
昨日、ジャン・アレジ親子の話題をブログにしました。
その中で、アレジ(もちろん、ジャンの方)の事を『レジェンド』と書きました。(← 世界初のレベル3自動運転車の事じゃありません)
通算成績がわずか1勝のドライバーがレジェンド? と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、アレジはマシンに恵まれませんでした。
そこで、以前、
アイルトン・セナ や
フェルナンド・アロンソ でもブログ記事にしたように、“ジャン・アレジが駆ったF1マシンたち” を振り返ってみたいと思います。
なお、アイルトン・セナの駆ったマシンたち には
番外編 もあります。
1989/1990年、ティレル 018
1989年、アレジは エディ・ジョーダンのチームで国際F3000を戦っていました。
そんなアレジにチャンスが訪れます。
ティレルが第7戦フランスGPからキャメルのスポンサードを受ける事になるのですが、そうするとマールボロドライバーのミケーレ・アルボレートを使い続けるわけにはいかなくなります。
そこで、アレジに白羽の矢が立ちます。
このチャンスを、アレジはモノにします。
デビューレースでいきなり4位入賞を果たし、注目を浴びました。
ただ、アレジはチャンピオン争いをしていた国際F3000を優先させたため、F1は数戦を欠場しています。(なお、アレジはこの年の国際F3000チャンピオンを獲得しました)
翌年、アレジはティレルでF1フル参戦。(ちなみに、チームメイトは中嶋悟)
ティレルは、1990年も序盤(2戦)を 018 で戦いました。
このマシンでアレジは、開幕戦のアメリカGPではスタートでトップに立ち、34周目までラップリーダーとなります。
35周目にマクラーレンのアイルトン・セナに抜かれたものの、次のコーナーで再び抜き返すというバトルを演じたのでした。
1990年、ティレル 019
ノーズは低いものという常識を覆したハイノーズを初めて採用したマシン。
床面(ディフューザー)でダウンフォースを得る為にはなるべく多くの空気を床面に流す必要があり、理論的にはハイノーズの有効性は分かっていたものの、実際にその姿を見た時は衝撃的でした。
低い位置にあるフロントウィングをハイノーズに取り付ける為、ステーを斜め下に伸ばした形状が旧いアメリカの戦闘機「F4U コルセア」のような形状だった為、「コルセアウィング」と呼ばれました。
このマシンのコンセプトは、翌年以降、他チームにも広がっていきました。
ティレル 019は、ワークスチームが搭載するハイパワーなエンジンではなく、非力なフォードV8(DFR)エンジンを搭載していましたが、その優れたエアロ性能などから、アレジが第4戦モナコGPでも2位に入ったものの、それ以降は中嶋が6位を2回するだけに終わります。
まぁ、この年はマシンがどうのと言うより、ティレルの履くピレリタイヤと 他の有力チームが履いていたグッドイヤーとの性能差が大きかったですね。
とにかく暑さに弱く、シーズン序盤こそグッドイヤー勢より速かったものの、シーズンが進むにつれてメロメロになりました。(汗)
1990年の序盤に見せた印象的な走りの為、シーズンが深まる前に来年の移籍交渉が始まり、アレジはウィリアムズと仮契約します。
しかし、フランス人とは言え、両親がイタリアのシチリア出身と言う事もあり、アレジにとっては後から話を持ってきたフェラーリからの誘いは断り難いものがありました。
結局、フェラーリがウィリアムズから契約を買い取る形でフェラーリ入りが決まったのです。
1991年、フェラーリ 642/643
1991年、フェラーリは序盤の6戦を昨年のマシン 641の発展型である 642で戦います。
1990年にプロストが5勝し、チャンピオン争いを繰り広げた名車(ちなみに、マンセルも1勝している)の発展型ではあったものの、好調だったのは開幕前のテストまでで、シーズンが始まると失速。
特に第3戦サンマリノGPは悲惨でした。
雨の中、プロストがフォーメーションラップ中にスピンし、スターティンググリッドに着くことなくそのままリタイア。
そして、アレジまでもが2周目にオーバースピードでコースアウト、グラベルに嵌りリタイア。
地元のフェラーリが2台揃ってレース序盤に姿を消してしまったのでした。
第7戦からは、643 が導入されました。
