
日曜日という事で、いつものように大黒PAに行ってきました。
今日は(と言っても、コタツの罠に嵌った為、日付が変わってしまいましたが…)この時期としては暖かく、屋外で駄弁るには最適な気候でしたね。
なお、今朝は寝坊した為(そっか、朝も睡眠関係でやらかしてたっけ…)、大黒PA到着が10時頃と出遅れてしまい、「停める場所、あるかな?」とドキドキでしたが、いつものメンバーで並べる事まで出来ちゃいました。
始めは「天気も良いし、みんな他の場所に遊びに行っているのかな?」と思いましたが、もしかしたらオミクロン株によって急激に感染拡大が進んでいる為、自粛している人がいるのですかね?
かく言う私も「そろそろ飲食は控えようかな…」とも思っております。
飲食……リバイバルカフェは?(屋外なら“密閉”にならないから 大丈夫かなぁ…)
今回のブログは、市販スポーツカー編はお休みして、ロータスF1について語りたいと思います。
今はもうF1のフィールドでロータスの名を聞くことは出来ませんが、かつては F1界でロータスと言ったら フェラーリに並ぶ名門チームでした。
本連載でも既に語っていますが、ロータスは元々レーシングカー製造がルーツの会社であり、当然のようにレース界の頂点であるF1 GPに参戦する事となります。
1958年、ロータスは
グラハム・ヒルを擁して F1 GPに参戦を開始します。
ロータス12
そして、参戦3年目の1960年、
スターリング・モスの手により、ロータスのF1 初勝利がもたらされたのです。
ロータス18
最終的に、モスが
ロータス18で2勝を挙げたのですが……実は モスが所属していたのはロブ・ウォーカー・レーシングであり、チーム・ロータスではありませんでした。(汗)
しかし、1962年からは、本家のチーム・ロータスが黄金期を迎えます。
まず1962年に、天才レーサー
ジム・クラークによって3勝を挙げます。
1963年は実に
10戦中7勝、しかも
7回のポールポジション、表彰台は10戦中9回という圧倒的な成績でチャンピオンを獲得しました。
この時のマシン
ロータス25は、F1に初めてモノコック構造を持ち込んだ、革命的と言って良い名車です。
ロータス25
ジム・クラークは 1965年にも
開幕7戦目にして6勝を挙げるという圧倒的な強さで、早々にチャンピオンを決定、しかも2戦目のモナコGPは 同じ日に開催されるインディ500参戦の為に欠場していたので、実質的に
無敗でチャンピオンを決めたのです。
ちなみに、
ロータス38で参戦したインディ500もポールポジションから独走優勝しています。
ロータス38
え、と、話をロータスF1に戻しますと……(汗)
1967年デビューの
ロータス49では、その後のF1スタンダードエンジンとなる
コスワースDFVエンジンを搭載、ドライバーも
ジム・クラークに加えて
グラハム・ヒルが復帰。
1967年はギアボックストラブルが多発しリタイヤが多かったものの、クラークが4勝、
出走した9戦全てでポールポジションを獲得と速さは見せました。
翌年の49Bからは、F1で初めてのスポンサーカラーとなる
ゴールドリーフのカラーリングを纏って走り、ヒルがチャンピオンを獲得しました。
ロータス25B
なお 1968年は、開幕戦でゴールドリーフカラーになる前のロータス25で勝利したジム・クラークが、第2戦スペインGPまでのインターバル期間に出場したF2のレースで事故死してしまいます。
クラークとチャップマンは、単なるドライバーとチーム監督の関係ではなく、盟友とでも言うべき関係であり、クラークの死で受けたチャップマンの悲しみは深く、翌年の1969年製造のロータス全車のエンブレムを1年間シンボルカラーの緑から黒にかえて喪に服したのです。
1970年には、ラジエーターはフロントにあるという常識を覆す サイドラジエータ―を採用した
ロータス72が登場、ボディ形状も 葉巻型からクサビ型へ変わり、一気に近代的なスタイリングになりました。
ロータス72
ロータス72では、1970年に
ヨッヘン・リント、1972年に
エマーソン・フィッティパルディがチャンピオンとなりました。
ロータス72D
(ちなみに 1972年の この72Dから JPSカラーになりました)
1977年、ロータスはまたしても革新的なマシンを登場させます。
ロータス78で F1界に
グラウンド・エフェクト・カーという理論を持ち込んだロータスは、翌年の1978年には
