
夢半ばにして逝ってしまった喜一郎ですが、その夢は社員たちに引き継がれました。
戦後の復興期、まだまだトラックが製品の中心だった自動車業界において、トヨタは国産乗用車の開発を目指しました。
しかし、当時の国産メーカーと外国メーカーとの技術の差は歴然でした。
当時の日銀総裁に「国力の無い日本に、乗用車など無理だ。アメリカから買えばいい」とまで言われていたのです。
日産は
オースチン、いすゞは
ヒルマン、日野は
ルノーと提携し、それらのメーカーの車をノックダウン生産する事を選びます。
トヨタにも、
フォードから技術提携(≒技術供与)の話が舞い込んでいました。
しかし、トヨタはあくまで独自技術での乗用車開発を目指す事にするのです。
それは、喜一郎が自前技術に拘ってAA型を開発した様に……。
その乗用車開発の責任者となったのが
中村健也 でした。
(うーん、目つきが鋭い人だなー)
既に喜一郎が労働争議が原因で社長を辞しており、当時の技術担当取締役であった豊田英二が中村を抜擢したのでした。
それは、生産部門の社員に過ぎなかった中村が、会社の上層部に建議書を突き付け、乗用車開発を訴えていた事と関係がありました。
そう、まだまだトラックが製品の中心だった時に、会社に対して「乗用車を開発すべし」と訴えていたのが、中村健也 その人だったのです。
中村は『これは、大株主(=喜一郎の事 *)はご承知でしょうか?』と尋ね、英二が『それは当たり前だ』と返答します。(*:既に社長から退任していたので、この言い方になっています)
開発担当ではなかった中村を開発責任者に抜擢するのは、喜一郎の意向でもあったのです。
トヨタは、中村に開発の全権を託す為、新たに『主査』という肩書を与えます。
今日にも残るトヨタの「主査制度」はこの時始まったものでした。
中村は、開発技術に留まらず、デザイン、そして市場調査に至るまで その車、のちの
トヨペット・クラウンの商品開発に携わったのでした。
特徴的な観音開きドアも、「文金高島田の花嫁さんに乗ってもらう為」の拘りでした。
この観音開きドアは、開発当初はしまりが悪く、安全上の問題から長谷川龍雄(*)ら部下にも採用を反対されますが、頑なに意見を通しました。(*:後に初代パブリカ、初代カローラの開発主査となり、「80点+α主義」の開発思想を打ち出した、こちらも伝説的なエンジニア)
その他にも、当時の舗装率の低かった日本の悪路にも耐えうる耐久性を持つ
独立懸架式サスペンションや、コストダウンを実現するための生産効率の良い
スポット溶接の採用など、中村らが様々な困難を乗り越えてクラウンで実現したものが沢山ありました。
こうして、純国産技術で開発されたクラウンは 1955年に発売されました。
このクラウンが無ければ、今のトヨタは無かった、いや、日本が自動車大国となる事も無かった、そう言っても過言ではないくらいの名車、それがこの初代クラウン(RS型)なのです。
惜しむらくは、豊田喜一郎がこの車を見る事なく 1952年に亡くなってしまった事でしょうか。
もし、トヨタの独自技術だけで開発されたこのクラウンを見て、乗って走ったら何と言ったでしょうね?
初代クラウンの開発話に関しては、NHKの『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』にて取り上げられていました。(2004年、「われら茨(いばら)の道を行く」〜国産乗用車・攻防戦〜)
その後の中村さんですが、会社からの役員の要請を断ります。
あくまで技術者でいたかったんですかねぇ。
1980年にトヨタを退社した中村さんでしたが、退社後も 電気で走る自動車などの研究を続けます。
何でも 80歳を過ぎても、パソコンに向かい 自ら書いたプログラムで熱力学の計算を行っていたそうですよ。
一体 何を研究していたかというと、電気モーターでアシストする車……、そう
ハイブリッドカーです!
トヨタ自動車の黎明期に創業者の下で働き、初代クラウンを開発した男は、何と21世紀の車であるプリウスの理論まで研究していたのです!
日本の自動車業界における伝説的な技術者と言うと、
本田宗一郎とか、
桜井眞一郎などが浮かんできます。
また、前回のブログで紹介した
豊田喜一郎といった 米国自動車殿堂入りした偉人もいますが、日本の自動車業界に一番貢献した技術者は、実はこの人なんじゃないかとさえ思うのですがね。
富士重工(スバル)の
百瀬晋六もなかなかだけど、スバルらしい“技術変態”ぶりで(笑)、全ての国産メーカーに影響を与えたという感じじゃないですし。
トヨタを、そして 日本を世界に冠たる自動車大国にまで引き上げる礎となった車 クラウン、そして それを開発した男 中村健也氏のお話でした。
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TOYOTA | 日記
Posted at
2021/10/21 20:00:33