■さあ、洞爺丸台風の分析は如何でしたか?
自分は洞爺丸船長も「無理ゲー」の人だと思います。
今回は天気図の落書き(自分が書いてる)を付け足します
文章は「はいじまさん」のこちらのサイト
青函連絡船と津軽海峡から
第5章
を引用します。
いつもの様に
※ちょこばの独り言※です
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青函連絡船各船もこの台風の情報を収集していた。だが、台風は北上するほど勢力が弱まり、新潟付近から東北地方を横断して太平洋に抜けるのが通例である。
台風は反時計回りの渦を巻いている。台風が北へ動くと台風の渦と進行速度の相乗効果により、台風の目の東南側で風浪が激しくなる。逆に台風の目の西側は渦と進行方向が相殺されて、風浪が弱まる。
※その通りです(下図参照)※
台風が太平洋に抜ければ、津軽海峡は台風の目の西側になって大きな被害を与えることは考えられなくなる。稀に日本海を北上する台風もあったが、津軽海峡付近に到達する頃には前線の影響を受けにくくなって速度が上がり、さらに海水温が下がるために台風そのものも勢力を弱まってしまう。そのために津軽海峡は台風で大きな被害を受けた経験は皆無であった。
しかし、「マリー」は今までの台風と少し違っていた。まずは異常な速度である。時速約100キロの猛スピードで九州・中国地方を横断して、速度との相乗効果で台風の東側にあたる四国地方で被害を出した。これは台風としては異常な部類に入る。
※加速と減速の激しさが特徴ですよね※
26日午前9時、台風は米子の沖合の日本海に達し、そのスピードを維持したまま北西に進むと予報された。21時の到達予報圏として、米子沖と岩手県宮古市のはるか南の海上と、稚内の東方海上とを結ぶ三角形が描かれ、
17時頃には宮古から寿都の範囲内に到達すると予報された。その予報圏の中心は津軽海峡の西でも東でもない、ど真ん中である。青函連絡船各船はこの予報に緊張し、気象情報に耳をそばだてた。
※気象庁の予報は、一般的な予報でした
実は洞爺丸船長の予報よりも、気象庁の予報の方が
よほど外れてる事は津波同様無視されてます^^;
もちろん気象庁が悪い訳じゃないんですよ。※
9月26日、いつも通りの朝が津軽海峡に訪れていた。雨は降っていたものの台風はまだはるか南、広島のあたりにあり、まだ気を引く存在ではなかった。なおこの日、「第七青函丸」は函館ドックで、「摩周丸」は神奈川県の浦賀船渠で、それぞれ工事をしており、定期便としての運用には入ってなかった。
6時30分に3便として「洞爺丸」が青森を出港し、8時15分に「羊蹄丸」が函館を出港していた。
「洞爺丸」には25日午後からB組110名の乗組員が乗り組んだ。
ただ、船長はB組船長(専属船長)ではなく予備の船長であった。予備船長とは各船の2人の船長が揃って休日になった場合に乗り組む船長である。いろいろなくせの違う船に乗るために熟練の船長が予備船長として待機することになっており、この船長は無事故を誇るベテランの船長であった。
船員達も普段のB組とは違う内容だった。スポーツの秋である、船員たちの行事として船員対抗の野球大会が計画されていた。この野球大会は船ごとにチームが組まれ、26日の日曜日に洞爺丸チーム対羊蹄丸チームの試合が予定されていた。B組からこの野球大会に選手として参加する船員が、A組と同一役職の船員と交代して、
普段と違う船員編成になっていたという。
※臨時の【ベテラン船長】+普段と違う船員
大川小学校も校長不在でしたよね。
責任者の揺らぎは極限時に、リーダーシップ異常を起こし
決断を遅らせるのかもしれませんね。※
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「洞爺丸」は無線を通じて台風の情報を集めていた。台風の速度は異常に速いため、
