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徳小寺 無恒のブログ一覧

2008年04月30日 イイね!

後厄 徳小寺 無恒「川崎大師」に行く

後厄 徳小寺 無恒「川崎大師」に行く




今年も川崎大師へと足を運んでみた。

これまで続けて2年間は、土曜日や日曜日を利用して訪れていたのだが、今年初めて平日を利用して行って見たのだが。。。

厄払 徳小寺 川﨑大師へ行く。。。
https://minkara.carview.co.jp/userid/124785/blog/1221842/

いやぁ・・・平日だとこれほどまで人が居ないものか!?と驚いてしまった。



境内では、近所の小学生と思しき団体が、スケッチ・ブックを持ってスケッチをしていた。去年はと言えば



こんな感じで、結構歩くにも大変だったのだが、今年はまったくゆっくりと廻りの景色を眺めながら参詣できた。

厄除けには、事前の申し込みが必要なのだが、その受付所も、



モノの見事に人が居らず、去年の



人ごみはなんだったのか?と思ってしまった。。。

本道へ向かい、正面でまず賽銭を投げ、ふと賽銭箱の渡し木を見ると



賽銭で投げ入れられる硬貨などで削られたのだろう、表面がささくれ立っていた。
ここでも人々の思いの深さを感じたと言う次第だ。

本堂で一時、説法などを聞き「護摩祈願」を終え、外に出た時こんな看板を見つけた。



徳小寺 無恒、まだまだ修行が足りないと見えて、この一言一言の重みと意味合いが十分に理解できなかった事は内緒だ。

平日の参拝は、まったく初めてだったのだが、お参りという気持ちも大事だが、こうしてゆっくりと歴史的な建造物を見るという事も面白いものだと感じた一日であった。


Posted at 2008/05/02 00:15:08 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日常 | 日記
2008年04月29日 イイね!

図面 設計者から現場への唯一の意思表示だ。

図面 設計者から現場への唯一の意思表示だ。ここに貴重な画像がある。
これはR30のレイアウトを描いた「櫻井眞一郎」自筆の図面と、ツゥール類だ。

細かく見ると手書きながらの、線の揺れと滲みが散見されるが、遠目に見れば現代のCADも恐れおののく緻密性とバランスの気迫が迫ってくる。

「図面は現場への設計者の唯一の意思表示だ」

とは櫻井の言葉である。

単純に正しく寸法に沿った図面を描いても、それが理解できない図面であれば、モノができないし、間違った解釈をして設計者の思いとは違ったモノができてしまう。。。

僕が図面を引き始めた頃、もちろんCADは存在していたが、最初の数ヶ月は一切の定規やシャーペンを使わせてもらえずに「フリーハンド」で図面を描かされていた。

頭に描いた物体の大きさ、寸法を、形状を定規などを使わなくとも図面を描く者の頭に叩き込む為であった。

現代は、すでにCADが主流でフリーハンドでなんて図面を描く事は皆無である。

これがかつては、



特殊な製図用のペンに、インクを吸わせ、力を均等にかけながら用途に合った線や文字数字を、それぞれの決った太さで描く事が、設計する以上に大切な技術者のテクニックだった。

ここでちゃんとした図面が引けなくては、まさにモノができない・・・

いくら数学が得意でも、形をイメージする事が得意でも、それを自らの手で図面と言う世界で表現できなければ、まっとうな技術者とは言われなかった。



これがブルーバードで言えば510の頃になるとCADが入り始めたのだが、それでもまだまだ「手描きの図面」が主流であった。

この頃になると流石にペンを使う事が無くなったが、それでも製図用の鉛筆や、それを削る「芯研器」と呼ばれる製図道具は必需品であった。

そして現代・・・



すべての図面はCAD化され、全ての部品を組み立てた組図を作成すれば、そこからお気軽に部品の部品図、部品図同士の結合図、部品と部品が干渉するかの干渉チェック、果てには現場での組立作業のシュミレーションさえできる様になった。

図面の世界は、ある意味技術者の手を離れ、ドラフターと呼ばれる図面を描く専門の職種の人たちに図面化を委ねるようになった。

ある意味、技術者達の負荷は減ったが、二次元でイメージした物体を3次元にイメージしなおす力量や、全体の部品の相関関係を組み立てる力量が落ちてしまったようにも思える。。。

もはや図面を引いて、実際に組み立てたら、動かなかったとかスティアリングを右に切ったら左に曲がった・・などという、今からみれば信じられないようなミスも無くなったが、モノをクリエイトするという喜びは半減したように思う。。。

もはや技術者は夢をもてない仕事なのか?

