「異様な反日」を生む「絶望的な恐中」
読者からの質問に答えて(3)
鈴置さんのコラムが更新されてました。
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■原子力は日本固有の技術ではありません
ですから…
どうしても地政学や、その先と言うか原子力爆弾の
応用が原発な訳ですから(発想的にはね)
そういう国、特に頭おかしい系の国には
関連してきます。
■そうすると変に絡む訳のわからん輩が湧くんですよね。
キャプチャーしたのでも並べて差し上げようか
と思いましたが、同レベルも嫌だなあと
思うのでとりあえずやめときました。
(もちろん、今回は特定人物の話じゃないですよ)。
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その…「丁卯胡乱と丙子胡乱」ついでだから再掲してみました。
2012年06月06日
【お隣の国は日本だけが蹂躙した、の嘘】丁卯胡乱と丙子胡乱【タイや沖縄より臣下だね】 ■そう言えば、秀吉の朝鮮侵攻、確かに大変でしたね。
(ちなみにこの時、朝鮮にはトウガラシが伝わったようです)
そしてそのあと日韓併合まで朝鮮半島は平和で
日本にまた蹂躙されましたと思いこんでる
日本人は多くありませんか?
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■そこで歴史のお勉強をしてみたいと思います^^
丁卯胡乱と丙子胡乱
ありゃ?大変ですね(棒)
で、重要なのは…
略奪に奴隷連行(50万人)
どこよりも多い朝貢回数^^
あれれ、全部日本のせいになっちゃってるぞ^^
まっさかねー。
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■つまり中国様の従属関係は、
まずは朝鮮半島、そして琉球王国
(ちなみに朝貢するともうかる)
あれ、じゃあ中国が琉球は中国の物=タイもベトナムも中国の物??
じゃあまずお隣の国から差し上げます^^
でいいのか?
マスコミ様が強調する従属関係
しっかり順位を並べましょ。^^
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■マスコミ様が触れない歴史です。
× 朝鮮侵攻_(秀吉)→平和→日清戦争→日韓併合
折角韓流ブームの今
丁卯胡乱と丙子胡乱
の悲恋物語をするなら見ちゃうなあ^^
もちろん…伊万里焼も薩摩焼も秀吉時代の強制連行なのですが^^;
お隣の国が中国様(になる前の清)に50万人も奴隷連行されている
この悲劇はぜひ知っておきたいですね!!
そして沖縄なんかよりもずっと、ずっと
中国に対してまるで国土の一部の様にふるまってきた歴史も
重要かもしれませんね。
■
あ、次の大河ドラマにどうでしょうね。
お隣の国の「しられざる」苦労を知れば、
きっと両国の理解が深まるかもしれませんね
…何で知られざるなのかが問題ですけどね(ボソッ)
そして平和主義は大事ですねー。
200年にわたる平和はと3000人/年の美女献上と
冊封によって守られたのでした(わーい)
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■日韓併合を正当化する気はサラサラないのですが
(結果的には大きな過ちと言えるでしょう、今を見ると)
イメージ変わりませんか?
日本だけが悪くて養わなきゃいけない
という思い込みは無駄で、対等にかつての清の冊封国と
色々攻め込まれて大変だったねえという、
事を考えればいいんですけど
謝罪と賠償を要求するのは日本だけ?
しかもそれに嬉々とする民主党?