この日の夕方には津軽海峡を襲うはずである。「洞爺丸」だけでなくこの日運用されている全部の船がそうであった。連絡船は鉄道との連絡という使命から、ギリギリまで運航を続け、嵐が去ったらすぐに運航を再開しなければならない。そのタイミングを見計らうために、台風や大型低気圧の接近には気象情報は欠かせないものであった。
台風は正午には佐渡島(新潟県)の西の沖合100キロまで進んだと発表された。
暴風圏の半径は約300キロ。台風からはるか離れた東京でも暴風となり、当時の観測史上二番目の記録になった強風が吹き荒れた。
気象台はなおも速度を落とさずに
北海道から東北南部へ向かうと予想した。この時点での予報でも台風の進路予報円は津軽海峡を中心に描かれており
、津軽海峡への直撃も予想された。気象台は東北地方を横断して太平洋へと抜ける予報を捨てていなかった。予報通りなら、台風最接近直後に東~北東~北西と向きを変えながら風が吹くが、台風の進行方向と相殺されて、幾分風が弱まって吹くことになる。
最悪の事態は台風が海峡の西を通ることである。台風の眼の東側に入れば、台風最接近直後に危険域に入り、吹き返しと呼ばれる猛烈な風が南西~西~北西へと向きを変えながら吹くことになる。その風は台風の進行との相乗効果でとてつもない突風になることが多い。ただ日本海側の方が海水温などの関係で台風が弱まることが多いのも事実であった。
※↑間違いです。対馬暖流のせいで台風は弱まりません。※
※実際そうなった訳で、後付だから分かる話。※
青函航路にとって重要な事柄だが、当時の気象観測体制は現在とは格段に違い、日本海には海上の定点観測点がひとつもなかった。よって予報外れが多く、青函航路の船長たちは発表された気圧配置から自分で天候を予測する術を身につけていた。だが、「正午に佐渡島100キロ沖合」というこの観測結果そのものが、既に外れていると判断できる者も誰ひとりとしていなかった。
※↑別に外れてない※
「洞爺丸」と「羊蹄丸」の後を追うように、両港から何隻かの貨物便が出港していた。「洞爺丸」が函館岸壁に着岸する直前の11時、青森から進駐軍専用1201便「石狩丸」が、函館から62便「渡島丸」が出港した。これと前後して海峡は時化模様になった。突如として東から20メートルを超える強風が吹き出したのだ。付近に強い低気圧が現れたときに起きる現象であるが、この時点では台風はまだはるか彼方、新潟沖にも達していない。全く予想外の時化であった。
※物凄図体がでかい台風だった訳です。※
「渡島丸」はこの時化に難儀することになる、動揺は20度を超えて大波にたたき上げられた。
「風速東25メートル、波8、うねり6、動揺22度、進路南東で本船難航中」
「渡島丸」船長の肉声による無線電話が青函連絡船全船に流れた。「難航中」というのは余程のことである。船乗りにとって時化で難儀するのは通常の範囲であり、「難航中」というのはとてもじゃないが航行できない状況にあることをいう、端的にいえばこの無線電話は僚船に欠航を勧めるものであった。
「渡島丸」の後続便になる連絡船が出港の準備を続けており、12時30分に貨物便として「第六青函丸」が出港。続けて13時20分に進駐軍専用便「第十一青函丸」が出港した。「第六青函丸」は函館湾を出たあたり
、「第十一青函丸」は函館山に差し掛かったところで「渡島丸」からの通報を耳にして運航中止を決断、函館に引き返すことになった。双方とも戦時標準船で、時化の中の航行に不安を感じたのだ。
一方、下り便は「石狩丸」の他、31便「日高丸」(青森11時20分出港)が続いており、「石狩丸」の前には10時青森出港の5便「大雪丸」があった。どの船も函館への強行を決意し、そのまま時化の海峡へ突っ込んだ。東風の場合は航路が東よりの上り便より、西に大きく偏った下り便の方が影響が少ないためである。「渡島丸」は難儀していたが、下りの3船はすこし揺られたものの大したことなく海峡を乗り切った。これに青森14時20分出港の53便「十勝丸」が続く。
