
最近、ホンダについてのブログを続けて書いていました。
久しぶりに見た“プロジェクトX”の中で語られていた“ホンダイズム”の数々。
果たして、現在のホンダにあるのだろうか?
まぁ、本田宗一郎氏が亡くなってから もう30年経ちますから、現経営陣だって本田宗一郎氏から直接訓示を受けた人なんていないでしょう。
仕方ないと言えば仕方が無いのかもしれませんけど……
でもね、ホンダイズムって、本田宗一郎氏が発祥かもしれないけど、ホンダイズムを形作ったのは本田宗一郎氏だけではなく、歴代のホンダマン達だったんです。
よく本田宗一郎氏を紹介する文献で、「一代で、浜松の町工場を世界のホンダにした」と言われていますが、実際には「世界のホンダ」を創業したのは本田宗一郎であっても、「世界のホンダ」にしたのは本田宗一郎の周りにいた人々と言っても過言ではありません。
まあ、そういう人たちが本田宗一郎の人柄に惚れ、「親父の為に」と頑張ったからこそ今のホンダがあるので、そういう意味では「本田宗一郎がいなければ、今のホンダは無かった」と言うのは紛れもない事実です。
社長は本田宗一郎でしたが、会社経営(特に金勘定)は藤沢武夫氏に任せっきりで、藤沢さんがいなければ とうの昔にホンダは潰れていました。
なお、伝説となったマン島TTレース参戦も、藤沢さんの助言から始まったものなのだそうですよ。
空冷vs水冷で、水冷を推していた若手(久米是志:後の三代目社長)に対し、「砂漠の真ん中でエンストしたときに水なんかあるか!空冷だ」、「水冷といえど、最後は空気で冷やすんだから、それなら最初から空冷でいいに決まっている」と言って、頑なまでに水冷を認めなかった宗一郎。
しかし、宗一郎がゴリ押しして開発したホンダ1300は見事にコケて、ホンダは4輪からの撤退の瀬戸際に立たされます。
このピンチは、若手が推した水冷&環境エンジン CVCCを搭載したシビックがホンダを救ったのです。
初代シビック登場から間もなく、宗一郎は社長から退きます。
宗一郎が社長から退いた頃のホンダは、4輪車メーカーとして辛うじて生き残っていけそうって言う程度のメーカーでしかなかったのです。
宗一郎は、当時 45歳だった河島喜好氏(2代目社長)に後を託します。
河島さんは、米オハイオ州に現地生産工場を開設、欧州ではブリティッシュ・レイランドと提携を結ぶなど、文字通りホンダの世界戦略に道筋を付けました。
また河島さんは、ワンマン社長 宗一郎が壊しかけた人間関係を修復させてもいました。
宗一郎と関係が悪化していた中村良夫氏(初代ホンダF1チーム監督)の慰留や、
空冷vs水冷論争で宗一郎と対立、約1ヶ月出社拒否した末、退職を決意した久米是志の辞表を預かり、後にその久米を自身の後継社長に指名しました。
ちなみに、河島さんが社長を退任した時も、まだ55歳という若さでした。
久米是志氏(3代目社長)は、マン島TTのエンジン開発や、世界で初めてマスキー法をクリアしたCVCCエンジン開発を成し遂げ、社長としては 第2期ホンダF1を推し進めました。
また、もてぎサーキット建設の決断や、ASIMOやホンダジェットのプロジェクトの開始が指示されたのも、久米さんが社長の時でした。
久米さんが第2期ホンダF1を推し進めた社長なら、開発責任者だったのが川本信彦氏(4代目社長)でした。
前述のホンダジェットや、NSXのプロジェクトを社長に直談判したのもこの人です。
なお、第1期ホンダF1の撤退によって、レースエンジン開発をしたかった川本さんはコスワースへの転職を画策し、ホンダに辞表を提出。
その後 約2ヶ月出社しなかったものの、久米さんに慰留され コスワースへの転職を断念したんだそうです。
ホンダの社長って、辞表を提出したり、月単位で出社拒否しないとなれないんですかねー。(笑)
まぁ、本田宗一郎氏自身が型破りな社長だったってところもあるけれど、そんな社長に歯向かう社員がいて、その社員の力量がちゃんと認められて、尚且つ 社長にまでなっちゃうところがホンダの凄いところだと思います。
どっかのレバノン人社長に好き勝手にやられて、誰も何も反論できなかった某社とはえらい違いです。
会社を私物化と言って思い出したのが、ホンダは「親族の入社禁止」ですね。
宗一郎の長男 博俊氏も当然の様に本田技研工業には入社しておりません。
親族の入社禁止とした理由は「会社は個人の所有物ではない」と言うもの。
この辺はトヨタと大きく違うところですね。
ただ、現在のトヨタとホンダを見ていると、果たしてどちらが正解だったのかって思っちゃいますけど……
トヨタの場合、例え自分の代で利益が出なくても、将来に実を結ぶのなら投資するなんて事も出来る訳ですからね。
ちなみに、本田博俊氏は 株式会社 無限(現在の株式会社 M-TEC)を設立しました。(さらに ちなみに言うと、無限の創業メンバーには 後の4代目社長 川本信彦氏も名を連ねていました)
なお、「会社は個人の所有物ではない」と言う思想は徹底しており、親友でありソニー創業者の井深大氏から、自社の名前を苗字にせず「ソニー」としたと聞くと、ホンダという社名を改名しようとしたそうな。(流石に周りから「今さらやめてくれ」と止められました)
「会社は個人の所有物ではない」という思想は、同時に「会社は社会に貢献する存在」でもありました。
その最たるものが、遺言で「社葬はしない事」と記していた事でした。
自動車会社の創業者である自分の葬式で、大渋滞を起こして世間に迷惑をかけてはならない、という理由からでした。
徹頭徹尾、ホンダという会社は 本田宗一郎のものではなかったんですね。
そんなホンダ、本田技研工業には、本田宗一郎氏の思想が脈々と受け継がれていました。
人真似を嫌う。
エンジニアがとあるアイデアを宗一郎に提示すると「他所はやっているか?」と尋ね、「やってます」と言ったらそのアイデアは採用されなかったそうです。
人真似をするな。
楽をしたければ人真似をするのも自由だが、
そうなると企業は転落と崩壊の道をたどり始める。
その思想が、ホンダの車以外には無い、独特の魅力的な車となっていたのだと思います。(今はどうかなー)
逆に、良いものはどんどん取り入れるのもホンダでした。
空冷vs水冷論争では 少し遠回りしましたが、水冷が正解と分かると、あれだけ推していた空冷を諦め、それだけでなく 自らの社長の座も後進に譲りました。
以前、ホンダが記者会見で、カーボン・ニュートラルの為に電気自動車(BEV)と燃料電池車(FCV)に注力し、
エンジンを捨てる事に苦言を呈しましたが、それは個人的なノスタルジーから来る意見でした。
自らが持つ優位性をもスパッと切り捨てる潔さは、またホンダらしさかもしれません。
ただねぇ、BEVだと主要部品(バッテリー&モーター)は外部からの調達になるよねぇ。
それじゃ Powered by HONDA じゃないと思うんですよ。
ホンダ車からエンジンが消えるのは寂しいけど、最低限“自前の技術”で車を作って欲しいんですよね。
でないと
転落と崩壊の道をたどり始める事になりかねませんよ!?