謎のドラッグ・スター
日産はその黎明期から、モータースポーツに感心が高かったと思われる。その初期からDATSUNロードスターを作っていたし、その後のサファリや、国内のGPにおいての活躍を見れば納得がいくだろう。
異様に太いタイヤとコケティッシュな外観がアンマッチ・・。外観に比べて内装は スパルタン そのもの。
私が所有する、日産のモータースポーツの画像で面白いモノが、ここに上げた210型の画像である。
これは、1969年の富士スピードウェイで行われた、サンデーレースのモノで、この210はいきなり表われて、大方の予想に反して、あれよあれよという間に決勝まで進んで優勝したクルマである。
ワークスカーでなく、プライベーターのクルマであった為、エンジンスペック等はまったくの不明で、今だもって謎なクルマの一台である。
(どなたか、この210の詳細をご存知の方がいらっしゃったら、ぜひ情報を頂きたいのだが・・・閑話休題。)
正式に日産のクルマが、国際競技の舞台に打って出たのは、これからさかのぼる 1958年 のオーストラリア一周ラリー(正式には Mobilgas Trial)からであった。
DATSUN は世界で戦えるのだろうか?
まだ国産車のスピードの壁が
「100km/h」 だった頃、日産は自社の車が一体、どの位のレヴェルなのか判りかねていた。
一番そのレヴェルを知る方法として、彼らは大胆にもいきなり国際的なラリーへの参加を考えた。
「どうせ出るなら一番過酷なモノ」と選んだのが、「オーストラリア一周ラリー」であった。
オーストラリア大陸の一周16,000kmを19日掛けて走破するという過酷極まりないラリーが「Mobilgas Trial」だった。
このラリーは、オーストラリア大陸一周16,000kmを、19日掛けて走破するというラリーであった。
そのラリーには、サイドヴァルヴからOHVに変わった当時の最新型のダットサン210と、四人の若武者で出場する事になった。
(実験)難波靖治、(実験)大家義胤、(サーヴィス)三縄米吉、(工場組立)奥山一明 の四人の若武者が挑戦した。
それを実現する為に社内をまとめたのが、当時宣伝課長であった Mr. K こと 片山 豊 であり、若武者の一人が後の NISMO社長 になった 難波靖治 だったのだ。
ラリーの準備は、ほぼ半年前から始められた。まずは、片山が前年度、出場したトヨタに趣き、ラリーの様子やオーストラリアの事情を調べた。
次ぎにクルマであるが、当時はまだチューニングという概念が無く、部品を強化するという手法が取られた。
実際には、出場車用のダットサンの部品は工場で一番デキの良いモノが集められ、さらに熱処理を一段と加えて通常より強度を増すといった事がなされた。
ドライヴァーの訓練は、吉原工場から太平洋側を周り下関へ出て、そこから日本海周りで吉原工場に戻り、さらにそこから太平洋側を回って、青森へ行き、日本海周りで吉原工場へ戻るといったコースを設定して、
富士川での水中走行訓練。まだ社内には、こういったテストコースが無かった
ノン・ストップで二周するという、約8,000kmの訓練を数度行い、さらにスピードに慣れる為に北海道の原野で訓練をした。
ところで、何故この四人が選ばれたのか。それは、日産が絶対の完走を目指したからである。
メンバーをもう一度確認してみると、基本的なドライヴィングは実験の2人、もう2人は、サブのドライヴァーの役目も担うが、クルマが壊れても確実に直せるようにサーヴィスと工場の組立工が選ばれたという事なのだ。
そして過酷な走行テストを終えて、難波たちは未知の国、豪州へと旅立っていった。
豪州へと向かうメンバーへの「激励会」が羽田空港で行われた。
Posted at 2021/10/17 00:04:36 | |
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