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タケラッタのブログ一覧

2021年10月21日 イイね!

トヨタ自動車物語 「トヨペット・クラウン」

トヨタ自動車物語 「トヨペット・クラウン」夢半ばにして逝ってしまった喜一郎ですが、その夢は社員たちに引き継がれました。


戦後の復興期、まだまだトラックが製品の中心だった自動車業界において、トヨタは国産乗用車の開発を目指しました。


しかし、当時の国産メーカーと外国メーカーとの技術の差は歴然でした。


当時の日銀総裁に「国力の無い日本に、乗用車など無理だ。アメリカから買えばいい」とまで言われていたのです。


日産はオースチン、いすゞはヒルマン、日野はルノーと提携し、それらのメーカーの車をノックダウン生産する事を選びます。


トヨタにも、フォードから技術提携(≒技術供与)の話が舞い込んでいました。


しかし、トヨタはあくまで独自技術での乗用車開発を目指す事にするのです。


それは、喜一郎が自前技術に拘ってAA型を開発した様に……。






その乗用車開発の責任者となったのが 中村健也 でした。


(うーん、目つきが鋭い人だなー)


既に喜一郎が労働争議が原因で社長を辞しており、当時の技術担当取締役であった豊田英二が中村を抜擢したのでした。


それは、生産部門の社員に過ぎなかった中村が、会社の上層部に建議書を突き付け、乗用車開発を訴えていた事と関係がありました。


そう、まだまだトラックが製品の中心だった時に、会社に対して「乗用車を開発すべし」と訴えていたのが、中村健也 その人だったのです。


中村は『これは、大株主(=喜一郎の事 *)はご承知でしょうか?』と尋ね、英二が『それは当たり前だ』と返答します。(*:既に社長から退任していたので、この言い方になっています)


開発担当ではなかった中村を開発責任者に抜擢するのは、喜一郎の意向でもあったのです。






トヨタは、中村に開発の全権を託す為、新たに『主査』という肩書を与えます。


今日にも残るトヨタの「主査制度」はこの時始まったものでした。


中村は、開発技術に留まらず、デザイン、そして市場調査に至るまで その車、のちのトヨペット・クラウンの商品開発に携わったのでした。


特徴的な観音開きドアも、「文金高島田の花嫁さんに乗ってもらう為」の拘りでした。




この観音開きドアは、開発当初はしまりが悪く、安全上の問題から長谷川龍雄(*)ら部下にも採用を反対されますが、頑なに意見を通しました。(*:後に初代パブリカ、初代カローラの開発主査となり、「80点+α主義」の開発思想を打ち出した、こちらも伝説的なエンジニア)


その他にも、当時の舗装率の低かった日本の悪路にも耐えうる耐久性を持つ独立懸架式サスペンションや、コストダウンを実現するための生産効率の良いスポット溶接の採用など、中村らが様々な困難を乗り越えてクラウンで実現したものが沢山ありました。


こうして、純国産技術で開発されたクラウンは 1955年に発売されました。


このクラウンが無ければ、今のトヨタは無かった、いや、日本が自動車大国となる事も無かった、そう言っても過言ではないくらいの名車、それがこの初代クラウン(RS型)なのです。





惜しむらくは、豊田喜一郎がこの車を見る事なく 1952年に亡くなってしまった事でしょうか。


もし、トヨタの独自技術だけで開発されたこのクラウンを見て、乗って走ったら何と言ったでしょうね?


初代クラウンの開発話に関しては、NHKの『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』にて取り上げられていました。(2004年、「われら茨(いばら)の道を行く」〜国産乗用車・攻防戦〜)





その後の中村さんですが、会社からの役員の要請を断ります。


あくまで技術者でいたかったんですかねぇ。


1980年にトヨタを退社した中村さんでしたが、退社後も 電気で走る自動車などの研究を続けます。


何でも 80歳を過ぎても、パソコンに向かい 自ら書いたプログラムで熱力学の計算を行っていたそうですよ。


一体 何を研究していたかというと、電気モーターでアシストする車……、そうハイブリッドカーです!


