2022年08月28日
最近、シューキョー、ムシューキヨー含め
信仰って難しいものと改めて思います。
と言うのは、
自分も時々聞けたりしますし
まぁそれを信じて、
時にはとんでもなく凄いものや機会を
体験してますが
じゃそれを明かすのかというと、
心にしまうことの方が多いんですよね。
秘するべし、ならともかく
かみしめて、
自分を変えるべきものだからです。
ベラベラと何でもばらす人に
言葉を授けるか?というと
人間だってそんなわけは
ないですよね(笑)
神様にしろ人間にしろ
経験が見えない絆になるから
そこに信頼が
生まれるのではないでしょうか?
とは言っても、
自分の信仰の在り方は
どうも…無宗教なのです。
献金もツボ買いもしないので
宗教法人的には信者とは言えないわけです。
あ、神様的に普通に神社なので
崇敬会的にはリスト外という意味で
管理も集金もできてないので野良なのですよ。
まぁトーイツの神様は
オギューダを支援せよ!とか
ずいぶん具体的な計画をたてるようですけど(笑)
実際、洗脳したらしたで、
逆怨みされないように、
うまく使役しなければならなくて
それはめんどいことです。
ぶれてる患者は、あ、信者は
そこら辺意外と浮気性なことも多いです。
天秤交渉とかもしてきたりね。
ましてやノルマがあるのが信仰なのか?
実は考えるまでもないのです。
生命保険じゃあるまいし。
そして被害者なのかと言うと
良く見ると信者は加害者であり共犯者でもあります。
まぁ家族を絶ちきって新しい家族を作った信者が
新しくできた家族を信じられるかと言えば
問うまでもないでしょう。
結局は服属と献金を
強制されてそこに信仰が成り立っているわけですから
ねずみ講システムを子供たちにも
押し付けるに決まってます。
ま、年金も似たようなものですけど。
そういう意味では、
企業活動、例えば保険会社と
シューキョーは似てなくもないのです。
受取り配当がこの世かあの世かはさておいて
仕組みはなかなか似通ったものもあります。
ただそれ故に、信仰で人を差別は
してはいけません。
出来るのは民事的なもの、配当方法がおかしいとか
一方的な支払いであるとか
そう言うところになります。
例えば、神道の方が違う神を信仰してますから
一部のキリスト教徒には
教義はともかくウリスト(トーイツ)の方が
神道よりもまともなシューキョーかもしれません。
そこら辺を政教分離を叫ぶ
もとトーイツの自称クリスチャンは
ハッキリしません。
ですが、元トーイツの自称クリスチャンの
叫びの方が、一般国民の共感を得ていたりします。
ある意味布教は大成功なのです(苦笑)
ま、でも対抗しても仕方なくて
この人はウリストに共鳴したんだ、と思ったら
少し避けた方がよかったりします(笑)
勿論ウリスト者は
コイツ見込あるニダって時々布教活動に
役立ててます。
まぁパーソナリティとシューキョーには
ある程度相関があるので
ほしい患者像も当然あるわけです。
あ、間違えました。
信者像です。
そういう意味ではニーズと供給なのですが
迷惑にならないように
囲っておいてもらいたいものですが
囲われる側のパーソナリティにも
問題があるので、集団となると
暴走する。
神社で言えば過度なスピリチュアルとか
英霊がー的な暴走とか
そこら辺がシューキョーの抱える
長年の課題なんですよね(苦笑)
(なので法治とのバランスが大事なのです)
Posted at 2022/08/28 10:11:34 | |
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トーイツ | 日記