
先日、無冠の帝王と呼ばれた、サー・スターリング・モス氏の訃報をブログにしましたが、今日はF1の歴史に燦然と輝く名レーサーたちの事を話題にしようと思います。
なお、あくまでも個人的な意見ですので、「あの選手がいないぞ!」というようなクレームは受け付けません。(汗)
まず1人目は…
ファン・マヌエル・ファンジオ
5度のワールドチャンピオン獲得は、M・シューマッハに破られるまでは、不滅の記録と思われていました。
F1が始まった1950年から参戦していたファンジオ。
ただ、記念すべきF1の第1戦にファンジオが出場した時、既にファンジオは38歳でした。
そんなファンジオは、1958年に47歳で引退するまで51戦に参戦、24勝したわけですから勝率47.1%というとんでもない勝率を記録しています。
まさに、伝説のドライバーと言うのにふさわしいドライバーですよね。
スターリング・モス
先日のブログに書いた通り、チャンピオンこそ獲得できませんでしたが、ファンジオに並ぶ、伝説のドライバーです。
年間8、9戦だった当時、通算16勝を挙げていますから、ファンジオ程ではありませんが素晴らしい記録ですよね。(先日のブログにも書きましたが、マシンには恵まれていませんでした)
アルベルト・アスカリ
順番的には、本来ならモスよりも先に書くべきなんでしょうけど、ファンジオとモスは、セットにしたかったので、順番が逆になりました。
イタリア人のアスカリは、フェラーリ、マセラティ、ランチアと、生涯イタリア車を駆っていました。
特に1952、53年は、アルファロメオが撤退した事もあり、フェラーリを駆るアスカリが出場15レース中、11勝(P.P.11回)と圧倒的な強さを誇りました。
そんなアスカリですが、実のところ、私の抱くアスカリの印象は 1955年のモナコGPで、レース中にシケインでクラッシュ、マシンごと海に落ちてしまった事なんですよね。(汗)
ジャック・ブラバム
英国王室からサーの称号を戴いたサー・ジャック・ブラバム(出身はオーストラリア)は、3度のワールドチャンピオンを獲得しており、3回目は自ら設立したチームでチャンピオンとなりました。
自分の名を付けた自分のチームで出走してチャンピオンを獲得したのは、ブラバムが唯一の例です。
ただねぇ、個人的にはブラバム・チームの印象が強すぎて、ドライバーの印象があんまり無いんですよねー。(汗)
なお、ブラバム・チームはF2も行っており、ホンダエンジンを搭載したブラバム・ホンダを駆り、1966年には14戦中11勝を記録しています。
ジム・クラーク
ジム・クラークの活動時期は1960-1968年ですから、当然ながら私は当時を知りません。
しかし、私の好きなレーサーであります。
フライング・スコットと呼ばれたクラークは、天性の速さを持つレーサーであり、それはアイルトン・セナと並び称されているのです。
そして、もう1つクラークが好きな理由は、生涯 ロータスで過ごしたからです。(というわけで、ロータスの創始者 コーリン・チャップマンとの2ショットを使わせて頂きました)
今でこそ、ロータスと言えばF1の名門と思われていますが、クラークが初めて乗った時はまだ名門ではありませんでした。
そんなロータス一筋だったクラークは、1963年に10戦中7勝(P.P.7回)と圧勝。
ちなみに1シーズン7勝は、1988年にセナが8勝(年16戦)するまで、1シーズン最多勝記録でした。
セナに破られると言えば、ポールポジション通算33回も、1989年にセナに破られるまで歴代1位でした。
クラークのレーススタイルは予選で断トツのポールポジションを獲得し、決勝レースも1周目から後続を引き離して独走優勝するという先行逃げ切り型……、そのまんま、セナですね。
まぁ、数々の記録がセナによって破られたって言うのも納得と言えるでしょう。
ロータス一筋だったクラークは、F1ドライバーなのに何故かF2に出走、そこでもロータス(ロータス48)を駆りますが、1968年4月7日、ホッケンハイムリンクで事故死してしまいました。
グラハム・ヒル
御存じ、デイモン・ヒルのお父さんであります。
チャンピオンになったのは、クラークよりもヒルの方が先なんですけど、クラークの方を先にしました。
それは何故か?
それは、個人的なグラハム・ヒルの印象は、ジム・クラークと組んでロータスで走っていたって事なんですよね。
(あれっ、後ろで叫んでいるのは、もしかしてデイモン?)