トヨタ自動車の黎明期に創業者の下で働き、初代クラウンを開発した男は、何と21世紀の車であるプリウスの理論まで研究していたのです!


日本の自動車業界における伝説的な技術者と言うと、本田宗一郎とか、桜井眞一郎などが浮かんできます。


また、前回のブログで紹介した 豊田喜一郎といった 米国自動車殿堂入りした偉人もいますが、日本の自動車業界に一番貢献した技術者は、実はこの人なんじゃないかとさえ思うのですがね。


富士重工(スバル)の百瀬晋六もなかなかだけど、スバルらしい“技術変態”ぶりで(笑)、全ての国産メーカーに影響を与えたという感じじゃないですし。


トヨタを、そして 日本を世界に冠たる自動車大国にまで引き上げる礎となった車 クラウン、そして それを開発した男 中村健也氏のお話でした。
Posted at 2021/10/21 20:00:33 | コメント(1) | トラックバック(0) | TOYOTA | 日記
2021年10月20日 イイね!

トヨタ自動車物語 「創業者、豊田喜一郎」

トヨタ自動車物語 「創業者、豊田喜一郎」昨日のブログで、さらっとトヨタ自動車の沿革に触れましたが、今回はトヨタ自動車の創業者である豊田喜一郎氏を中心に書いていきます。(ドキュメンタリーっぽくする為、本文では敬称を省略します)





1921年、豊田喜一郎は 父の興した豊田紡織に入社しました。(ちなみに、この時点では まだ“豊田自動織機”は設立されていません)


1933年9月、豊田自動織機製作所内に自動車製作部門を新設、これがトヨタ自動車の起源となりました。(トヨタグループについて書くなら もう少し触れるべきものがあるのでしょうが、ここではトヨタ自動車に関するものだけを書いていきます)


ただ、この頃の日本の自動車業界というのは、アメリカのGMやフォードが日本で生産を行っており、国産車には付け入る隙が無い様な状況でした。


さらには、同様に国産自動車開発に挑んでいた鮎川義介の日産自動車が、外国の技術や設備を導入する事で、トヨタよりも先に乗用車生産を開始していました。


そんな状況でも喜一郎は自前技術に拘り、1936年9月 遂にAA型を完成させたのでした。




また、自動車製造事業法によって 許可された会社でなければ自動車製造が出来なくなったことから、1937年にトヨタ自動車工業株式会社として独立、愛知県西加茂郡挙母(ころも)町の荒地58万坪の土地を取得し、自動車工場を建設しました。(この“挙母町”が 現在の豊田市となっています)






自前技術で乗用車(AA型)を開発したトヨタですが、AA型の生産は少量に留まります。


その理由は ”戦争” でした。


戦争中は、帝国陸軍向けのトラック生産を中心にせざるを得ず(実質的にトラック以外は製造禁止)、乗用車のAA型や派生型のAB型/AC型の生産は ごく少量に留まったのでした。


また、軍需工場とみなされた挙母工場は、アメリカ軍の爆撃対象となり、施設の1/4が破壊されたりもしました。





終戦後、生産される車は軍用トラックから復興用のトラックに変わりましたが、喜一郎は再び国産乗用車の生産を目指します。


喜一郎は小型乗用車 SA型の開発を指示、性能を誇示する為に急行列車との競争をさせたりもしましたが、GHQから許された乗用車の生産台数は、業界全体で年間300台というわずかなものでした。