ロータス79が無類の強さを発揮。
ロータス79
マリオ・アンドレッティと
ロニー・ピーターソンが8勝・11ポールと このシーズンのF1を支配します。
3戦を残した状態でチャンピオン争いはこの2人に絞られていましたが、第14戦イタリアGPでのアクシデントでピーターソンが帰らぬ人となってしまいます。
アンドレッティにとって、チームメイトの死によってのチャンピオンが決まるという、悲しい栄光になってしまったのです。
その後も ロータスは次々と新機軸をF1界に持ち込みますが、レギュレーションの壁や 信頼性の問題によってなかなか結果は出せませんでした。
ロータス88
グラウンド・エフェクト効果の最適化の為に 88でツインシャーシ構造を持ち込んだものの、「空力性能に関連するボディワークはばね上に完全に固定されなければならない」というレギュレーションに抵触してしまう事から、実戦投入は叶いませんでした。
もっとも、ロータスにしてみれば、88開発中に追加されたレギュレーションであり、88のツインシャーシを狙い撃ちしたレギュレーションであり、納得しがたいものがあったのでしょう、数戦に渡り88を持ち込んだり、改良型88Bを開発したり、抗議の意味で第4戦サンマリノGPを欠場したりしましたが、最後まで出場が認められる事はありませんでした。
ロータス92
1983年、F1初のアクティブサスペンションを採用した92は ナイジェル・マンセルのみが使用しました。
ただ、このシーズンではコスワースDFVからルノーのターボエンジンへチェンジする過渡期でもあり、エリオ・デ・アンジェリスは開幕からルノーエンジン搭載の93Tを使用、また後半戦は両者ルノーエンジンを搭載した94Tにチェンジしており、92は前半8戦のみの出走に留まりました。
ちなみに93T、94Tは いずれもノーマルサスペンションであり、また92もアクティブサスペンション(*)で走ったのは開幕2戦のみで第3戦からはノーマルサスペンションに戻されました。
そして、この92(及び 93T)がコーリン・チャップマンが関わった最後のF1マシンとなったのです。
*:
アクティブサスペンションは1987年に99Tで再挑戦し、セナの手に寄り2勝していますが、制御用CPUの演算能力が低い為「ワンテンポ遅れてサスペンションが動く」状態で、完成度の低いものでした。
その為、セナは サスペンションの動きを予測して、ワンテンポ速い操作を行っていたといいます。
結局、アクティブサスペンションがモノになったのは、1992年のウィリアムズFW14Bまで待たねばならなかったのです。
チャップマンの死で、低迷が決定的になった感もあったロータスですが、アイルトン・セナの獲得で 一時期復活したかに見えました。
しかし、ロータスのF1での勝利は、セナがロータス在籍3年間であげた7勝が最後となったのです。
前年チャンピオンのネルソン・ピケを迎えた1988年でしたが、同じホンダ・エンジンを搭載したマクラーレンに歯が立たず。
1989年にはホンダを失い、1990年いっぱいでキャメルのスポンサーも失ったロータスは 1991年の参戦も危ぶまれる状態にまでなっていました。
何とか前年のマシンの改良型 102Bで参戦にこぎつけますが、メインスポンサーは無し。(日本のタミヤやコマツといった小口スポンサーが付いていたのみ)
ミカ・ハッキネンやジョニー・ハーバートという速いドライバーがいた事もあり、カストロールのメインスポンサーも付いて好転しかけた時期もありましたが、トップチームに比べたら資金繰りも苦しく、速さは見せるものの、トラブルで成績が残せない状況が続きました。
そうなると、ドライバー(ハッキネン)も去り、スポンサー(カストロール)も去り、ペイドライバーを乗せ始めると いよいよ成績は期待できなくなるという悪循環。
結局、1994年を最後に チーム・ロータスはF1フィールドから消える事になってしまったのでした。
輝かしい栄光の歴史を持つ チーム・ロータス。
オジサンたちにとって、決して忘れる事の出来ない名門チームなのです。
【オマケ】
ロータスでチャンピオンを獲得した、錚々たる面々。
ジム・クラーク
グラハム・ヒル
ヨッヘン・リント
エマーソン・フィッティパルディ
マリオ・アンドレッティ
【さらに オマケ】
かつてロータスで走り、ロータスではチャンピオン獲得できなかったものの、その後チャンピオンを獲得したドライバー。
ナイジェル・マンセル
アイルトン・セナ
ミカ・ハッキネン