
昨年末に
MDiさんのブログで紹介されていて、すぐにAmazonで取り寄せた中古本。
(御紹介ありがとうございました!)
■F1グランプリの駆け引き
著:アラン・プロスト、ピエール・フランソワ ルースロ
出版: 二見書房(1991.09)
●趣旨・ターゲット読者層
非常に読みやすい書籍だが、位置づけが独特だ。
いわゆる「ドラテク本」でもなく、「F1の舞台裏(おもにゴシップとか政治的な・・)」「F1取材記」的な本でもなく、「自叙伝」でもない。
まえがきでプロストがこう語っている。
"私は以前から、フォーミュラ・ワンの世界のもっとも深奥で、興味深い部分が知られていないことを、とても残念に思っていた。テレビをはじめマスコミで報道される部分はごく限られたものにすぎない。"
とはじめ、F1中継のみからでは得られない、ドライバーやエンジニアのアレコレ(※プロストには珍しく政治ではない)を紹介したい・・・という内容の旨を書いている。
本著の内容としては実際、目次から各章のタイトルを引用すると、
・F1ドライバーの妙技(いわゆるドラテク)
ブレーキングだとかシフトチェンジだとか、ライン取りだとか。
・マシンセッティング
これもドライバー視点での進め方を「紹介」という印象。当時は予選用タイヤや予選用セッティングができたので、予選用の戦略についても書かれている。
・レースの駆け引き
予選とレースの違いとか、うまいスタートのあり方とか、危険回避とか、オーバーテイクするための駆け引きとか。
・チャンピオンたちの闘い
予選とレースの違いとか、うまいスタートのあり方とか、危険回避とか、オーバーテイクするための駆け引きとか。
・・・といった内容で、実際にスポーツ走行、レースをやっている人間が「参考書」として読むことができる内容ではあるが、基本的に「F1では」が前提となっているので、やっぱりプロストの狙いどうり、
F1をより面白く観戦するための紹介資料という印象。
そういう趣旨、ターゲット読者層なので、とても読み易く書かれていて好印象。
現代は情報にあふれているので、F1はただTV観戦して雑誌を買っているだけの人も少ないと思うが、1991年頃としては貴重な資料だったのではなかろうか?
個人的には、本著の内容が勉強になった部分もあるが、どちらかというと、
・自分がF1に熱狂していたあの頃(ホンダ第二期)の写真がふんだんに使われているので、眺めていてウレシイ。だいたい1985~1990年ぐらいの素材が多い。
↑こんな写真、サイコー。ピケは好きなドライバーではなかったが、この時代の「カウルを外した状態」のF1の見た目が大好きだ。
・1991年当時(セナ・プロのドロドロのピークが1989~1990年)、プロストが何を考えながら、この本を執筆したのか思いを巡らすのが面白い
・・・といった読み方となってしまった。
●ヒール・アンド・トウ
"本来のヒール・アンド・トウ" = ヒール・アンド・トウ時にダブルクラッチを併用。
"亜流のヒール・アンド・トウ" = ヒール・アンド・トウ時にダブルクラッチしない。
と分類されている。
私は今でも、シフトアップもシフトダウンも"本来のヒール・アンド・トゥ"を行っている。
イマドキ、どのドラテク本や動画メディアを観ても、レーシングドライバーも"亜流"しか行っていない。
23年前、1991年(ビートの発売開始年!私のビートの年式でもある)出版の本著ですら
""本来"のヒール・アンド・トウが完璧な動作をするのに対し、"亜流"のヒール・アンド・トウは、いくらか動作を短縮できる。"本来"のクラッチが破損しやすかった時代のテクニックである。今日のレースでは動作を短縮できる"亜流"のヒール・アンド・トウだけで十分であるが、レース中ギアにトラブルが生じ、クラッチをいたわりながら走らなければならないよいなときには、今も"本来"のヒール・アンド・トウが用いられている。"
↑"亜流"によって破損しやすいのはクラッチじゃなくシンクロだと思うのだが・・・。むしろダブルクラッチはクラッチ脱着回数多くなるからシンクロメッシュには優しいがクラッチには過酷と思うのだが・・・・
私は、1993年に免許を取得して、"本来"のヒール・アンド・トウを覚えてからずっとそれで運転しているので、体に染み付いてしまっており、なかなか
"亜流"ができない。
意識して"亜流"を行っても「頭で考えて」の動作なので、ギコチナイ動きとなってしまう。
レガシィ時代も「現代のクルマにも不要」と言われて、"亜流"への転向を図った時期もあったが、「現代のクルマにもダブルクラッチの方が優しいだろうし、それに越したことはない」と考え、結局、"本来"のヒール・アンド・トウを継続してきた。
レガシィからもっと古いビートに乗り換えてからは、"亜流"への転向を考えることすらしなくなっている。
※シフトアップもダブルクラッチ・・・というか、低速ギア→ニュートラルはノークラッチで、ニュートラル→高速ギアはクラッチ、という操作。
シフトダウンは"本来"のヒール・アンド・トウでもそんなにタイムラグはないと考えているが、シフトアップは"亜流"の方が当然速いと思う。
ビートの製造年の「1991年」というのは結構微妙な年代だと思うのだが、やはりビートでも"亜流"に転向・修行するべきなのだろうか?
ビート乗りの皆さんはどうされてますか?