会社をめぐる状況は厳しさを増すばかりで、ドッジラインによるドッジ不況、そして割賦販売での不渡りも重なり、トヨタは深刻な経営危機に陥ります。


もちろん、これはトヨタに限った話ではなく、日産、いすゞも同様であり、1949年には両社ともに大規模な人員整理と、それに伴う労働争議が発生しています。


資金不足が深刻化したトヨタも、銀行側から融資の条件として人員整理を求められました。


しかし、喜一郎は どんなに経営が厳しくなろうと人員整理はしないつもりでした。


「ウチには、余分な従業員はひとりもいない」


労働組合側も、危機を乗り越えるために 賃金ベースの1割引き下げを受け入れたのです。


しかし、事態は好転しませんでした。


そもそも、統制価格の鉄鋼、その他の材料が値上げされるのに、同じく統制価格の自動車の価格が据え置かれては、利益が出る筈もなかったのですが……。


遂に会社側も人員整理の検討をせざるを得なくなり、それを察した労働組合側との労働争議に発展、1950年4月から実に1カ月半にも及ぶ争議となったのでした。




結局、喜一郎は 今回の労働争議の責任を負う形で社長を辞任する事となったのでした。


なお、この時の銀行側から受けた仕打ちからか トヨタは銀行に頼らない経営を目指す事となり、今や「トヨタ銀行」とまで言われるほどの資金力を有するまでになっています。





深刻な経営危機に陥ったトヨタでしたが、朝鮮戦争による“朝鮮特需”によって倒産を免れました。


1952年、経営が軌道に乗ったトヨタ自動車は 再び喜一郎を社長として迎える事を決定します。


しかし……


あとは株主総会での社長就任の承認を待つだけとなっていたものの、その日が来る事はありませんでした。


1952年3月27日、喜一郎は脳いっ血で 57年の生涯を閉じたのでした。








豊田喜一郎(1894年6月11日 - 1952年3月27日)

トヨタ自動車工業株式会社 2代目社長
(トヨタ自動車創業者)



1894年6月11日 生まれ(生誕地:静岡県敷知郡吉津村山口)
1921年7月   豊田紡織 入社
1937年8月28日 トヨタ自動車工業株式会社 設立
1941年1月   2代目社長 就任
1950年6月   社長辞任
1952年3月27日 脳いっ血にて死去(享年57歳)

【主な功績】
・自動車産業の成立には割賦販売が鍵を握るとの考えから、販売会社の必要性を強く説き、
 トヨタ自動車販売を設立
 → 現在に続く強力なトヨタディーラー網の礎を築く
・東海飛行機(現アイシン)やトヨタ車体工業(現トヨタ車体)、日本電装(現デンソー)を興す
 → トヨタグループの礎を築く
・工場の開設にあたり部品メーカーとの緊密な連携や、徹底して在庫を減らすことを指示
 → 現在も続く「ジャスト・イン・タイム生産方式」
Posted at 2021/10/20 21:43:39 | コメント(2) | トラックバック(0) | TOYOTA | 日記
2021年10月20日 イイね!

今朝も晴天! ジュリアで朝活TRG!!

今朝も晴天! ジュリアで朝活TRG!!急に寒くなった所為で、ちょっと鼻風邪気味なタケラッタです。


今朝は、夜遅くまで降っていた雨も止み、雨戸を開けると外は晴天でした。


ただ……寒っ!


ゴミ捨てに外に出るのも億劫になりましたよ。(ちなみに、水曜日はプラごみの日)


定位置のゴミ捨て場にプラごみを捨てて……


ん? なんか伊豆半島の山々がやたらとくっきり見えるなぁ……昨夜の雨で空気も洗われたのかな?


あっ、もしかして!




やはり、富士山が冠雪していました!






こうなれば箱根に走りに……は行けないのよね。(平日はお仕事です)


まぁ、晴れた平日恒例の朝活TRGにでも行きますかね。


今回は、土日の雨の中を走ってくれたジュリアに、青空の下でも走らせてあげる為、相棒にはジュリアを選択。


出来れば、冠雪した富士山をバックに写真を撮りたかったのですが……




立石公園駐車場では、ベストポジションに先客がいらしてました。


まー、青い空、青い海をバックにした写真なので、それなりに絵になります。




と思ったら、一台出て行きますよ!?


すかさずジュリアを移動!



