小沢一郎初公判
2011年10月04日13時32分
小沢一郎氏の初公判が2日後の6日に開かれる。
現在進行形で政局に影響力を維持している政治家が法廷の場に立つのは
田中角栄以来ではないか。
内外から注目が集まっている。私の元にも取材依頼が殺到しており日程を調整するのが一苦労である。
検察審査会が強制起訴力を有してから政治家を起訴するのも初めての裁判である。少し前に山崎拓氏が検察審査会から2度目の不起訴不当を受けたが当時は強制起訴権を有していなかったので起訴とはならなかった。制度変更により小沢氏は刑事被告人となったのである。
我々の調書が不採用となったが判決は推認により有罪となった。小沢裁判にどのような影響を与えるのかは私自身、全く予想できない。
しかし全体の空気が恐ろしい。「小沢が知らないはずがない」という空気である。
私自身も資金管理団体や政治団体を持っているので収支報告書を提出しなければならないがほとんどというか全て秘書任せである。但し、収入の面においては自分自身でお願いをしなければいけないので努力している。
大きな支出が決まったら決定はするが後の事務手続きは任せてある。
市民目線とはどういう目線であろうか。
冷静にそれぞれの立場になって判断してほしいものである。
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要約すると
億は大きな支出ではない。
秘書が財テクOKなのだ。
これが日本だ、文句あっか
民主党らしい清廉な意見ありがとうございます^^
では、小沢先生の政治的な師でもある角さんの話をしましょう!!
私は広義では田中角栄に対しては好意的ですが、
悪い事をしてないかどうかと言われれば、悪い人でしょ。
悪いが善人に何ができるの?
約束を守らない善人(子供手当てつき)=ルーピー
賭けとは失ったり裁かれる覚悟で行って道が開ける事、
田中角栄は金に汚かったから、力を持ったのは当たり前のこと。
力を持ったら無罪になるならアホでしょ。
あいつの方が悪い事してたんだから、俺は人を2人しか殺してない
いいや殺人犯ですよ。
みたいな物
自己愛に満ち溢れた素敵な方ですね^^;
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では功罪半ばする、小沢大先生の師、
田中角栄大先生と柏崎刈羽の話を^^
幾つか抜粋しておきます。
砂丘だってー(笑)
日経ビジネス:
原発立地をめぐる利権と電源三法
田中角栄の中央への反骨から自らの中央化まで
山岡 淳一郎 【プロフィール】 バックナンバー
2011年10月5日(水)
福島県は、戦前の猪苗代湖の水力発電から、戦中には陸軍「二号研究」の原爆開発のためのウラン探鉱(石川町)、戦後復興期の只見川電源開発と「後進県からの脱出」を期して中央に協力してきた。歴代の県知事、なかでも木村守江(1964~76年在職)は、原発誘致に奮闘した。政界、建設・通産両省、双葉海岸に広大な塩田跡地(大熊町)を所有する堤康次郎(西武グループ創業者)らとの人脈を生かし、原発を招き寄せた。堤の土地とその周辺が買収され、福島第一原発は67(昭和42)年に着工されたのだった。
都会しか知らない人は、この経緯をみて、福島県が一方的に中央に懐柔され、取り込まれてきたと思うかもしれない。だが、必ずしもそうではない。
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広大な砂丘が原発用地に変わっていた
かつて、田中が生まれた西山町に隣接する刈羽村から柏崎市の荒浜地区にかけて、広大な砂丘が続いていた。
1965(昭和40)年12月、日韓条約の批准で大荒れに荒れた国会を乗り切った田中幹事長は、お国入りして新潟県庁で記者会見に臨むと、唐突に「自衛隊の施設大隊を地元に誘致する」と発表した。不毛の砂丘に自衛隊の施設を建てて、中央からカネを引っ張る算段のようだった。
その半年後、日刊工業新聞に田中と東京電力の木川田一隆社長が「原発をもってきてはどうか、と話をすすめている」という小さな記事が載った(『泥田の中から 田邊榮作回顧録』)。いつの間にか、砂丘は東電がほしがる原発用地に変わっていた。
それから2カ月後の66年8月、砂丘の一部の52ヘクタールの土地の所有権が北越製紙から田中の腹心に移転される。所有権を得たのは刈羽村村長だった。村長は田中の後援会「越山会」の刈羽郡会長でもあった。
自衛隊誘致の表明、土地の所有権の移転は、出来レースだった可能性が高い。
田中と原子力を結びつけたのは、柏崎に拠点を置く理研ピストンリング(現リケン)の会長・松根宗一だといわれている。松根は愛媛県宇和島市出身で、日本興業銀行を経て理研に入った。理研ピストンリングの会長就任とほぼ同時に東京電力の顧問となっている。原子力産業会議の創設にもかかわっており、大政翼賛会人脈(「原子力の扉はこうして開けられた」参照)ともつながる。電力業界の総本山・電気事業連合会の副会長に選出されている。電力業界の生え抜き以外で副会長に就任したのは松根だけだ。世界のエネルギー事情に詳しい陰の実力者だった。
『原発と地震』(新潟日報社特別取材班著)によれば、田中が用地買収に動き出す3年も前に、松根は柏崎市の市長にこう呼びかけている。
「原子力発電を柏崎で考えませんか」
松根が振付をして、田中が演じる。そんな構図が浮かび上がってくる。
「黒い霧」問題が表面化
砂丘地52ヘクタールの所有権は、目まぐるしく動いた。刈羽村村長が土地を入手して、ひと月もたたない66年9月に田中のファミリー企業「室町産業」に移されている。
「土地ころがし」のパターンだ。
田中は「越山会」や「財政調査会」など五つの政治団体を使って、表の政治献金を集めた。献金額の約半分は土建業界が負担している。公共工事の入札情報を早くつかみたい土建会社は、せっせとカネを運んだ。
その一方で土地の転売を関連会社やダミー会社の間で行い、地価をつり上げて「差益」を稼いだ。それが「黒い霧」として表面化したのが「信濃河川敷買収問題」だった。室町産業は河川敷の広い土地も農民から安く買い取っていた。
66年11月、衆議院予算委員会で「黒い霧」が追及される。河川敷の土地は、公共事業が完成すれば20倍に跳ね上がると野党議員につめ寄られ、田中は道義的責任をとって幹事長を辞めた。
すると砂丘地の所有権は、奇妙に動く。疑惑の温床の室町産業からふたたび刈羽村村長に戻される。「錯誤」を理由に臭いものにふたをするように土地は村長に返されているのだ。
その後、地元の誘致を受けた東電が柏崎刈羽原発の設計計画を発表する。
じっと土地を抱え込んでいた村長は、71年10月、砂丘地を東京電力に売り渡した。売り値は、おおよそ「買い値の26倍」だったといわれる。世界一の規模を誇る柏崎刈羽原発の用地は、こうして東電に渡ったのである。用地売却から30年を経て、田中の「国家老」と呼ばれた本間孝一は、その売却益4億円を東京・目白の田中邸に運んだと告白している。
「昔のことですから、今ごろどうこう言う話ではありませんよ」と……。
田中式錬金術は政界に蔓延した。全国の原発立地で、
ミニ角栄が跳梁跋扈する。
Posted at 2011/10/05 16:09:28 | |
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