資を満載したトラックが往来していたとは、今見る限りでは想像もできません。




前方が明るくなってきました。


廃道が川を渡って、谷の反対側の斜面へと折り返していく場所まで来ました。谷川を塞ぐように設置されている砂防ダムには、大量の土石が積もっています。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここで引き返そうかと思いましたが、もう少し先でまた川を渡るようなので、そこまで進むことにします。


小さな橋が現れました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋には、小さな親柱と背の低い高欄が設けられています。親柱には何も記されていないので、橋名はわかりません。


「もうそろそろ切り上げて帰らないと、東名阪道で渋滞に巻き込まれるなぁ。」と頭の中で考えていますが、どうしても帰ることができません(笑)。


「あっ!石造の暗渠だ!」。コンクリート造りが普及してきている昭和戦前期に建設された林道(しかも三重県が建設。)なので、こういうものは全然期待していなかった分、小躍りしてます(笑)。


しっかり撮影しておきます(笑)。






予想外の「獲物」を収穫してようやく踏ん切りがついたので、これにて引き返すことにします。少しだけ進むつもりが、結局、トンネルから1時間20分も歩いてしまいました(笑)。


三重県道70号まで続いている鳥越林道の内、歩いた距離は4分の1くらいでしょうか。メインディッシュは鳥越隧道だったので、日を改めて続きを探索するかどうかは微妙ですね…。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

岩壁の切り取り工に残っていた発破の跡。


帰り道は足早に戻っていきます。




鳥越隧道の賀田側坑門まで戻りました。


このトンネル、内部は一直線ですが、反対側の坑口からの光は見えません。いわゆる「拝み勾配」(トンネル内部に「へ」の字形の勾配が付けられている。)となっているためです。


唐突ですが、「鳥越林道・鳥越林道を歩く(1)」をアップした後、ネット検索で「縣營林隧道工事に就て」(日本林學會誌 第十八巻 第三號 昭和10年(1935年)4月8日受理)という論文を見つけ、これが鳥越隧道の工事概要を記していました。

この論文によると、トンネル内には賀田側坑口から232mは30分の1(3.3%)、小又側坑口から200mは200分の1(0.5%)の勾配が付けられているそうです。

トンネル内に残っていた発破の跡。


賀田側坑口からの勾配がきつめに設定されているので、写真で見ても上り坂であることが何となくわかるかと思います。




トンネル中央部の拡幅部分へ来ました。


この拡幅部分、開削時点でこのように造られていたのか、後年の工事で拡幅されたものなのかが疑問でしたが、これについても論文に記載があり、開削時点から存在することがわかりました。

論文中、「5.設計変更及び竣工成績」という項目に「本工事は前述の通り工事の進捗に伴い、覆工を著しく減少して差支無い事が判明したので、設計を変更して坑内の中央に待避場(延長30m、路幅6.4m)を新設し、(以下略)」とあります。

小又側の坑口へと戻ってきました。




鳥越隧道は坑口付近のみコンクリート覆工されていますが、当初計画では賀田側坑口からは10m、小又側坑口からは70mを覆工する予定だったものが、「工事実施の結果、東口(賀田側坑口)6m、西口(小又側坑口)15mで十分であると認めたので、設計を変更した。」とあります。これによって多額の経費を節約できたともあります。

トンネル前から浅谷越林道を見ています。最初にグーグルマップで現地確認をした時は、「トンネル前に車を停められそうだな。」と思っていましたが、現地を見て「これだけ段差があると無理だな…。」という訳で、やや離れた路肩へ停めたわけです。


無事に車へと戻ってきました。



最後に鳥越林道の開通後の出来事を列記しておきます。

昭和11年(1936年)3月、飛鳥村・南輪内村両村長は、新宮営林署を通じて大阪営林局へ林道修繕費として木材・木炭の輸送量に応じて交付金を下付されたいと出願(営林署が木材・木炭を賀田港へ輸送する際に鳥越林道を利用するようになったため。)

昭和11年4月3日、鳥越林道の開通祝賀会を南輪内村の賀田小学校で300名余りを招いて開催。

昭和11年10月、飛鳥村からの提案で、鳥越林道を利用する自動車・牛馬車から飛鳥村・南輪内村両村が通行料を徴収開始。利用距離3km以上は木材価格の1%、3km未満は0.5%。ただし、木材が南輪内村着の場合はすべて0.5%。

昭和11年10月、矢ノ川峠の県道改修がなり、輪内~尾鷲間に初めて自動車が通行する。楽器材として使用する木材が、紀勢東線尾鷲駅まで自動車で出荷されるようになる。

昭和19年(1944年)・21年(1946年)の大地震により大損害を受ける。「生活再建整備事業」の補助を受けて、昭和22年度(1947年度)に全線改修。

昭和23年(1948年)5月11日、南輪内村・北輪内村・飛鳥村の各村長連名で、鳥越林道の県道編入を三重県知事へ願い出る。鳥越林道の維持管理に南輪内村と飛鳥村を合わせて毎年約15万円の出費を要しており、村財政を圧迫していたため。

昭和24年(1949年)10月29日、正式に県道移管が認可される。三重県道「南輪内~五郷線」となる。

昭和34年(1959年)7月15日、紀勢本線全通。賀田駅開業。

昭和43年(1968年)4月6日、矢ノ川・弓山・大又の各トンネルを通過する国道42号矢ノ川峠越えの新ルート開通。

昭和44年(1969年)7月1日、国道42号新道と賀田港を連絡する道路が県道中山線となり、県道南輪内~五郷線は鳥越隧道を境に尾鷲市道・熊野市道へ格下げとなる。

ざっくりですが、鳥越林道の歴史は以上となります。

賀田地区での林業の衰退、紀勢本線の全通と賀田駅の開業、国道42号矢ノ川峠越えルートの新ルート開通と県道中山線の接続などの理由により、狭くて急坂で荒れ道で維持費もかかり、地域の中心地である尾鷲市街地へも大回りとなってしまう鳥越林道の存在価値はどんどんどんどんと低下していき、ついに廃道となってしまったわけです。
Posted at 2023/04/27 23:12:08 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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