なので、1962年にBRMでチャンピオンを獲得した事より、ロータスで走っていた1967年の印象が強く、よって1963年にチャンピオンを獲得したクラークの後になってしまいました。(汗)
ところで、G・ヒルと言って忘れてはいけないのが、元祖モナコ・マイスターという事。
セナに破られるまでは、5勝と言うのは最多勝記録でした。
ジャッキー・スチュワート
ようやっと存命の方が現れました。
この方も、『サーの称号』を戴いていますね。
また、ジム・クラークと同様にフライング・スコットと呼ばれた方でもあります。
F1通算27勝は1987年にアラン・プロストに破られるまで、F1最多勝記録の保持者でした。
1997年、自らのチームを興しましたが、ジョニー・ハーバートによる1勝のみに留まりました。(売却したチームは、ジャガーを経て、現在のレッドブルとなっています)
ヨッヘン・リント
リントの通算勝利数は6勝と、スーパースターと呼ぶには弱い気がします。
そんなリントを何故選んだかというと、彼がF1史上唯一の「死後にチャンピオン決定」したドライバーだという事。
リントは1970年、ロータスのエースドライバーに昇格。
名車 ロータス72を駆り、第5戦から4連勝するなど、2位以下を大きく引き離していましたが、第10戦イタリアGP(モンツァ)での予選中の事故で他界。
その後、誰もリントのポイントを上回ることが出来ずに、死後にチャンピオンが決定したのでした。
エマーソン・フィッティパルディ
ようやくカラー写真になりました。(笑)
それと、F1時代のフィッティパルディの写真を探すのに苦労しました。
フィッティパルディは、後年、CARTで大活躍しますので、結構オジサンになった写真ばかりだったのですよね。(出来たらJPSカラーの時の写真が良かったんだけど……)
フィッティパルディは、リント亡き後のロータスのエースドライバーとなります。(なんか、ロータス絡みばっかだな)
名車ロータス72は、フィッティパルディもワールドチャンピオンに導きます。
25歳273日でのワールドチャンピオンは当時の最年少記録でした。(だから、オッサンになったフィッティパルディの写真は使いたくなかったんです)
ニキ・ラウダ
3度のワールドチャンピオンを獲得したラウダ。
ライバル、ジェームス・ハントとのエピソードは、映画「RUSH」にもなっていますね。
ラウダに関しては、
過去ブログが有るので、そちらを参照願います。
マリオ・アンドレッティ
あらら、またモノクロ写真になっちゃった。
ていうか、この方こそ、F1時代の写真を探すのが大変でした。
元々がCARTの選手であり、一時期F1にも参戦したと言った方が良い選手です。
さらに、CARTではレジェンド級の選手であり、アンドレッティ一族のゴッドファーザーでもあります。
F1なんてオマケです。偉い人にはそれが…
おっと、脱線してしまいました。
一時期とは言っても、F1での活動は1968-1972年、及び 1974-1982年と、結構な年月、参戦しておりました。
出走回数は128回で、優勝回数は12回、チャンピオン獲得は1978年の1回のみと、F1のスーパースターと呼ぶには弱いのですが……
その1978年と言えば、タケラッタ少年がF1に興味を持ち始めた年なのです。
本来なら先に上げたラウダの方が圧倒的にスターと呼べるのですが、興味を持った時にはブラバムに移籍してしまっていて、旬を逃してしまっていたのです。
一方で、1978年と言えば、ブラックビューティと呼ばれたロータス79が連戦連勝していた頃。
そう、アンドレッティとロニー・ピーターソンです。
この年のチャンピオン争いは、残り3戦でこの2人に絞られていたものの、第14戦イタリアGPでのアクシデントでピーターソンが死去。
ピーターソンの死によりアンドレッティのチャンピオンが決まったのでした。(それにしても、ロータスって死亡事故が多いな)
これ以降は、1987年にフジテレビのF1中継が始まってからお馴染みのメンバーとなります。
ネルソン・ピケ、アラン・プロスト、アイルトン・セナ、ナイジェル・マンセル。(チャンピオン獲得順)
ミハイル・シューマッハ に ミカ・ハッキネン。(同上)
フェルナンド・アロンソ、ルイス・ハミルトン、 ジェンソン・バトン に セバスチャン・ベッテル。(同上)
上のセナ、プロら 4ショットを真似たと思われる写真ですが……1人だけチャンピオンじゃない人が居る。(笑)
今年は、マックス・フェルスタッペンが これらスーパースターの仲間入りをするのではないかと思っていたんですがねぇ。(今年、F1は開催できるのかな?)