フィットのドライバーさんは、車に戻ってからもスマホを弄り始めたので、さすがに退くのを待っても無駄っぽい。(汗)


ちなみに、個人的にもお気に入りのこの角度は、『かながわの景勝 50選』なのだそうな。






「さて、帰ろうか」と思って駐車場を後にしようとしたら、いつの間にか停まっている車(フィットを除く💦)が掃けていたので、別の角度でもう一枚。




写真映りは、もう少し太陽が高く昇って明るくなった方がいいんだろうけど、平日は朝活のこの時間(7時前後)にしか来れないからねー。(土日は、駐車待ちの車でいっぱいで、まず入れないと思った方が良いです)





土日の雨がウソの様に、いい天気に恵まれた朝活に大満足です。


こうなったら“サニーマン”を襲名しようかな。(笑)


「平日限定だけどね」


えっ?
Posted at 2021/10/20 13:01:04 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2021年10月19日 イイね!

トヨタ自動車物語 「トヨタ自動車と豊田家」

トヨタ自動車物語 「トヨタ自動車と豊田家」2ヶ月前、こんな事をブログに書きました。


「一ヶ月も放置してたのかよっ!」て言われそうですが……』って。


さらに2ヶ月放置しちゃいました。(汗)


実は、ある方からトヨタの歴史に関して書いてほしい旨、依頼されていました。(物書きじゃないんだけどなー)


トヨタ自動車の様に世界的な大企業となるとエピソードも多く、色々と下調べをしてからでないと書き始められないので、ブログ投稿開始が遅くなってしまいました。


……
………

すみません、サボってただけです。(汗)





今や、世界一の自動車メーカーであるトヨタ自動車ですが、その源流が繊維機械メーカーである豊田自動織機であることは、自動車好きでなくても、いや、むしろ自動車好き以上に経済通の方々の方が知っている事だと思います。


豊田自動織機は、日本の発明王 豊田佐吉が興した会社で、その名が示す通り 佐吉が発明した自動織機を製造する会社として 1926年に設立されました。


豊田佐吉(1867.3.19 - 1930.10.30)



ちなみに、設立当時の会社名は『株式会社 豊田自動織機製作所』であり、読み方は 現在の豊田(とよた)自動織機とは違い、まだ「とよだ」でした。





そんな 豊田自動織機製作所が自動車メーカーとなっていく切っ掛けとなったのが、佐吉の息子 喜一郎でした。


豊田喜一郎(1894.6.11 - 1952.3.27)



1933年9月、豊田自動織機製作所内に自動車部を開設したのがトヨタ自動車の始まりです。


そして、1936年9月に、同社初の乗用車 AA型が発売されたのですが、この時はまだトヨダ(TOYODA)でした。





何故、『トヨダ』が『トヨタ』になったのか?


“印刷ミス”で濁点が抜けたからなんて噂も聞いた事があるのですが(汗)、実際の理由は

・濁音が無い方が 爽やかで言葉の調子もいい事
・日本語で「トヨタ」と書いた場合、総画数が縁起がいいとされる「8画」になる事
・創業家の苗字の「トヨダ」から離れることで、個人の会社から社会的企業へと発展していく事

といった意味が込められているのだそうです。






さて、トヨタに関して語ると長くなってしまうので、第一回は豊田喜一郎とAA型の登場までに留めますが、この後、豊田家(本家*)からは 喜一郎の長男の章一郎氏、





次男の達郎氏が社長を務め、





現在は、章一郎氏の長男の豊田章男氏がトヨタ自動車の社長になっているのです。




よく三代目が会社を潰すって言いますが、今のところトヨタが潰れる気配は無さそうですね。(笑)


まぁ、このネタは、社長自らスピーチにぶち込んできますけど……。(汗)


(7:25付近、ただ全編 面白いので全部見る事をお勧めします)


*:五代目社長の豊田英二氏は 豊田喜一郎の従弟(豊田佐吉の弟 平吉の二男)
  道半ばで亡くなった喜一郎の息子、章一郎を社長に迎えるの事は「大政奉還」と呼ばれ
  14年9か月にわたって社長を務めた英二氏にとっても、豊田本家を社長に迎えるのは
  悲願でもありました。
Posted at 2021/10/19 21:52:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | TOYOTA | 日記
2021年10月19日 イイね!