マスコミ様の自由な報道は
素晴らしいですね^^
いっそオープンに朝鮮半島の歴史でも
簡単に学ばせりゃいいのに
平和を守る事の大事さと、
守れず敗れた時の
教訓を学べばいいと思います。
>受降壇の最上段に座るホンタイジに向かって
最下壇から三跪九叩頭の礼による臣下の礼を行い
平和の為ならいいんでしょ^^;
こうならない為に外交と平和が大事なのであって
最下壇から三跪九叩頭の礼による臣下の礼による平和って何よ^^;
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■
善悪はともかく過度に罪の意識を持つ必要はなくて
国際法に乗っ取って付き合っていけばいいだけと
言いたい今回のエントリーでした。
ちなみに、条約や法律に関わらず、
被害者は忘れませんので
そこを割り引いて付合いましょうね。
■お隣の国は立派な歴史と「恨」の心を持つ
尊敬すべき国家です。
馬鹿にするなんてとんでもない。
日本が知らなきゃいけない冊封国の歴史を持つ
見下したりする事は厳禁の、
歴史の先輩です。
何より琉球は中国の物だと嘯く事への
反証も持ってらっしゃいます^^
手下でも格下国でもなく、
れっきとした地政学的敵国です^^
海峡の平和と国土の保全を程よい距離で保つ事は
馬鹿鳩「新時代」等に惑わされず
必要だと思います。
もちろん色んな意味でのスパイ対策もね…
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丁卯胡乱
丁卯胡乱(ていぼうこらん)とは、1627年に後金のホンタイジ(太宗)が李氏朝鮮に侵攻した事件の朝鮮での呼び名である。中国では丁卯之役という。また、この戦いに続いて1636年には丙子胡乱が起こっている。
背景 [編集]
李氏朝鮮は1619年のサルフの戦いで1万人の援軍を明に送ったが、李氏朝鮮の将軍であった姜弘立は後金のヌルハチに降伏した。姜弘立は、「李氏朝鮮は後金に対して戦う意志は無く、明の強制的な要請によって援軍を送ったのだ」と弁明し、ヌルハチもヌルハチの子であったダイシャンも朝鮮への侵攻には興味を持っていなかったので、後金はヌルハチの死まで朝鮮へ侵攻することはなかった。
ところが、李氏朝鮮で1623年に西人派のクーデターが起こり、それまで明と後金の両者に対し中立的な外交政策をとっていた光海君が廃位されて、仁祖が即位した(仁祖反正)。西人派は後金との交易を停止するなど反後金親明的な政策を取り、後金をひどくいらだたせるようになる。また明の遊撃部隊の指揮官であった毛文龍(ko:모문룡)が、朝鮮半島において後金に対しゲリラ的な戦闘を行うようになった。
最初の後金による侵攻のきっかけは、1624年の仁祖に対する李适(りかつ、イクァル)の反乱による。李适は前年のクーデターの首謀者の1人であったが、その論功行賞に不満を持ち、平安道で反乱を起こした。この反乱はすぐ鎮圧されたが、後金に逃げ込んだ反逆者の一部が、ホンタイジに李氏朝鮮を攻めるよう進言した。
戦争 [編集]
1627年、ホンタイジ(太宗)はアミン(阿敏)、ジルガラン(済爾哈朗)、アジゲ(阿済格)、ヨト(岳託)、ショト(碩託)らの率いる3万の軍勢を、姜弘立ら朝鮮人の同行の下に朝鮮半島に送った。李氏朝鮮軍は後金軍に対して何の備えもしておらず、文禄・慶長の役による被害からも立ち直っていなかった。後金軍は李氏朝鮮領内に侵攻し、その途上で毛文龍の軍も破ったが、毛文龍を捕らえることは出来なかった。後金軍がついに漢城に到達すると、仁祖は江華島に逃亡した。
こうした状況で、後金は李氏朝鮮に和平交渉を申し入れてきた。ホンタイジが、自国の防衛が手薄になることを気にかけていたのが要因と考えられている。李氏朝鮮側では反後金派による抗戦論もあったが、結局この和議はすぐに受け入れられた。
以下の声明は、江華島で合意された内容である。
後金を兄、朝鮮を弟とする兄弟国としての盟約であること。
李氏朝鮮は明の年号「天啓」を使わないこと。
李氏朝鮮は李氏朝鮮の王子の代わりに、王族の李玖(イグ)を人質として差し出すこと。
後金と李氏朝鮮は、今後互いの領土を侵害しないこと。
この交渉中、ホンタイジがアミンに和議の署名をするよう命じる前に、アミンの軍は平壌で数日間略奪を行っている。この和議は後金にとって有利な内容であり、侵攻開始から4ヶ月で後金軍は瀋陽に撤退した。
戦後 [編集]
戦後の交渉は双方の国で進められた。後金は明との長期の戦闘によって経済的に疲弊しており、李氏朝鮮に対して国境付近の義州と会寧に市場を開くことを要求した。李氏朝鮮はワルカ部の女真を後金に返還した。