櫻井眞一郎の図面を眺めながら、僕は遠くを見つめるのであった。。

Posted at 2008/04/29 13:53:25 | コメント(3) | トラックバック(0) | クルマ | クルマ
2008年04月28日 イイね!

国籍 日産のラリーカーに国籍標は何時から付いたのか?

国籍 日産のラリーカーに国籍標は何時から付いたのか?日産ラリーカーにおける、「海外渡航用ナンバープレート」の謎は解けたが、一方の「国籍マーク」は何時から付いていたのか?という疑問が、前回のブログのコメントで寄せられていた。

そこで再び日産の歴代のラリーカーの画像を遡って確認してみたのだが・・・

まずは「モンテカルロラリー」で果敢にコーナーを攻める240Zの美しいヒップの画像だが、リヤハッチの左側に「Jマーク」を確認する事ができる。

ナンバーは、まだ日産ワークスが活動していた時期なので、日本のナンバーを「海外渡航用」にしたものが使われている。

それではさらに二年ほど遡って、サファリラリーでの510ブルーバードの画像だが、



因みにドライヴァーは「飛ばし屋ジャック」こと「ジャック・シニアモン」。

常にアクティブで、攻めのドライビングは、他を寄せ付けない速さを誇っていたが、その速さゆえに、とんでもないクラッシュをする事も多々あった。



そんな彼がドライビングしてスプラッシュを上げて激走している画像なんだが、リヤの左サイドに、「Jマーク」を見る事ができる。

さてさて、どこまで遡れば・・・と思いつつ画像を漁って行き。。。。遂に日産が初めて国際ラリーに参加した「オーストラリア一周ラリー」に辿り着いた。

このラリーに参加した「DATSUN1000」と言えば



鯉のぼりを上げながらゴールした画像が有名だが、これがフロントから写した画像ばかりで・・・ようやくリヤからの画像を見つけた!



富士号の画像なんだが、リヤの「富士山のイラスト」の左下の「日の丸のイラスト」の下に「Jマーク」を見る事が出来る。

という事で、「海外渡航ナンバー」の切り替えは1965年のDATSUNブルーバード410からで、「国籍マーク」はオーストラリア一周ラリーからと判明したが・・・

Taku_iさんこんなモンで如何でしょうかねぇ?

しかし、この国籍マーク、一体何時頃から貼られるようになったのか?その点は未だに謎で、どなたかご存知であればぜひご教授頂きたいのだが・・・
Posted at 2008/04/28 19:37:29 | コメント(1) | トラックバック(0) | クルマ | クルマ
2008年04月27日 イイね!

表示 海外ラリーカーのナンバープレートってどうなの!?

表示 海外ラリーカーのナンバープレートってどうなの!?ふと歴代のブルーバードのサファリ・マシンの画像を整理していた時、ある事に気付いた。

ラリーマシンのナンバープレートってどうなんだろう・・・

1963年に初めてサファリに挑戦した、「DATSUN ブルーバード310」のフロントには燦然と、日本のナンバープレートがそのまんま装着されていた。
(TOPの画像がそうだ!)