衆院選公示

本日、第49回衆議院議員選挙が公示となり、31日の投開票に向けて12日間の選挙戦に入ります。


また政治ネタですか?(笑)


みんカラなのに。(爆)





皆さん、今回の選挙、どう思っていますか?


私は論戦がよく見えない選挙だと思ってます。


そもそも岸田首相が訴える「成長と分配の好循環」って、何だか保守政党というより野党の主張のそれに近くないですか?


立憲民主党との違いって何?


明確な違いは「共産党と組むか、組まないか」でしかないなんて言う人も……。


まぁ、野党共闘って言っているけど、実態は一枚岩とは言えない様ですがね。



枝野代表の応援歌「欅坂46 不協和音(・・・・)」って…💦





まぁ、本来なら与野党の論戦の中心となる筈である政権の実績が岸田政権にはまだありませんから、野党も戦いにくいとは思います。


仕方なく、“自民党政権”の実績を非難するしか無い訳ですが、これも辛い。


2ヶ月前なら『コロナ対策の失敗』で有利に戦えた筈ですが、菅政権が強力に推し進めたワクチン接種が結果を出し始め、今や東京の新規感染者数は29人まで減っていますからね。





結局、枝野代表は “安倍・菅政権” の経済政策を否定する戦略に出た訳ですが……これ、失敗じゃないかなぁ。


確かに、富の偏りはありました。(私には偏ってくれませんでしたが……)


ただね、富はあったのですよ。


アベノミクスを全否定している様にしか聞こえませんが、アベノミクスの恩恵に預かれなかった人がいたという負の側面はあるものの、『アベノミクスは失敗』が国民の総意であるとは思えないんですがね。


“安倍・菅政権”のすべてを肯定する気はないですが、どちらかと言うと『アベノミクスは成功』と思っている人の方が多いんじゃないですかね。





それに、過去の政権を引っ張り出してくるっていうのは危険だと思いますよ。


何せ、旧民主の野田政権時には、日経平均株価が約8,000円まで下がってしまったという過去が有りますからねぇ。


株価が全てではありませんが、景気は間違いなく悪かった。


「アベノミクスで非正規が増えた」とか言っていますが、民主政権下では仕事そのものが無く、就職自体が難しかった。


当時、就職活動をした人なら、どちらを選択するかと問われれば答えは明らかでしょう。


過去の政権を引っ張り出してまで他を非難するより、もっと今の自分らの政策を訴えるべきだったんじゃないかねぇ。





もっとも、その政策も「財源はどこにあるの?」っていうばらまき政策じゃねぇ。


減税はうれしいけど、いずれはどこかで徴収しないといけないんですよ!?


良い例が雇用保険料で、コロナ禍での支出「雇用調整助成金」によって 潤沢だった筈の積立金が底をつき、雇用保険料の増額(倍増?)は避けられそうにありません。


政府に「金出せ!」って言ってる人の中に、いずれは自分らがその分のお金を補填する必要があるって分かってる人が何人いるのやら……


どこぞの党の党首をやってる福〇瑞〇が「大企業の内部留保に課税」とか言ってるけど、企業のお金はオマエが自由にできるお金じゃないから!


企業はね、課税が厳しい国から出て行けるんだからね。(むしろ、税制優遇して、外国資本を呼び込むくらいしないと!)


もし大企業が日本から出て行って、そこからの税収がゼロになったらどうする気だ?(どこぞの国の大統領をやってる文〇寅の二の舞になるだけだぞ)


いかん、話が逸れた。(汗)





今回の選挙、岸田首相自体も保守らしくない主張をしており、与党支持者も積極的には支持しにくい様な気がします。


ただ、野党側が戦略を誤った気がしていて、却って浮動票が岸田政権を選択しやすくなっている気もするので、案外 自民が大勝するかも。


まぁ、車変態は政治に関しては門外漢なので、選挙結果がどうなるかは予想も出来ませんけどね。
Posted at 2021/10/19 08:38:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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