このように、後金は李氏朝鮮に対して一方的に自国が有利になるような要求を押しつけたので、両者の関係は良いものにはならなかった。丁卯胡乱は、李氏朝鮮にとって9年後の丙子胡乱ほど壊滅的なものではなかったが、「文禄・慶長の役で支援をしてくれた明を無下にするような和議を後金と結んだことは裏切り行為である」という非難の声が、当時の儒学者や儒教派の政治家から挙がった。
こうした感情は、1636年にホンタイジが皇帝に即位したことを認めるように要求してきた際に噴出する。この時、反後金派で占められていた李氏朝鮮政権はこの要求を断り、それによって同年の丙子胡乱を引き起こすことになるのである。
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■
丙子胡乱
丙子胡乱(へいしこらん)とは、1636年 - 1637年に清が李氏朝鮮(朝鮮)に侵入し、朝鮮を制圧した戦いの朝鮮での呼び名である。中国では丙子之役と呼ばれている。朝鮮の呼称にある胡の字は、漢族が北部や西部の異民族への蔑称として用いていたものであり、胡乱は北西部の蛮族(女真)が乱を起こしたという意味になる。
背景 [編集]
17世紀はじめ、中国全土を支配していた明が衰えを見せ、それに変わり後金が台頭してきた。1627年、後金は反後金親明的な政策をとっていた朝鮮に侵入し(丁卯胡乱)、後金を兄、朝鮮を弟とすることなどを定めた和議を結んだ。
1636年、後金のホンタイジ(皇太極、太宗)は皇帝に即位し、国号を清と改め、朝鮮に対して臣従するよう要求した。しかし朝鮮の朝廷では斥和論(主戦論)が大勢を占めたため、仁祖は要求を拒絶し、清と戦う準備に入った。清は朝鮮が謝罪しなければ攻撃すると脅したが朝鮮はこれを黙殺した。これに激怒したホンタイジは朝鮮侵攻を決意する。
経緯 [編集]
1636年12月2日、ホンタイジは自ら10万の兵力を率いて首都盛京(瀋陽)を発ち、9日には鴨緑江を渡って朝鮮に侵入した。義州府尹の林慶業は白馬山城を固めて清軍に備えたが、清軍はこれを避けて漢城に向けて進撃した。13日、朝鮮の朝廷は清軍侵入の事実を知ったが、14日には清軍がすでに開城を通過していた。朝鮮朝廷は急遽漢城と江華島の守備を固め、宗室を江華島に避難させた。14日夜には仁祖も江華島へ逃れようとするが清軍に道をふさがれ、やむなく1万3000人の将兵と共に南漢山城に逃れたが城を包囲され、40日余りの篭城の末に降伏、和議が結ばれた(三田渡の盟約)。
1637年1月30日、仁祖は城を出て、漢江南岸の三田渡にある清軍陣営に出向き、清に対する降伏の礼を行わされた。仁祖は朝鮮王の正服から平民の着る粗末な衣服に着替え、受降壇の最上段に座るホンタイジに向かって最下壇から三跪九叩頭の礼による臣下の礼を行い、許しを乞うたという。
和議の内容 [編集]
ホンタイジに三跪九叩頭する仁祖(銅版)
「三田渡の盟約」を参照
朝鮮は清国に対し、臣としての礼を尽くすこと。
朝鮮は明の元号を廃し、明との交易を禁じ、明から送られた誥命と明から与えられた朝鮮王の印璽を清国へ引き渡すこと。
王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること。
清国が明を征服する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること。
内外(清国)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること。
城郭の増築や修理については、清国に事前に承諾を得ること。
清国皇帝の誕生日である聖節・正朔である正月一日・冬至と慶弔の使者は、明との旧例に従って送ること。
清国が鴨緑江の河口にある島を攻撃する時に、兵船五十隻を送ること。
清国からの逃亡者を隠してはいけない。
日本との交流を許すこと。
清国に対して黄金100両・白銀1000両と20余種の物品を毎年上納すること。20余種の物品の具体的には、清国に毎年美女3000名、牛馬各々3000を献上等々
この和議により、李氏朝鮮は清の冊封国[1]となり、清の冊封体制に組み込まれた。
戦後 [編集]
清軍は50万の朝鮮人を捕虜として強制連行し、当時の盛京の奴隷市場で売買した。朝鮮人奴隷は清が他国とした戦争に兵隊として動員され、農業と工事に不足した労動力を補充した。
ホンタイジは、自身の「徳」と仁祖の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満州語・モンゴル語・漢語で石碑に刻ませ、1639年に降伏の地である三田渡に建立させた(大清皇帝功徳碑)。
