
ちょっと間が空いてしまいましたが、連載ブログ(笑) 「グループB」シリーズの本編を再開します。
ところで、前回はどの辺まで書いてたっけ?(汗)
あー、グループBが
ミッドシップ+4WDだらけになったところまでか。
1985年、圧倒的な強さでチャンピオンになった プジョー205ターボ16。
そのプジョーを追って、ミッドシップ4WDモデル デルタS4を出したランチア。
そして 1986年になると、フォードやMG(ブリティッシュ・レイランド)からもミッドシップ4WDモデルがデビューしました。
グループB車両は、どんどん過激さを増し、先鋭化していきました。
1トンそこそこの車重に500ps前後の大パワー、そして4WDによるトラクション性能により、加速性能はF1をも凌ぐほどのモンスターマシンとなっており、危険なレベルにまで達していました。
事実、前年の1985年には、第5戦ツール・ド・コルスではアッティリオ・ベッテガの運転するランチア ラリー037がコースアウト、立ち木に激突し、死亡する事故が発生。
第8戦のアルゼンチンラリーでは、プジョーのバタネンが直線でコントロールを失い大クラッシュ。
一時は再起不能とも言われる程の重傷を負いました。
続く1986年にも、第3戦ポルトガルラリーでフォードのヨアキム・サントスが、コース上にいた観客を避けようとして観客席に約200km/hで突っ込み、死者3名を含む40人以上の死傷者を出す大事故が発生。
重大な事故が立て続けに起きていたにも拘らす、FISAは主催者側の安全管理の問題(観客のコース進入を許した)に原因があるとし、グループB車両の危険性を問題視しませんでした。
その一因には、高性能化したマシンで争うWRC人気もあり、規制どころか、さらなる高性能化まで計画されていたのです。
それが、
グループS です。
FISAは、WRC人気をさらに盛り上げるべく、参戦コストを抑え、また新規参入メーカーを呼び込む為にも、ホモロゲに必要な台数をグループBの200台から 僅か10台に抑えた グループS へ移行させる計画だったのです。(グループSに関しては、また別の機会で…)
グループSに移行される事によって グループBは終焉に向かう……筈でした。
しかし…
1986年の第5戦ツール・ド・コルスで、再び悲劇が起こってしまいました。
ランチアの若きエース、ヘンリ・トイボネンが事故死してしまったのです(コ・ドライバーも同時に命を落としている)。
トイボネンのデルタS4は、ノーブレーキで抜けられる筈の緩いコーナーでコースオフ。
崖から転落したデルタS4は 直後に爆発炎上、軽量化素材のボディはもちろん、マグネシウム製ホイールも含めて全焼。
燃え残ったのは、パイプ状のスペースフレームとサスペンションのみという凄惨さでした。
第3戦ポルトガルラリーに続く死亡事故、そして ランチアにとっては 昨年のベッテガを事故死で失ったツール・ド・コルスで、またしてもドライバーを(今回はコ・ドライバーも)事故死で失う事になってしまったのです。
トイボネンのデルタS4は 1985年のベッテガのラリー037と同じカーナンバー”4”をつけていましたが、まさか 同じ運命が待っているとは思わなかったでしょうね。
トイボネンの死亡事故を受けてFISAは緊急に会議を招集、このシーズン限りでグループBでのラリーの中止、そして グループS もキャンセルされ、翌年からは下位カテゴリーであるグループAでの選手権開催を決めたのでした。
1982年に グループ4との混走で始まった グループBでのラリーですが、その過激な性能により一気に花開いた華やかさこそありましたが、その危険性から僅か5年で終了してしまった、いわば『時代の徒花』のようなカテゴリーでした。
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2024/04/05 02:18:28