じゃぁ何時くらいから、まぁ「海外渡航用ナンバープレート」に変わったのだろうと、調べると。。。



1964年の410ブルーバードには、まだ国内のナンバーがそのまま付いていて、



1965年のやはり410ブルーバードで、ようやく「海外渡航用ナンバー」が付く様になっていた。

僕の記憶では、1964年に、クルマの所在地を示す表示がそれまで「府県の頭文字等」だったものが、「陸運事務所又は支所等の所在地の名称」を表すようになった改正があった。

その時に、おそらく「海外渡航用ナンバー」も登場したので、1964年の段階では間に合わなかったが、翌1965年からは新しい法令に即したナンバーが出場した・・と推測したのだ。

それから1973年の、ブルーバード610と240Zを最後にして、日産追浜ワークスの活動が終わるまで、「海外渡航用ナンバー」がマシンには付く事になったのだった。

改めて、こうしたサファリを席巻した日産ラリーマシンのナンバーの移り変わりを見るだけでも、色々な時代の出来事が分かり面白いと感じた次第なのだ。。。



Posted at 2008/04/27 12:18:27 | コメント(4) | トラックバック(0) | ブルーバード | クルマ
2008年04月24日 イイね!

追悼 シェカー・メッタを偲ぶ。

追悼 シェカー・メッタを偲ぶ。私とした事が、10日も経ってこんな大切な日を忘れていた事を思い出した。

2006年4月13日パリの病院へ前日緊急入院した「シェカー・メッタ氏」が亡くなった。
若い人たちには、馴染みの無い名前かもしれないが、僕達、日産・・・いやDATSUNのラリーの黄金期を知っている者達には忘れる事の出来ない名前なのだ。

1971年初めてサファリラリーで、DATSUNチームに加入し、240Zラリーでいきなり二位に入賞した兵であった。


(画像中央がメタ氏である。)

TOP画像の様なジャンピングスポットで、ラリーカーとして大きく重い重戦車の「フェアレディ240Zラリー」を飛ばしても、確実にゴールまで導く名ドライヴァーであった。

僕には二人の尊敬するラリー・ドライヴァーが居る。

一人は「ラウノ・アルトーネン」

神業 240Zを華麗に操った男
https://minkara.carview.co.jp/userid/124785/blog/2239184/

恩人 ラウノ・アルトーネンからみた240Z
https://minkara.carview.co.jp/userid/124785/blog/2239190/

240Z、モンテと言えば、もう彼の存在無くして語れない偉大なドライヴァーで、DATSUNのラリーマシンの高速化に絶大なる影響を与えた恩人でもある。

一方の「シェカー・メッタ」と言えば、サファリでのDATSUNの黄金期を築いた恩人と言えるだろう。

1979年から1982年にかけてPA10バイオレットで4連勝し、サファリでの日産、いや日本車の名声を高めた恩人である。

後年彼は、WRC委員長となりラリージャパンの実現に尽力した事は意外に知られていない事実である。

そんな彼が2006年4月12日、パリで倒れ緊急入院したのだが、翌13日多くの願いも虚しく帰らぬ人となったのだ。。

舗装路の多いステージは正直、得意としていなかったが、サファリロードの様な悪路ではめっぽう強く、豪快でありながら繊細・・と言われた神業のドライヴィングは忘れることが出来ない。

日本では余り知られていないが、そんな彼も1973年のモロッコラリーで240Zを大破させリタイアしてしまった事があった。。。



そういえば、同じ1973年のサファリ・ラリーでも総合優勝しながら、パッセンジャーサイドのフロントフェンダーを飛ばしながらのゴールがあった。



1973年は、メタにとって鬼門の年だったのかもしれない。

そんな彼が亡くなって早くも2年と言う月日が過ぎたのだ。

ラリーの日産が斜陽になって何年が経ったのだろうか?

1971年に彗星の様に現われて日産の黄金期を築いた「シェカー・メッタ」に思いを馳せるに付け今の日産の姿に一抹の寂しさを覚えるのは僕だけだろうか・・・

今宵はPA10が活躍した4年間の資料を引っ張り出し、ラリーの日産とメタの活躍を偲びたいと思う。
Posted at 2008/04/26 21:21:51 | コメント(2) | トラックバック(0) | フェアレディ | クルマ

プロフィール

「後視 いやぁこんなに簡単なバックカメラがあったなんて!! http://cvw.jp/b/124785/23876370/
何シテル?   01/04 14:54
無類のクルマ好きで、日産車を愛してやみません。 徳小寺 無恒のHNを引っさげ、かつての愛車、ワインレッド・パール・ツゥートンのU14ブルーバードの話題を軸...

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