●フラットボトム
"今日のF1マシンは、ボトムがフラットな上に、車高も低く、路面にほとんど接するばかりになっている。小さなバンプを越える度にリアから火花を撒き散らすのもそのためだ。またフロントは1mm単位の車高の調整が、空力に大きな影響を与える"
懐かしい写真だよね。
この頃のF1では、路面との間に火花が散ることが多く、それはそれで観客にとっての興奮材料だった。
特に、1987年のウイリアムズ・ホンダのピケ vs マンセルでは路面から火花を散らしながらのホイール・トゥ・ホイールの接戦が迫力あったなあ。
この後、グラウンドエフェクトのために、車体下により多くの空気を流す方向に空力のあり方が変わったことや、おそらくレギュレーションによる最低地上高規定などで、火花は観られなくなってしまった。
私のビートはサーキットでも速度域が低いため、空力の恩恵は受けにくいが、フロアボトムをどうするべきか?は常々考えている。
いずれヒマができたら、あれこれ試してみたいなあ・・・と。
●オーバーステア好きとアンダーステア好き
現代F1でも、「アロンソやバトンはアンダーステアが好み」だとか「ハミルトンやシューマッハはオーバーステアが好み」とか言われるし、「昨年からいたチームメイトの好みに合わせてセッティングされていたから合わない」的な話も良く目にする。
本著はどちらかというと「アンダーステア」推しだが、高速コーナーで早めにターンインでき、脱出時に早めにスロットルを開けれると同時に立ち上がりのコントロールがしやすいから・・・的な解説がある。
「アンダーステア」推しではあるが、ドライバーの好みや、コーナーの構成にも依ることを説明されており、ゴリ推しでないのが好ましい。
このあたりは結構勉強になった。
↑ちなみに私の好きなベルガーは本著では、コーナー立ち上がり時のオーバーステアの悪い見本として写真が使われている。。。
●ホンダのモーターホーム写真
この頃は日本色全開だったんだなあ・・・と、興味深く写真を拝見。
棚には「カプラー」「チューブ・ラバー」「ROM・ROMライター」とかカタカナでマジックで書いている。
「カプラ」も「チューブ」も「ラバー」も「ライター」も、日本語じゃないんだから、アルファベットで書いたってさして変わらないと思うのだが、あえての「カタカナ」。
PCはエプソン。
もちろんまだフロッピー(しかもたぶん、3.5ではなく5インチ)。
左列の19インチラックの最上段のレコーディング機器っぽいものが何か気になる。
(mistbahnは元々、オーディオ・ビジュアル系システムの仕事をしていたので)
●アイルトン・セナとの関係
この本は1991年9月に初版が発行されている。(フランスでの初版はもう少し早かったかもしれないが)
1989年には鈴鹿のシケインでプロストがセナに対して「扉を閉じて」、チャンピオンを獲得。
1990年には鈴鹿のオープニングラップの1コーナーで、バレストルへの報復としてプロストに対して「扉を閉じて」、チャンピオンを獲得。
この本の初版1991年(この年はプロスト絶不調で、暴言により途中でフェラーリ解雇)は、一般的な認識では、セナ・プロストの犬猿の仲もピークだった時期。
でも、この本では、セナに対する敵意は存在しない。
共著者のピエール・フランソワ ルースロがうまく配慮したのかもしれないが・・・。
なんと裏表紙はセナの写真だ。
↑JPS時代のセナとドゥカルージュ(デザイナー)の写真の下には以下のように書かれている。
"(前略)エレクトロニクスが発達し、コンピュータがこれだけ広範囲で活躍するようになっても、ドライバーが語るコースの印象が依然として貴重な情報であることには変わりない。セナはすべてのコーナー、ポイントにおけるマシンの挙動を恐ろしいほど細かく伝えられる特異な能力をもったドライバーだ"
プロストが執筆している部分で、
"許せないドライバー"という項がある。
"レースで扉を閉じるか否かは、ドライバーがどんな教育を受けてきたかによると、私は思っている。たとえばドライバーが他のすべては順調であるのに、レース途中でギアを失ったり、また周回遅れに邪魔されてペースを上げられない場合には、何度か後続マシンを妨害するのも仕方のないことだと思っている。そういう状況では、扉を閉じるのも許されるだろう。
また勝利に向けて、最後の数ラップを激しく争っているような状況でも同じだ。しかし何人かのドライバーがそうであるように、スタートからゴールまで、たえず扉を閉じっぱなしというのは許せない。他人をブロックしとおしてたとえ勝つことができても、私だったら、そこから何の満足も得られないし、自分自身のプライドを保つこともできないだろう。"
・・・このコメントが、オブラートに包みながら、1990年鈴鹿のセナをDisったモノなのか、そうでないかは、読む人によって捉え方が異なると思うのだが、私個人としては特にセナに向けられたコメントという印象は受けなかった。
訳者(田村修一)はプロスト・ファンらしく、あとがきで、セナをDisっている。
"最大のライバル、アイルトン・セナもプロストから多大な影響を受けたことはよく知られ、それあとくにレース戦術やセッティングの部門で顕著である。確かにこの能力において二人には差があり、数々の素晴らしいマシンを育てあげたプロストとくらべ、セナはどんなマシンでもそれなりに速く走ることができるが、「車を熟成させた」という実績はあまりない。
現在、不調を脱しきれないでいるマクラーレン、その一因がひょっとしてセナにあるのでは、という見方が一部あるのは、まんざら当たっていなくもないような気がする。
プロストはこのセナとの確執のためここ数年、したたかな策謀家としてのイメージが誇張されているが、他のドライバーやチーム関係者からの信望は非常に篤く、「プロフェッサー(教授)」のニックネームは人々が敬意と親愛をこめてつけたものである。"
・・・個人的には、
セナ・プロ問題を避け、セナを模範とすべき一人の偉大なレーシングドライバーとして本著で位置づけた、アラン・プロストとピエール・フランソワ ルースロの配慮が、訳者(田村修一)のあとがきで台無しとなってしまった思いだ。
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