
「記録より記憶に残る選手」、若干「無冠の帝王」と被るところがあるかもしれません。
ただ、「無冠の帝王」は、本来ならタイトルを獲得してもおかしくない選手だけど、何故かタイトルに縁遠かった選手。
対して、「記録より記憶に残る選手」とは、タイトル獲得の有無を問わず、そのプレースタイルに魅了された選手だと思います。
あなたなら、「記録より記憶に残る選手」と言われて誰の事を思い浮かべますか?
元大リーガーにして、阪神、日本ハムで活躍した 新庄剛志選手?
私なんかだと、やっぱりミスターですかね。
もっとも、リアルタイムでは、プロ野球を見始めた時はちょうど長嶋の引退直後で、ジャイアンツ初の最下位に終わった長嶋監督1年目だったので、その印象の方が強いのですが…。(汗)
車関係(つまり カーレース)で「記録より記憶に残る選手」といえばこの人。
ジル・ヴィルヌーブ
ジル・ヴィルヌーブと言えば、フェラーリ、カーナンバー27がすぐに思い浮かびます。
今でもティフォシに、いや、世界中で愛されているジル。
それは、そのドライビングスタイルにありました。
オーバーステアを好み、カウンターステアを当てながらマシンを横向きに滑らせて走る豪快な走りは、ラテンなイタリア人ならずとも魅了されてしまうものでした。
通算成績はP.P2回、FL8回、優勝6回、チャンピオン獲得には至っていませんから、成績的には至って普通のドライバーですが、フェラーリの総帥エンツォ・フェラーリが息子同様に彼を愛したというのですから、その素晴らしさが分かろうというもの。
1977年、マクラーレンのサードドライバーとしてF1デビュー。
この時の走りがエンツォの目にとまり、フェラーリと契約を結びます。
本来なら、翌年からの参戦でしたが、77年のエースドライバー、ニキ・ラウダがチームとの確執から離脱し、代役として終盤をフェラーリで戦います。(77年の富士で宙に舞ったフェラーリはジルでした)
1979年、戦闘力を増したフェラーリ312T4は、チャンピオンに最も近いマシンでした。
しかし、当時のエースドライバーはジョディー・シェクター。
彼にチャンピオンを獲らせる為、チームオーダーを忠実に守った結果、ジルは4ポイント差でシェクターに次ぐ、シーズン2位に終わります。
1980, 81年とマシンに恵まれなかったジルですが、1982年のフェラーリ126C2でようやく他チームと戦えるマシンを手に入れます。
そして、フェラーリの地元で行われた第4戦サンマリノGP(イモラは、イタリアGPが開催されるモンツァよりもマラネロに近い)で、フェラーリ2台が他を大きく引き離す状態でレースが進み、ピットから「SLOW」のサインが出され、トップだったジルはペースを落とします。
しかしピローニは、エースドライバーでもあるジルを追い抜き、勝利してしまいます。
そして運命の第5戦ベルギーGPへと続いていきます。(当時は、スパではなくゾルダーでした)
予選終了10分前ほどにピローニが自身の予選タイムを0.15秒上回ったのを知ったヴィルヌーヴは、再び予選アタックを行うべくコースに出ますが、ジルが戻ってくることはありませんでした。
今、ジル・ヴィルヌーヴの名は、カナダGPが開催されている、モントリオールのノートルダム島にあるサーキットの名前として残っています。
今もスタートライン上には"Salut Gilles"(やあ、ジル)とペイントされています。
ちなみに、オールドファンであるタケラッタは、「ジル・ヴィルヌーヴ」ではなく「ジル・ビルニューブ」として頭にインプットしていました。
なので、息子のジャックが出てきた時は、暫くその呼び名に慣れませんでした。(もっとも、当時は「ジャック・ビルヌーブ」でしたが)
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F1 | 日記
Posted at
2020/04/19 05:51:18