アレジが前年に乗っていた ティレル 019の設計にも関わっていたジャン=クロード・ミジョーが設計に参画し、フェラーリにもモノコック先端が持ち上げられたハイノーズが導入されました。
満を持しての新型投入だった 643 ですが、劣勢を挽回することは出来ませんでした。
不甲斐ないチームに対して批判的な言動を行っていたプロストは、日本GP後にチームから解雇されてしまいます。
結局、フェラーリは5シーズンぶりに未勝利に終わりました。
1992年、フェラーリ F92A
意欲的な二重底(ダブルデッキ)構造を持つ F92Aは、サイドポンツーンの吸気口がフレッシュエアを取り込めるようにボディ面から離されている事もあり、まるでジェット戦闘機の様な外観を持っていました。
しかし、その意欲的な構造も、狙ったような効果を得ることが出来ませんでした。
持ち上げられたサイドポンツーンとアンダーパネルとの間の隙間にフレッシュエアを通してリアエンドにより多くの気流を送り込み、ディフューザーの排出効率を高める……そう、ダブルデッキはハイノーズと同じ狙いだったのです。
しかし、ダブルデッキ構造は、ラジエータなどの補器類の搭載位置が高くなる為、重心も高くなってしまいナーバスな操縦性となってしまいました。
1992年も未勝利に終わり、コンストラクターズ獲得ポイントはわずか21点しか獲得できませんでした。
1993年、フェラーリ F93A
チームメイトは、マクラーレンからフェラーリに復帰したゲルハルト・ベルガーになりました。
カラーリングも、フェラーリ黄金期の1970年代(フェラーリ・312T)を再現した、白いストライプが追加されました。
F93A で、フェラーリもライバルに追いつくべく、アクティブサスペンションを採用します。
しかし、開発期間が短かったためか、トラブルが多発、16戦中、アレジが9戦、ベルガーが7戦リタイアに終わります。
1993年も未勝利に終わり、フェラーリは3年連続で勝利から見放されたのです。
1994年、フェラーリ 412T1/412T1B
640シリーズを設計したジョン・バーナードがフェラーリに復帰し、設計したマシン。
特徴的なNACAダクト状のインテークなど革新的なマシンでしたが、冷却系統に問題があり(汗)、結局、シーズン途中でインテークが一部拡大されました。
この年、第3戦サンマリノGPでのローランド・ラッツェンバーガー、そして アイルトン・セナの事故死があった為、レギュレーション改訂が行われました。(ちなみに、アレジも開幕戦後のテストで負傷。第2戦パシフィックGPと第3戦サンマリノGPを欠場しています)
レギュレーション改訂に対応したBスペックで、サイドポンツーンは平凡な形状となりました。
バンク角度を75度まで拡大した改良型エンジンはパワフルで、高速コースでは速さを見せ、第9戦ドイツGPでベルガーがフェラーリに3年半ぶりの勝利をもたらしました。
ただ、信頼性不足は相変わらずで、第12戦イタリアGPで首位を走っていたアレジの初勝利は、ギアボックストラブルで消えました。
1995年、フェラーリ 412T2
1992年から続いたエアロを攻めたマシンは、期待した効果は得られず、逆に神経質なマシンとなってしまっていた為、1995年は打って変わって保守的なマシンとなりました。
その結果、ウィリアムズとベネトン2強を上回る事は出来ずとも、食らいつくまでは出来るようになります。
そして、第6戦カナダGPで、遂にアレジは初勝利を迎えたのです。
ま、ベネトンのミハエル・シューマッハのマシントラブルで得られたトップチェッカーではありましたけど……。
カーナンバー27のフェラーリに乗るアレジが、ジル・ヴィルヌーヴの名がついたサーキットで勝利、また、決勝が行なわれた6月11日はアレジ自身の誕生日でもあるなど、因縁尽くめの勝利でした。
ただ、カナダGP以外でも 412T2がトップを走る事が何戦かあったものの、トラブルが勝利を妨げ、この年はこの1勝のみに終わります。(アレジは17戦中8戦リタイア)
フェラーリで初勝利したアレジでしたが、チームはシューマッハを選びます。
第11戦ベルギーGP前に、フェラーリは1996年にミハエル・シューマッハとの契約を発表、同時にベネトンもアレジとの契約を発表します。(その後、ベルガーもベネトンへの移籍を発表、チーム間でドライバーをトレードする形になりました)
1996年、ベネトン B196
