どうしてフィンランドなのか!??
ここにブルーバード410の広告がある。
今となっては、世界中に輸出されている日本車だが、昭和30年代では、まだまだ少数派であったし、当の日本人でさえクルマが、多くの国に輸出されている事さえ知らない人が多く居たくらいなのだ。
そんな中で日産は、いち早くグローバルに輸出を始めていた「先駆け」の自負と「実績」がこの広告に表れていたのだ・・・・。
しかし、この広告を見ていて皆さんはひとつ疑問を感じなかっただろうか?
それは輸出先として最初に「フィンランド」が挙げられている事が不自然に感じなかっただろうか?
実は、広告で「フィンランド」がトップに挙げられた大きな理由があったのだ。
国産車がまだ見知らぬ国々で受け入れられる為に、いまの私達が想像できないくらいの血の滲むような努力をしていた事を、私は伝えたいと思うのだ。
「レース」や「ラリー」と言ったフィールド以外でも、かつて国産車は果敢に海外で闘っていた事を今日は皆さんにお伝えしたいと思うのだ。
ジャンプ台を登ったクルマがあれば飛んだクルマもあった!
AUDI は、そのクワトロシステム(AWD)の優秀性をアッピールするためにスキージャンプ台を AUDI100 で駆け上らせた。
もう何年前になるのだろうか、AUDI は、クワトロシステム(フルタイムAWD) の優位性をアッピールするために、AUDI100クワトロ で、スキージャンプ台を駆け登らせた。
傾斜37.5度、フィンランド カイポラのスキージャンプ台をAudi 100CS quattroが昇って行く。当時、結構な衝撃を持って話題になった。
ところが、逆にジャンプ台からクルマをジャンプさせたメーカーがあったのだ。そのメーカーとは、我らが日産であった。
なぜ、日産はクルマを飛ばしたのか!?
昭和30年代から40年代の初頭、日本車はそのフィールドを、北米やアジアのみならず欧州などにも進出を図ろうとしていた。
DATSUN210 からの不断の努力で、専用の輸出船まで造って北米に輸出できるようになっていたが・・・。
しかし、当時の日本は発展途上の敗戦国という認識でしかなく、特にこれからの輸出先として期待される欧州では、老舗のメーカーも多く進出に苦心していた。
特に知名度の低い北欧では、進出のキッカケも掴み辛く苦心していた。
「普通の売り込み方ではダメだ!」
そう判断した日産は、無謀とも思える公開実験を行って、まずは一般のユーザーへのアピールを行う事にしたのだ。
それが、スキーのジャンプ台から 「ブルーバード」 を滑降させるという無謀とも思えるチャレンジであった。
1965年、フィンランドの「アローンヒル」と呼ばれるジャンプ台に一台の 410 が居た。
トランクには、前後のバランスを取る為に「150Kg」のセメントが敷き詰められていた。
ドライヴァーは「ペタージア・ニエミー」氏。
頂上の高さは50mで最大斜度66度という、スキーやスノーボードを経験した事のある人ならお分りだろうと思うが、その斜面から下を見れば、感覚的にほぼ垂直に思えるくらいの急な傾斜である。
頂上の高さは 約50m 。最大傾斜角 66 度 の大ジャンプ台だ。
410はサミットを駆け降り出した!!
最初はゆっくりと、そして30mのジャンプポイントに差し掛かると、猛然とドライヴァーはガスペダルに力を込めた。
「ブルーバード」は叫びにも似たエンジンの雄たけびを上げ地面を離れた!!
ブルーバードは一気に斜面から離陸した。
数秒の無音の「時」が過ぎ、「ブルーバード」は地面に叩きつけられるかの如く、轟音と共に着地した。
猛然を立ち上がる土ぼこりと、飛び散る地上の土と小石混じりの噴煙が立ち上った。
新開発モノコックボディに、想像を絶するストレスが一瞬に加えられた。
その瞬間に「ブルーバード」には、想像を絶するストレスが入力され、さらにバランスを取る為に積まれたセメントが、サスペンションとシャーシに「荷重」という恐怖を与えた。
もうこれでいい・・・誰しもがそう思ったに違いない。
しかし、テストは終わる事無く続けられたのだ。
着地した瞬間から、素早く「ブルーバード」の体勢を立て直し、ドライヴァーはさらに低いギアからエンジンに鞭を打ち続けた!!
時速130Km。
そこから急なステアリング操作によって、激しくクルマを向きを変え続けた。
「突発事故とDATSUNの安全性」・・それがこのテストのタイトルであった。
さすがに、このテストのインパクトは強烈で、そこから一気に、フィンランドでの DATSUN の人気が高まった事は言うまでも無かった。
それまで苦心していた販売も急激に上向きになった。
フィンランドでの日本車・・いや DATSUN の人気は不動のモノになった瞬間でもあった。
軟弱になった今の日産に、これほどまでの熱意と気迫が存在するのだろうか?
無名・・・先人たちは、まさに身を挺してDATSUNの普及に躍起になったのだった。
それはラリーやレースと言った華々しい闘いではなかったが、大きくその後のDATSUNの輸出の礎となったのだった。
その熱意と努力で勝ち得た実績が、先の広告で「フィンランド」が最初に来た内幕であった。
ちなみに・・・
テストに使われた「ブルーバード 410」は、社外の検査機関によって精密にチェックされ驚くべき結果が公表された。
フロントのバンパー下のエプロン部にヘコミは見られたものの、その他のボディは勿論の事、フレームにもダメージは認められず、さらにサスペンション、エンジン等にはまったく
異常が認められなかった というのだ。
410 ブルーバードは、北米とメキシコを中心に世界に挑戦し続けた。
国産初のモノコック・ボディをまとった「ブルーバード 410」は、華麗なピニンファリーナのエクステリに似合わず、生まれつき「タフ」で「快速」の戦士でもあったのだった。
Posted at 2021/09/24 04:39:07 | |
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