今回は謎かけ編
(回答する気はないですが(笑))
どこまで本当でどこまでフィクションかもボカしておきます。
先日、とある神様の祖神が
こちらだと伺いまして、いって参りました。
葛城一言主、といいます。いちごんさんの方が有名かも。
色々謂れはありますが、割愛します。
その少し前に四天王寺に行く機会がありました。
ダメで元々聞いてみました。一言頭に浮かびます。
梵(凡)と。調べると色々な意味、色々な使い方、
サンスクリット?、おおよそ?、すべて?、梵天、そして平凡、
仏凡一体、あるわあるわ。
凡なること、そして梵なること。
これらを用いた短いお願いをしてみたのでした。
お願いの意味は良くはわからないけど。
その近くに高鴨神社
手を合わすとその意味を、教えてくれました。
嬉しかったので詳しい内容は内緒です。
と言うか、ビックリしたので宿題です。
人生は凡なるかな?はたまた梵なるかな?
ご利益がある、と言いたいわけではなく、
自分が知らないこと以上の事は、
人は知ることは出来ません。
でも、手を合わせることで、
自分の頭にはあるけれど、使い方を知らなかった言葉が
突如繋がったり、浮かんだり。
それは自分には何にも換えがたい、
ご利益ですし、文化財や日本の文化、芸術が好きで
思わず手を合わせるなかで
(信心、ではないのですが)沢山の事に気づかされ
教わってきました。
ちなみに、詳しくは書きません。
だって勿体ないし、
人波に紛れたらわかんなくなるじゃないですか?
でも、拝む人や、寄進する人がたくさんいないと
神社ボロボロになっちゃいます。
そしたらお参り出来ないじゃないですか?(困る)
と言うことで、気に入らないから、といって
やり玉にあげることは
何かを失うことに近づくのかもしれません。
梵と凡はホンの小さな差、
気に入らない何かを凡とし、何かを梵と為した時、
それは梵なるものを凡とすること、
かもしれませんね。
自分がもし、梵を凡に引きずり落としたい
悪意を有していれば、
揚げ足を取って叩く風潮は
ほくそ笑んでしまうのかもしれませんよ。
と言うわけで、神社で体験した不思議な
禅問答の話、でした。
Posted at 2015/01/18 12:05:59 | |
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