昨日に引き続き、ホンダ F1についてです。
第一期は止む無くコンストラクターズとしてF1に参戦したホンダでしたが、第二期はエンジンサプライヤーとして参戦する事になりました。
なお、今回も使用する写真は、
去年の11月28日に Honda Collection Hall の見学に行った時に撮った写真です。
ホンダはF1参戦の前に、まずF2にエンジン供給を開始します。
当時のF2のエンジンは BMWやハートといった直4エンジンでしたが、そこにホンダがV6 2.0ℓエンジンで参入します。
1980年、まずはラルトにエンジンを供給。(ドライバーは ナイジェル・マンセル!)
翌年には早くもチャンピオン(ジェフ・リース)を獲得します。
上の写真は、1984年のラルト RH-6。(ちなみに、ホンダは特定のチームにしかエンジンを供給せず、そして、そのホンダを搭載したマシンしか勝てなくなった為、この年を以てF2カテゴリーが消滅しました)
スピリット 201C(1983年)
F2を消滅に追い込んだ(笑) F2用 V6エンジンをターボ化してF1用のエンジンを製作し、1983年にスピリットのマシンに搭載し、F1参戦を開始します。
なお、スピリットというチームは ホンダの出資によって作られたチームで、ホンダのF1挑戦の為に テスト用のF1シャーシを作ったものの、単にF2をF1のレギュレーションに合わせました的な車でした。
当時のレベルで言っても、空力的に遅れていると言わざるを得ないボディ形状でしたねぇ。
特に、エンジンカウルが無いなんて…、ウィングに当たる空気の流れ乱れるので、今じゃ絶対に有り得ません。(汗)
ウィリアムズ FW09(1984年)
1983年、スピリットのシャーシでF1参戦を開始したホンダでしたが、早々にウィリアムズへのエンジン供給を発表。
ウィリアムズは、早くも 1983年の最終戦には 来季用のFW09にホンダのV6ターボエンジンを搭載して走らせていました。
そして、1984年の第9戦 ダラス市街地で行われたアメリカGPで、ケケ・ロズベルグによって F1復帰後の初勝利を挙げたのでした。
ウィリアムズ FW11(1986年)
FW09でF1復帰後の初勝利を挙げたものの、同時期に登場(1983年シーズン終盤にデビュー)したマクラーレンに搭載されたTAGポルシェ(16戦12勝)に比べると、僅か1勝に終わるなど戦闘力の差は明らかでした。
そんなウィリアムズに1985年から加入したナイジェル・マンセルは、ウィリアムズ・ホンダのマシンに乗るなり「ピーキー過ぎる!」と言ったそうです。
とにかくピークパワーを追ったホンダに対して、ロータスでルノーのターボエンジンを知っていたマンセルの助言が効いたのか、シーズン後半には戦闘力を上げていき、ウィリアムズ側の改良も相まってラスト3戦を3連勝で終えます。
個人的には、「じゃ、ケケはそんなマシンで勝っちゃったのか!?」って思いましたけど。(汗)
そんなケケに替わってネルソン・ピケが加わり、1986年のFW11は16戦中9勝を挙げます。
コンストラクターズポイントでは、2位のマクラーレンの96pointに対し 141pointと圧倒してチャンピオンを獲得しますが、ドライバーズポイントでは、最終戦でプロストに逆転チャンピオンを許しました。
最終戦でマンセルのタイヤがバーストしなければねぇ。
ロータス 99T(1987年)
この年、ロータスにもホンダエンジンが供給される事になりました。
1つはアイルトン・セナがホンダエンジンを望んだから。
1つはホンダが中嶋悟を乗せてくれるチームを求めたから。
しかし、噂では1987年からアイルトン・セナがマクラーレンへ移籍し、ウィリアムズはホンダを失う事からルノーエンジンにチェンジする事になっていたようです。
しかし、最終的に、その決定は翌年までずれ込む事になりました。
さて、1987年には既にホンダは最強エンジンの名を欲しいままにしていました。
ただ、最強マシンはウィリアムズFW11Bであり、FW11Bが16戦9勝したのに対し、ロータス 99Tは セナの腕をもってしても2勝するのがやっとでした。
これは、この年から実戦投入したアクティブサスペンションが技術的に未熟だった所為でした。
当時使用していたCPUの演算能力が足りず、路面からの入力に対してワンテンポ遅れた反応をするため、正しく機能しなかったとも言われています。
前述の通り、翌年にはセナを失うロータスは、最強ホンダエンジンを搭載しながらも、再び低迷期を迎えるのです。
マクラーレン MP4/4(1988年)
ご存じ、16戦15勝を挙げた、歴代F1最強マシンです。
そして、その16戦15勝の戦績をもたらした歴代F1最強エンジンが ホンダ RA168Eです。
もっとも、この年のMP4/4はセナ・プロストというドライバーを含めたパッケージが最強であり、マシン単独なら1992年のウィリアムズFW14Bの方が最強だったと言うのが私の意見ですが……
って言うか、この辺の話になると、既にブログに書いているので、繰り返しになっちゃいます。
なので、この後に続く マクラーレン・ホンダのマシンについては
こちら をご覧ください。
ティレル 020(1991年)
(この写真だけは、ネットから拾いました)
この年、本家ホンダワークスとも言えるマクラーレンに搭載されるエンジンがV12へ移行しましたが、昨年までマクラーレンに搭載されていた V10エンジンがティレルに搭載される事になりました。
まあ、このV10エンジンだって 純然たるホンダワークスなのですが……
ちなみにマクラーレンに搭載された V12の型式が RA121-Eなのに対し、ティレルに搭載された V10は RA101E-SN……、Satoru Nakajima のイニシャルです。
もう、中嶋に有終の美を飾ってもらうために、なりふり構わぬ対応ですねー。
何しろ、エンジンだけならディフェンディング・チャンピオンです。
もしかしたら、新しいV12はものになるまで時間が掛かるかもしれない。
となると、ティレルでも優勝できるかも!?
シーズンが始まる前は結構期待していたのですが……タイヤがピレリではダメでしたねー。
当時のピレリタイヤは高温に弱く、初戦のアメリカGPでは2台揃って入賞(5位、6位)したものの、その後はステファノ・モデナが2回入賞しただけに終わりました。
ホンダのF1 第二期は 1992年を以て撤退となりました。
撤退を決めた理由は、
「初期の目標を達成した」と言うものでした。
えっ、そんな理由で撤退しちゃうの? と当時は思いましたが、当時からF1参戦には巨額の資金が必要としました。(一説には、ホンダが大金を投じて結果を出した事が引き金になったとも言われているけど)
既にホンダが勝つのは当たり前となっていたところに、1992年はウィリアムズに勝てなくなった事で、大金を投じてもイメージアップが図れない、むしろ 負け続けるとイメージダウンにしかならない。
費用対効果を考えると撤退という結論は致し方なかったかもしれません。
しかし、F1という現場から離れた瞬間から技術的に取り残されていくという事を、ホンダは後々 知る事になるのです。