まったく彼らしいというか、彼だからとも言えるのだが、彼の訃報は、最初に亜米利加からもたらされた。
日産からフェースブックで発表されたのは、ほぼ半日遅れ。
彼の死は、日本の自動車史にとって大きな損失だ。
彼が居なかったら、モーターショウだって、510だって、Z だって、いや、もっと言うなら北米での日産の今、INFINITHIだってなかったかもしれないのだから。
今や世界に冠たる「東京モーターショウ」も、彼が1954年に提唱して企画、そして開催された 「第1回 全日本自動車ショウ」 がきっかけになったモノだ。
日本ではエラク、デザインが不評だった410も、実は北米ではソコソコ売れていたのを、もっと売れるのはこうした方が良い!と本社に直談判して 510 のコンセプト に影響を与えたのも彼だった。
一見すると鋭い直線と平面でデザインされている様だが、それは違う。微妙な曲線とまろやかなエッヂ処理が見るモノの感性に響く510のデザインの神髄だ。
彼は、410の車内から、両手を大きく広げて、両手を広げたらクルマから出てしまう・・・海外では410のサイズでは小さすぎる!と写真を送りつけたのだ!!
これは、当時の日本人ではかなり大柄だった片山だからできたアッピールだった!!
だいたい、北米日産を成功に導いたのも彼の存在が大きい。
北米日産、いや日本車の輸出の礎も彼の功績が大だ。彼が居なかったら今の日本車の姿は無かっただろう。
それまで日本車なんて、安いけど壊れる、性能が悪いと冷淡だった亜米利加での市場で、彼は彼の足で販売店になり得る中古車店を一軒一軒歩いて回り、DATSUNを、まずは置いてもらう事から始め、どんな些細な声も漏らさず日本に伝え、日本からエンヂニアを呼んで、本当の現地の声を聞かせ、日産車の性能やクオリティのUPに努めた。
そんな彼の努力の結晶が、510ブルーバードと、何と言っても Z の登場だった。
安くて高性能。しかも居住性に富む。こうなれば誰が買わないでおこうか?Zは世界一量産されるスポーツカーになった。
510ブルーバードは、コンパクトな車体に、遥か高価なBMWと同じ OHCエンヂン、フロント:マクファーソンストラット、リヤ:セミトレーリングアームの四独を採用したスポーツセダンとしてアメリカ人に熱狂的に受け入れられた。
単純なセダンとでは無く、高性能なスポーツセダンとして、彼らの週末のサーキットのツゥールとして510は愛された。
速いクルマが欲しい・・でもポルシェは高価だし、ブリティシュ・スポーツは居住性が・・・、そんな彼らのフラストレーションを敏感に嗅ぎ取り、何よりも安く、高性能で、普通に走るときには快適という、クローズド・スポーツ・クウペ、「Z」のコンセプト造りにも彼の意見が大いに影響した。
果たせるかな、Z は、それまで北米で主流だったブリティッシュスポーツを駆逐して、一時は販売が追い付かずにプレミアムが付くまでになった。
プアマンズポルシェなんていう陰口も囁かれたが、北米のサーキットでは、Z の姿を見ない日は無いとまで言われる様になった。
Zがブリッシュスポーツやポルシェ、コーヴェットなどを従えてサーキットで暴れた!!Zはアメリカ人の憧れになった
なにより、Zの存在は彼らアメリカのスポーツカーマインドだとも言われる様になった・・・・
一時期は、戦略と言う謀略で「DATSUN」ブランドが消されたり、彼の存在そのものが煙たがれて、消されそうになったが、多くのファンの熱意によってフェニックスの様に Mr.K は蘇ったのだ。
実は十年くらい前に、片山氏と、ブル510の主管であった太田昇氏と昼食を共にする機会があった。くちばしの青い僕のハナシにも真摯に耳を傾けてくれて、答えを返してくれた事は、僕にとって一生の思い出だ。
日産が、Zが、日本車がこれからも彼の意思を汲んで、世界に羽ばたく事が、彼へのはなむけになる筈だ。
晩年は杖を突きながら、愛車に乗って、色々なイヴェントにやって来る姿が目に焼き付いている。
さようなら Mr.K 。
僕たちは、貴方の意思を伝え、日本車の未来を見続けて行きます。
ありがとう。
Posted at 2015/02/22 11:29:39 | |
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