11時に函館に3便として着岸した「洞爺丸」は4便として14時40分に出港というダイヤであった。14時までに上り便はすべて欠航が決まっていたが、「洞爺丸」は定時出港の予定を変えていなかった。理由は戦時標準船より性能がよいこと、台風の津軽海峡接近時刻は17時頃と予測し、「定時出港」なら「洞爺丸」の性能があれば台風接近までに陸奥湾に逃げ込めるという判断である。
※全くの正解です。さすが「天気図」船長
但し普通の台風、だったなら、ね※
14時8分、函館駅ホームに札幌からの急行「まりも」が入線した。4便への接続列車である。道内各地から本州を目指す人が「洞爺丸」に乗り込む。その中に国鉄北海道総局支配人、札幌・旭川・釧路・青函の各鉄道管理局長という国鉄重役陣がいた。国鉄本社での管理局長会議に出席するためで、青函局長だけは所用のため翌日の便を利用するために別行動し、他の管理局長は「洞爺丸」一等特別室に落ち着いた。
「洞爺丸」の船長が4便出港のため船橋に立ったのは定時出港10分前だった。他の船員たちも出港の準備に走り回っている。しかし、「洞爺丸」の行く手を「第十一青函丸」が塞いでいた。海峡の時化のために函館山まで行って帰ってきたところだった。乗っている進駐軍関係の乗客を「洞爺丸」に移乗させることが決まっていて、「第十一青函丸」着岸まで「洞爺丸」は動けないことになった。船長は台風の接近のことを考えると
、出港を1分でも遅らせたくなかった。定刻の出港予定時刻が過ぎた、「第十一青函丸」は4便定時出港時刻を過ぎた14時48分に着岸した。だが、すぐには出られない、乗客の移乗があるのだ。乗客の移乗が終わって15時、船長の心に焦りが生じていただろう。
乗客の移乗が終わった、タラップも外されて出港準備はすべて整ったはずだった。桟橋から出港可能を示すブザーが鳴らない、船長の焦りがピークに達したとき、桟橋助役が船橋に現れた。「どうしたんだ?」と船長が厳しい口調で聞くと、進駐軍用の荷物車と寝台車を積み込んでいるとの事だった。荷物車は既に可動橋に差し掛かっていた。
「この急いでいるときに荷物車はともかく、寝台車の積み込みはできない。船尾の二等航海士に寝台車積み込みはしないと伝えてくれ」
船長は大声で言ったという。桟橋助役も渋々引き揚げ、桟橋職員に「寝台車積み込み中止」を伝えた。ちょうど荷物車を積み込んだ機関車を切り離したところだったので、中止は楽だった。
「洞爺丸」の係留索が外され、出港の汽笛が鳴った。船首を牽引する補助汽船の準備もできた。しかし、荷物車を積み込んだばかりの可動橋が上がらない。たまりかねて船尾で指揮を取っていた二等航海士が怒鳴った。すると停電で可動橋が動かないと言う。
時計を見ると15時10分、4便定刻を30分過ぎていた。その間に台風は50キロも海峡に接近し、「洞爺丸」が陸奥湾に逃げ込めるかどうか微妙な時刻になっている。停電が長引くならここで台風をやり過ごした方が良い。
「出港準備解除、本船はテケミする。」
船長が静かに言った。テケミとは「天候警戒運航見合わせ」の頭文字を取ったものである。テケミの指示が船内から桟橋へと広がった頃、可動橋は音をたてて上がった。この日、函館市内は断続的な停電に見舞われ、この停電もそのひとつで僅か2分で復旧したのだ。結果的にはこの2分が「洞爺丸」の運命を決めた。可動橋が上がっても、テケミの指示は取り消されることがなかった。
そして、船長の予想どおり、函館は昼だというのに薄暗くなり、強い雨を伴った東からの強風が吹き荒れた。
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15時現在の台風の観測結果が発表された。青森県の西方沖100キロの海上にあり、
中心示度は968ミリバール。依然として北東へ時速100キロで進行中。17時頃に北海道南部に上陸して深夜までに北海道を横断するという予報であった。
