不安定ながらどうにかこうにか
やっていますが
(そういう時は他の方への
閲覧数が減るので申し訳ないです)
ちょっと、一息越えたかもしれません。
***
「悔い」や「後悔」は難しいですね。
心の奥に沈めておいても
時折、どうしようもない未練になります。
数十年の時を経て、
原動力になったりもします。
害悪や傷をつける衝動ではないのが
ありがたい事ですけど。
多くの人が記憶を書き換えますが
(自分の一部書き換えていると思いますけど)
でもそれらがないと、人は壊れます。
人は簡単に壊せる時もあり
悪意のお返しに…壊した時もあります。
逆を言えばAIのアルゴリズムは
極めて危険なのは、自明の理、でもあって
人は「バイアス」があるからこそ
それをバランスできるのかもしれません。
************
自分はお金をかけてのギャンブルはしませんが
時折、己を賭けたギャンブルは
仕出かすように思います。
お金ではない何かとか
いわゆる奇跡的な結果を求めすぎたり(汗)
喩えで言えば「二度と渡れない橋」を渡ったりします。
その場では情報が狭まって
「渡れる橋」を渡るわけですが
振り返るとそんなものはない(苦笑)
人の認識は切羽詰まった時に
若干の誤差を生じさせます。
割と渡れているのが怖いくらいで
いいのやら悪いのやら。
**********
さて、助けてくれるのは人だけではなく
その存在は頭でもなく、経験でもなく
心と体で感じられたりもします。
でもそれを証明するのは
認識であり、あるいは記憶であり、
写真であり、そして人になります。
しかしてその証明さえも、大抵の場合は
自分にしか有効ではなく人に説明することは
叶いません。
カリスマ的資質を持つ指導者とやらがいて
大勢の心理に影響した場合のみ、
特定の宗教になるといえるのかもしれません
***********
例えばスピリアチュルとかありますが
あんなもの万能でも何でもなく、
ましてや語り合って何か生まれる物ではありません。
「語り合って何か生まれる」のは
集団意識を利用した集団幻想にすぎません。
端的に言えば『欲望の塊』です。
よってそれらの多くはカルト化していきます。
(力とそのおこぼれを求めるようになるとも言います)
**********
でもそういう物に従いたいのなら
(取急ぎは宗教や神様としておきますが)
誰よりも何よりも現実的でなくてはならなくて
その狭間にこそ道があったりします。
***********
ただ、信ずるものに己を賭けたくなるのは
自分に責任を取る覚悟と器量があれば
可能になることもあります。
信じつつも、最悪の結果に恐懼し
己に重しを載せつつも、
平素を装って責任を取る、
というのは、残念ながら
今の自分には
まだまだ…ちょっと無理でした。
…助けてもらいましたけど。
*******
さて、遠藤周作の「沈黙」で
神様がパードレさんに拷問の中で(踏絵を)
「踏めばいい」という瞬間があります。
あの話ある意味とても日本的な話、だったりします。
西洋の神の考えにそのようなものはありません。
「殉教こそが至高」であり、
「教えの為に人を殺すこと」は善行でもあります。
********
実は、日本の神様は
「心の奥底が変わらなければ」
「(踏み絵を)踏んだって構わない事」
を知っていたりします。それを厭いもしません。
但し西洋では
そんな事をすれば「堕天」します。
パヨクやマスコミも似た様な考えです。
「沈黙」のポイントは
「西洋の神」を信じる人が
「日本の神様」に遭遇してしまって
凄く動揺する話と言えるかもしれません(苦笑)
文化と宗教の違いとはそう言う事で
意外と愛国「堕天論」がはびこっているのを見ると
日本も西洋化が進んでいるのかなと
結構思ったりもするのでした。
考えると、ここ数年
写真家で傍迷惑に三脚で
張っているわけでもなく
すごい景色を見てばかりです。
有り難い事ではあるのですが、
なかなか何も返すこともできず、
己の非才に恥じ入るばかりです。
まだまだ梅の季節ですが
もうじき立春ですので、春先の
写真を中心に載せてみました。
Posted at 2017/01/28 20:11:35 | |
トラックバック(0) |
未来を明るくする為に | 日記