
昨日のブログで、トムスが好きって書きましたが、トヨタも好きだったりします。
ただ、トヨタ車が好きって言うよりも、トヨタという会社が好きって言った方がいいですね。(残念ながら、トヨタ車で欲しいと思った車は殆どありませんが…)
とは言え、現在の豊田章男社長になってからは、車好きの為の車を矢継ぎ早に出す会社にもなりました。
しかし、やはりトヨタの凄さは、その盤石の会社経営にあります。
コロナ禍で世界中の自動車会社が影響を受けた中、2020年度の決算で増益って……
日経ビジネスの記事 『
もはや「異世界転生」レベルのトヨタの決算』 には笑ってしまいましたが、でも もうそのくらいのレベルで有り得ない決算でした。
昨年度のGDPは、リーマンショック時を超える、過去最悪の下げ幅になったらしいですが、もしトヨタが傾いていたら日本はどうなっていたやら。
もう、トヨタが日本を支えていると言ってもいいくらい……っていうか、菅さんに変わって 豊田章男社長に総理になってもらった方がいいんじゃないの?
前置きが長くなりましたが、昨日のブログで トムスのCカーを出した時、トムス(トヨタ)のCカーについてブログに書いてみようかと思いました。
上記でも書きましたが、トヨタ(トムス)が好きだったので、結構 トヨタのルマン挑戦は応援していたんですよね。
それは、ポルシェ・オーナーになってからも、ポルシェvsトヨタで トヨタを応援していたくらいでした。(汗)
そんな、トヨタ(トムス)のル・マン挑戦ストーリーです。
1982年 トムス・童夢セリカC
世界耐久選手権(WEC)参戦のためにトムスと童夢が共同開発した、日本初のグループCカーが、このトムス・童夢セリカC です。
WEC参戦と言っても、富士で行われたWEC-JAPANのみの参戦でしたけど……
セリカと名乗っている様に、販売戦略から市販車であるセリカのイメージを残す為、ルーフラインにA60系セリカのイメージを残しています。
確かにセリカっぽいですが、4T-G型 2.1リットル直4ツインカムターボエンジンをミッドに搭載した、純然たるCカーでした。
1983年 トムス・83C
前年の トムス童夢・セリカC は、販売戦略上から セリカを名乗り、スタイリングもセリカを思わせるものでしたが、トムス・83Cは いかにも という本格的なCカーとなりました。
エンジンは、引き続き トヨタの4T-Gを搭載。
ちなみに、共同開発された童夢のマシンは フォードのV8エンジンを搭載、カウルの形状も異なるなど、姉妹車とは言え トムス・83Cとは別の車でした。
1984年 トムス・84C(童夢・84C)
前年の83Cは ポルシェ956の亜流って感じのスタイリングでしたが、84Cではヘッドライトを地面ギリギリまで下げるなど、独自色の強いマシンでした。
この、他車には見られない流麗なスタイリングが、私をトムス好きにしたのです。(まぁ、スタイリングが気に入ったのなら、好きになるべきは『童夢』なんでしょうけどね)
なお、この年のマシンは、童夢もトヨタ製エンジン(4T-G)を搭載、マシン形状も相違はなく、完全な兄弟車となりました。
童夢・84C
1985年 トムス・85C(童夢・85C)
遂にル・マンに挑戦する事になったのが、この年のマシン トムス・85C(童夢・85C)でした。
もっとも、ル・マン出場車は それぞれ トムス・85C-L(童夢・85C-L)となりますが……
なお、ルマン挑戦時のドライバーには、今ではHONDAのイメージが強い中嶋悟選手も含まれていて、TOYOTAのステアリングを握っていました。(ちょっと意外でしょ?)
この年、国内では 5チームが この85Cを走らせました。
1986年 トムス・86C(童夢・86C)
レイトンハウス・カラーですよ!(懐かしぃー!)
この年から搭載エンジンが、同じ直4ではありましたが、4T-G から 3S-G に変更されました。(但し、ル・マンは まだ4T-Gでしたが…)
ル・マンでは、トムスの36号車が 深夜にエンジントラブルでリタイア、童夢の38号車が一時は7位を走行していたものの、残り1時間でリタイア。
なお、38号車のリタイア時の周回数は295周で、これは 日本勢最上位となったマーチ・85G/日産の284周を上回るものでした。
ル・マン終了時に、「日本車最上位!」と自慢げに言う日産のCMを見るにつけ、「レースもしないで(攻めないで)完走しても偉くねえよ!」って思ったっけ。(しかも、自前のマシンのトムス/童夢と違って、マシンは英国のマーチ製だったし……)
1987年 トヨタ・87C
この年のル・マンから、トヨタのワークス参戦となりました。(チーム名はトヨタ・チーム・トムス)
ワークスとして初参戦となったル・マンでは、散々な結果に終わります。
36号車は開始1時間半でガス欠で、37号車は5時間半後にオーバーヒートでリタイアに終わりました。
ちなみに、日本車勢の最上位は IMSA GTPクラスで参戦した マツダ・757の7位でした。
1988年 トヨタ・88C
1987年で童夢が国内レースからも撤退、今季から国内でもトムスの2台体制となりました。
ル・マンでは、昨年の惨敗で懲りたのか、消極的な作戦を取ります。
予選では、36号車が8位、37号車が10位と好位置を得ましたが、決勝レースでは予選より20秒も遅いペースで走る作戦を取りました。
チーム側は、このペースでもシングルフィニッシュは出来ると踏んでいましたが、結果は12位。
一応、日本車勢の最上位ではありましたが、優勝したシルクカット・ジャガーとの差は43周もありました。
なお、この年、完全なレース用エンジンである V8 3.2リッター ツインターボエンジンを搭載した トヨタ・88C-V がシーズン途中から投入されました。
トヨタ・88C-V
1989年 トヨタ・89C-V
新開発の V8 3.2リッター ツインターボエンジンが全くものにならず、この年のル・マンは再び惨敗に終わります。
なお、日本車初の優勝が期待された日産も、出場した4台が全滅。
マツダが、7位、9位、12位と一人気を吐いていました。
1990年 トヨタ・90C-V
丸形4灯ヘッドライトを配したフロント部は、他のマシンとの違いがみられない、没個性的なマシンになりました。
惨敗に終わった昨年の経験から、再び完走を目標とする消極的作戦を取る事になります。
その一方で、この年のル・マンのポスターにも選ばれた日産は、優勝候補の一角(本命?)であり、実際、予選でポールポジションを獲得していました。
決勝前夜に記者会見を開き、優勝宣言までした日産でしたが、その実情は、陣営内の対立が深刻でした。
ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ(NME)、ニッサン・パフォーマンス・テクノロジー(NPTI)、ニスモの3陣営が、他陣営への情報提供をせずに、問題把握とその対応策の横連携を行わず、その結果、対応出来た筈のトラブルでリタイアを喫していきます。
何とか日本車最上位の5位は得たものの、優勝宣言までした日産にとっては惨敗であり、暫くル・マンから離れる事になってしまったのです。
一方で、完走が目標だったトヨタは、望外な6位を得るのですから分からないものです。
1991年 トヨタ・91C-V
自滅に近い形で優勝を逃した日産は、この年からル・マン参戦を取りやめました。
一方のトヨタも、この年のル・マン挑戦は行いませんでした。
エンジンは 90C-V と同じ V8 3.6リッター ツインターボでしたが、結局、このエンジンがモノにならなかったって感じですかねー。
ちなみに、この年のル・マンは、マツダ787Bが 日本車初の総合優勝を飾りました。
長くなってきたので……
-つづく-