予報が海峡から少し西にずれた。予報円の東端を通っても函館直撃で、海峡の東へ抜ける見込みはなくなった。
※この時点では台風は減速していません、船長の読み通り
自前の天気図(気象通報)を見ながら予想進路を書いてたんじゃないかと
想像してます。※

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函館の混雑
函館港内は複雑な状況になった。まもなく5便「大雪丸」が函館港内に到着する予定である。函館駅の岸壁はふたつ、第一岸壁に「洞爺丸」、第二岸壁に「第十一青函丸」が着岸のままテケミとなっている。本来なら「洞爺丸」が4便として出港して入れ替わり第一岸壁に「大雪丸」が着岸して夕方に6便として折り返しの予定であった。さらに第二岸壁も「第十一青函丸」がいなければそのまま「石狩丸」が着岸の予定である
。ところが両岸壁がテケミ船で埋まったため、「大雪丸」「石狩丸」ともに着岸すべき岸壁がなくて、沖で錨を降ろして停泊するしかなかった。「大雪丸」には一般旅客が、「石狩丸」には進駐軍旅客がいる、このまま沖でテケミさせる訳にはいかない。本来なら「洞爺丸」の乗客を降ろして沖に出すべきだが、「洞爺丸」は天候回復後すぐに出港の予定でいる上、千人近い旅客が乗っているので混乱を避けるためにも岸壁から動かせない状況だった。
そこで、「第十一青函丸」を沖に出し、まず5便「大雪丸」が第二岸壁に着岸して旅客と貨車を降ろし、すぐに「大雪丸」を沖に出して「石狩丸」を第二岸壁につけてそのまま着岸テケミとした。貨物便で客がおらず、函館(貨物専用の有川桟橋)へ向かっている貨物便の「日高丸」「十勝丸」は沖でテケミとすることになる。
15時17分、94便として「北見丸」が函館を出港、港外に出たところでそのまま錨を入れてテケミとなった。前後して5便「大雪丸」が函館港外に到着、続いて「石狩丸」が港外に到着した。その数十分後には「日高丸」も函館港外に到着、「日高丸」は港外で岸壁が空くのを待っている「石狩丸」を追い抜いて、16時半に港内の安全な場所に錨を入れて停泊した。
ますます風は強くなり、港内は避難船や停泊船で混乱が始まっていた。港内では約8000トンの死船となった貨物船「アーネスト」がブイに固定していた係留索が切れて漂流し始めた。この船はイタリア船籍で、メキシコから石炭を積んで室蘭へ向かう途中に室蘭港外で座礁事故を起こし、修理のために函館に来ていた。船主は廃船を決めて鉄屑としての買い主を捜すため、函館港内のブイに繋いで停泊させていた。船員は8人のみで、機関に火を入れることすらできなかった。この自分の意志では動けない大船が風で勝手に動き出したのである。停泊船は機関を暖めてはいたが、避難船がひしめくなか動くことができない。タグボートの出動を依頼する無線が飛び交った。その中で第二岸壁では「第十一青函丸」と「大雪丸」の入れ替えが行われていた。
「洞爺丸」の船内には千人近い乗客がそのまま残っていた。港外からのうねりがとどくたびに「洞爺丸」は大きく揺れて岸壁に船体を擦った。船酔いする客も出て下船を主張する客もいたが、給士(ボーイ)は乗客が降りることを認めなかった。
それでも業を煮やした乗客の何人かが、桟橋職員用のタラップや船尾の可動橋から勝手に下船していった。乗船名簿に名前を残しながら下船した乗客は60人にも及んだ。この後の地獄から逃れた幸運な人たちである。
その頃、青森港では16時20分に「渡島丸」が到着、そのまま着岸テケミとなった。隣の桟橋では「羊蹄丸」が9便として定時の16時半に出港するかどうかで悩んでいた。
