ウィリアムズF1チームの創設者である、フランク・ウィリアムズ氏が 28日、お亡くなりになりました。(享年79歳)
なんか、今年は
6月にマンスール・オジェ、
7月にカルロス・ロイテマンと、ウィリアムズに関わった事のある人の訃報が続いたのですが、遂にフランク・ウィリアムズご本人がお亡くなりになってしまいました。
サー・フランク・ウィリアムズと言えば、そこそこF1に詳しい人でも 車いすに乗った物静かなチーム代表という印象しか無いかもしれませんね。
しかし、実際には“車椅子の闘将”と言われるほど、アツい人だったのです。
車椅子生活を余儀なくされたのは、1986年3月に起こした事故が原因なのですが(FW11のテストを行っていたポール・リカール・サーキットからレンタカーのフォード・シエラでニース空港へと走行中に事故を起こし、脊椎骨折という重傷を負ってしまいました)、まぁ飛ばす人だったようですね。
誰だか忘れましたが、冗談でホンダ関係者に「来季のドライバーは、フランクを起用すればいい」って言わしめたそうです。(もちろん、事故を起こす前ですが…)
マンスール・オジェの時にも書きましたが、サウジマネーでF1に再挑戦となったウィリアムズは、一気にトップコンストラクターになりました。
もちろん、その頃はまだ車椅子ではありませんでした。
アラン・ジョーンズ、ケケ・ロズベルグ、ネルソン・ピケをチャンピオンにしたウィリアムズは、1992年には 最強のF1マシン FW14Bで “大英帝国の息子” ナイジェル・マンセルをチャンピオンにしました。
1993年にアラン・プロストを4度目のチャンピオンにした翌年、アイルトン・セナを起用しますが、セナとウィリアムズには“イモラの悲劇”が待ち受けていました。
実は 1994年にセナを迎え入れる前、ウィリアムズは F1デビュー前のセナを1983年のテストで FW08C に乗せていたんですよね。
もし、この時 セナと契約していれば、F1界は大きく変わっていたでしょうね。
その後も、デイモン・ヒル、ジャック・ビルヌーブでチャンピオンを獲得しますが、ルノーエンジンを失ってからは徐々に勢いを失っていき……
2013年、フランクは、娘のクレアにチームの運営責任を任せ、第一線から退きます。
フランクが第一線から退いたチームは更なる低迷期を迎え、遂に2020年にウィリアムズ家はチームの株式を売却、完全にF1界から手を引いたのでした。
クレアに運営を任せた頃は、既にチームとして上昇する気配は皆無でしたが、その前まではエンジンを供給するメーカー側に翻弄されてしまっただけで、独立系コンストラクターとしては最後まで頑張っていたと思います。
“車椅子の闘将”フランク・ウィリアムズよ、安らかに。
Posted at 2021/11/29 23:10:15 | |
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