アレジは、勝利は無かったものの、2位4回、3位4回など、手堅くポイントを稼ぎ、フェラーリ時代を上回るシリーズ成績を残します。
但し、シューマッハが勝ちまくり、チャンピオンを獲得していたチームにとって、未勝利は許容できるものではなく、アレジの評価は低くなっていきます。
ただ、それまでのベネトンのマシンは「シューマッハ・スペシャル」的な尖ったマシンであり、シューマッハ以外のドライバーに同じ成績を上げろというのは酷なものでした。
1997年、ベネトン B197
ベネトンを支えた、ロス・ブラウン、ロリー・バーンが去り、ベネトンは急速に競争力を失っていきます。(ちなみに、ロス・ブラウン、ロリー・バーンはフェラーリに移籍、シューマッハと共に ベネトン黄金期の再来をフェラーリにもたらしました)
ベルガーが第10戦ドイツGPで優勝するものの、アレジは勝利を挙げられませんでした。
ベルガーが引退を表明し、アレジもチームを去る決意をします。
勝てないアレジの評価は下がり続けましたが、実際にはベネトンの競争力が低下していった為であり、1996、1997年とコンストラクターズ3位だったベネトンは、翌年には5位にまで落ちてしまうのでした。
1998年、ザウバー C17
アレジは 12回完走し、そのうち4回入賞、第13戦ベルギーGPでは3位表彰台を獲得しました。
まあ、中堅チームのザウバーではこれが精いっぱいだったでしょう。
チームメイトのジョニー・ハーバートを圧倒しただけ、実力を示したと言えるかもしれません。
1999年、ザウバー C18
チームメイトは、ブラジルのお坊ちゃま ペドロ・ディニスでした。
C18は信頼性不足で上位入賞がままらなかったものの……ディニスに負けちゃダメだろっ!(汗)
2000年、プロスト AP03
1991年にチームメイトであったアラン・プロストのチームに移籍したアレジ。
デザイナーには、あのジョン・バーナードも名を連ねていましたが、マシンは最悪。
車重は重く、信頼性も欠けていて好成績など望むべくもない。
結局、チームは1ポイントも得ることができず、コンストラクターズランキングでは同じく無得点のミナルディにも完走率で下回ったため、最下位でシーズンを終えました。
2001年、プロスト AP04/ジョーダン EJ11
プジョーエンジンも、ゴロワーズなどの有力スポンサーも失ったプロスト。
何とか昔のツテで(?)フェラーリエンジンを得て(ちなみに、フェラーリではなく「エイサー」を名乗った)、性能的には2000年を上回ることが出来、アレジは第12戦までに4ポイントを獲得します。
しかし、カナダGPで5位入賞した際、観客席にヘルメットを投げ入れたところ、一緒に高価な無線装置を失くしてしまったことにプロストが激怒、両者の関係は悪化します。(高価ったって何千万円もするわけじゃないだろうに……まあ、プロストGPは このシーズンを以て破産、消滅したくらいですから「たかが無線装置」じゃなかったんでしょうね)
結局、アレジはドイツGPを最後にチームを離脱しジョーダンに移籍。
EJ11は、昨年までの無限ホンダ エンジンから、ワークス仕様のホンダエンジンが搭載されていたこともあって、プロスト AP04よりも格段に戦闘力のあるマシンでした。
アレジは移籍2戦目のベルギーGPで6位入賞したのを始め、ジョーダンで走った5戦中4戦を10位以内で完走するなど、手堅い走りを見せました。
アレジはジョーダンとの2002年の契約延長を望みましたが、チームがホンダエンジンの供給を巡って佐藤琢磨との契約を選んだ為、この年を以て引退する事となったのです。
アレジの選択って、ことごとく裏目に出ている気がしますね。
1991年に、もしウィリアムズに移籍していれば、その後 黄金時代を迎えるウィリアムズで30勝くらい出来ていたかもしれません。
フェラーリからベネトンへの移籍も、シューマッハが主要スタッフを根こそぎフェラーリに引き連れて行ってしまった為、チャンピオンチームへの移籍だったにも拘わらず、まるで出がらしの様なチームになっていました。
プロストへの移籍は、泥沼に嵌っていたチームへの移籍で、まともな成績など期待出来る筈もなかった。
ジョーダンへの移籍にいたっては、来期の契約延長の可能性の無いチームへの移籍であり、まるで引退への花道を飾る為の移籍の様でした。
結局、アレジが一番輝いていたのは、1990年の開幕戦 アメリカGPだったかもしれませんね。