青森では風はそれ程でもなく、雨も降っていなかった。だが気圧が下がり続けて981ミリバールを示し、台風の接近を示していた。しかし、風は出港時刻が近付くに連れて弱まる一方で、16時すぎには殆ど吹いてなかった。「羊蹄丸」船長が首を傾げると、外が明るくなった。見ると青空が広がって風が止まっている。誰もが「台風の眼」だと直感した。ただそれまでの台風情報に比べると気圧が高い、それは他の台風と同様、津軽海峡に達するまでに衰弱したと誰もが想像した。今出れば台風を追いかけることになるから、船長は台風通過後の吹き返しを見極めるまではテケミと決意した。300キロの暴風圏を持つ台風が時速100キロで動いているという情報から、暴風圏が去るまでの3時間だけ海峡の様子を見極めてから出港させることにしたのだ。
※青森の疑似眼通過は16時過ぎだった訳です。
データ上も合致しますよね。(疑似眼は青森にあります)

船長たちは「気象庁が現在位置を外した」
そう思った可能性が高いと思います。※
函館港でも「洞爺丸」の船長が気圧計と睨めっこをしていた。台風がいつ、何処を通過するのか、それを見極めようとしていた。雨はますます強くなり、バケツをひっくり返したような勢いである。17時13分、旭川から急行「あかしや」が大雨をついて到着。本来は後続の6便の接続列車であるが、席に余裕がある限り急ぎの旅客を4便に乗せることになった。桟橋では「あかしや」から降りてきた客に等級ごとの番号札が配られ、空席数を調べて先着順に「洞爺丸」に新たな客を乗せた。「洞爺丸」の船内はほぼ満席となった。
その頃、船長はある変化に気づいた。気圧が982.8ミリバールで底を打って上がり始めたのだ。船長は信じがたいものを見た気持ちに襲われただろう。だが17時に函館付近通過という予報を思い出し、台風の中心が最接近したと判断した。気圧が高いのだからかなり離れた処を台風が通過したと最初は判断しただろう。観測結果から推測すると台風は海峡の西にあり、これから南から西へ向きを変えながら吹き返しがあるはずだ。しかし、船は台風の進行方向と逆に向かうのだから、後は吹き返しの風向きと様子を判断すればすぐ出港できる。そう考えた。
※皮肉にも青函の気圧の比較と台風の眼の認識が
「津軽海峡」での台風の眼を予測させてしまいます。
洞爺丸と青森側のやり取りが、さらなる誤解を招いた訳ですよね…

実際に通過したのは疑似眼が青森上空を経て
函館上空を通過した訳です。
疑似眼の青森上級通過はほとんど触れられていないんですよね。

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急に外が明るくなった。船長は驚いて外を見た。雨が止んで青空が広がっていたのだ。雲は茜色に染まり、綺麗な夕焼けを彩った。東の空には虹が出ていたのではないかと思う。
台風の眼だ…誰もがそう思った。船長もその判断に自信があった。
ただ気圧が思ったより高いのが気になったが、船長は他の台風と同様、北上するに連れて衰弱したと考えた。どうってことのない低気圧に台風が変わってしまった、そう思ったに違いない。足の速さは衰弱しても変わっていないようだから、吹き返しを見定めるのに1時間、あとは出ても台風の進行方向と逆へ向かうのだから、風浪はすぐ弱まるはずである。船長は一等航海士を船長室に呼びだし、静かに告げた。
「遅れ4便として18時半に出港する。18時スタンバイ。」
「遅れ4便として18時スタンバイ、了解しました。」
一等航海士が復唱し、「洞爺丸」の18時半出港は決定した。
※この認識は正しいんです。
どうってことのない低気圧≒疑似眼が通過した訳で…
16時における疑似眼の青森通過
17時における疑似眼の函館通過

コレは距離的にも
つじつまが綺麗に合いますし、気象庁の情報と組み合わせても
おかしくないんです。

ポイントは青森の疑似眼ではないかと思います。
後は下り(台風と同じ方向)か上り(台風に向かって動く)
の違いですよね。函館に滞留してしまった
連絡船達…。ダイヤを考えれば、青森の羊蹄丸は
港が余ってますが、函館側は一杯です。
猛走峠さんの推測通り、列車ホテルならぬ連絡船ホテル
として、人を降ろせなかった…
それはあるんじゃないのかなあ…
※