李氏朝鮮は、この和議により初年度に黄金100両、白銀1000両の他、牛3000頭、馬3000頭など20項目余りの物品を献上したが毎年朝貢品目は減った[2]。また『仁祖実録』によれば和議の10ヵ月後には8歳から12歳の6人の女を送ったり[3]、その翌年には10人の侍女を送った記録がある[4]。
清の冊封体制に組み込まれた朝鮮は清からの勅使派遣を迎え入れるために迎恩門を建て、清からの勅使は1637年から1881年までの244年間に161回におよび、そのたびごとに朝鮮国王は迎恩門に至り、三跪九叩頭の礼により迎えた後、慕華館での接待を余儀なくされた。逆に朝鮮から清への朝貢使(朝鮮燕行使)は500回以上にも及んでおり(当初は毎年4回、1644年以降は年1回)、これは当時の清の冊封を受けていた琉球(2年に1回)、タイ(3年に1回)、ベトナム(4年に1回)などと比べても突出して多いものであった。このような清と朝鮮の冊封関係は、日本と清による日清戦争で日本が勝利し、下関条約で日本が清に李氏朝鮮の独立を認めさせる1895年まで、約250年間続いた[5]。
朝鮮がこの戦いに敗れるまで、歴代の朝鮮王が明朝皇帝に対する臣節を全うしたことを清側は高く評価し、後の康熙帝がこれを賞賛する勅諭を出している[6]。
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■
デマばかりニダ---って叫ぶ輩も
いるかもしれませんが
これは確定している事実でございます。
だって朝貢の記録は双方に残るんだからさ。
しかもどっかの韓国人の被害と違って
後付けじゃなしにね。
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これはあくまで喩え話
人をデマデマ礼を失して言うまでに
もっとデマデマ言わなきゃいけないものが
この世にはあるのですが、
そのデマには触れられたくないニダ-
なんてものがあるのかないのか
半信半疑で調べて見極めていけば
いいんじゃないでしょうかね?
なーんて言うと
中国がどうあれ
日本は悪い事したに違いないニダ
とにかく土下座ニダ
原発はやめるニダ
守るは9条にだ
でもアメリカは嫌いニダ
ちなみに中国にも土下座ニダ
平和が大事ニダ。
でも平和のためなら
何やっちゃってもいいんだニダ。
駄目だろ?って思うんですけどね。
ま、調べろと言うと、
捏造した証拠が正しいに違いないニダ
そういう人がいるって可能性も考えましょうね。
で、都合が悪くなると、私には解りません
しかしこれは間違ってるに違いないから
お前は100%間違いニダ---
お約束?だったりしてね。
(あくまで手法のお話↓)
私は出て行けなんて
火病るつもりはないですけどね。
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■この際ですから、そういう「歴史」を知っておくと
中国が過去の中国と言うのも清≒女真だって分かりますね。
満洲国は、女真の皇帝を仰ぎましたね。
つまりは中華帝国は女真の物で
中国の物じゃなかった、と考えると
日本の戦前の再評価を
中韓が何故恐れるかが
紐とかれてきます。
そもそも『現在につながる』
中華思想とは
女真(異民族)が中国を支配する
原理として想定(アレンジ)されたもので、
そんな古いものじゃないんですよ
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※自分は戦前を高く評価しませんが
人が評価するのはOKです。
価値観は自由であって、それはデマにだ許せないニダって
『ムキになって火病して』叫ぶ理由はどこにもないしね。
あと中華思想は確かに昔からありました。
ただ、女真が中国を支配するに当って
その王朝の正当化を無理やり図ったのが現在の中華思想です。
清の中華思想
3代続けば母屋を乗っ取れる!!!
という既得権思想なんですが(苦笑)
で母屋には支配権があるぞ――――
フジテレビの親会社がニッポン放送だったようなもんですね。
どっかの在日とか言う人達のやり口に似ていると言う噂もあるけど。
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と言う訳で、
「丁卯胡乱と丙子胡乱」
是非周りの人にも勧めてあげて欲しいキーワードです。
この辛い朝貢生活が、彼らの人格を
歪めちゃったのかもしれない、と思うと
日本の立ち位置がちょっと見えてきますよ。
Posted at 2013/11/21 09:20:05 | |
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中韓同盟に備えて | 日記